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黒猫の輝石

作者: 堕才 心
掲載日:2026/04/28

挿絵(By みてみん)


 四十歳の俺、咲山蒼は、工場の休憩室の隅のベンチに腰を下ろしたまま、煙草をくわえていた。


 昼休みの喧騒が、いつものように俺の周りを通り過ぎていく。


「昨日の世界バレー、すげえよな!あの日本代表のブロック、完璧だったぜ!」

「スパイクの角度がヤバかったろ?俺、テレビの前で思わず立ち上がっちゃったわ」

「ははっ、咲山も跳べただろ?おい、感想聞かせろよ!」


 同僚たちの声が、休憩室に響き渡る。誰かが俺の肩を軽く叩き、笑いながら話しかけてくる。でも俺は、煙草の煙をゆっくりと吐き出すだけで、視線を窓の外の灰色の空に向けたまま、一切口を開かなかった。


 返事はしない。

 頷きもしない。

 ただ、煙草の火が小さく明滅するのを、ぼんやりと見つめている。


 みんなはすぐに俺の無反応に慣れたように、話題を続けていく。

 世界バレーの熱い試合の話、選手たちの活躍、昔の俺のことをからかうような冗談。笑い声が飛び交う中、俺はただ一人、静かに座っていた。


 人と話すのも、チームプレーも、昔からだるかった。

 咲山蒼は高校時代、バレー部で誰もが振り返る端正な顔立ちと188センチの長身で「イケメン」と囁かれ、かなりモテてきた。しかし、会話に混ざるのを面倒くさがり、仲間との連携を避け、結局自分の居場所を自分で潰した。東京の強豪大学からのスカウトすら「都会は人が多すぎる」と断って、この小さな町の工場へ就職。現在も黙々と仕事を続けている。


 今も、こうして休憩室の隅で、みんなの輪から一歩外れたところで煙草をふかしている。

 声は出さない。表情もほとんど変えない。

 ただ、長身のシルエットが壁に長く影を落とし、まるで黒猫のように静かに、孤独にそこにいるだけだった。


 煙草を灰皿に押しつけ、俺はゆっくりと立ち上がった。

 同僚たちの笑い声が背中に当たる。

 誰も、俺が何を考えているかなんて、知らない。


 これが、俺の日常だ。


 人生、こんなもんか。と呟きかけながらニュースの日本代表戦を横目に足早に休憩室を後にした。


 その日、いつもの帰り道。夕暮れの路地を歩いていると、突然黒い影が飛び出した。

 近所の野良猫だ。黒い毛並みが、街灯に鈍く光る。トラックが迫っている。


 俺は無意識に、二十年以上ぶりに本気で脚を動かした。

 長年油を差されず錆びついた工場の古いコンベアローラーが、突然の衝撃で激しい軋みを上げて回転し始めるように、膝関節がぎこちなく、強引に体を前へ押し出した。油の切れたベアリングが悲鳴を上げ、眠っていた筋肉が無理やり引きずり出されるような痛みと熱が、一瞬だけ全身を駆け巡る。

 二十年以上、ただの廃棄部品のように放置されていた体が、奇跡のように反応した。


 猫を抱きかかえた瞬間、衝撃が来た。

 視界が真っ白になり、痛みすら感じない。ただ、腕の中の温かさと、黒い瞳が俺をじっと見つめていることだけがわかった。


 猫は無事だ。

 俺は、地面に倒れたまま、ゆっくりと息を吐いた。


 これが、俺の人生の終わりか。

 こんな風に一歩踏み出せば、もっと違った未来があったのかもしれない。

 もう少しだけ人と関われば……。

 後悔が、黒い波のように押し寄せる。


 そして、目が覚めた。

 そこは、見覚えのある自分の部屋。高校二年生の、春の朝。

 カレンダーは四月。十七歳の俺が、そこにいた。


 鏡に映る長身のシルエットは、まだ若々しく、黒髪が少し乱れ、鋭い二重の目が驚きに大きく見開かれていた。彫りの深い顔立ち、すっと通った鼻筋、薄く引き結んだ唇が、朝陽に長く影を落としていた。まるで、黒猫のようにしなやかで、でもどこか孤独な影。あの四十歳の俺と同じ、静かに輝く黒い毛並みのような存在。


 夢じゃない。これは……二度目の人生だ。


 俺は拳を握りしめた。

 今回は、絶対に後悔しない。一つの勇気、一歩の行動が、すべてを変える。



 学校へ向かう通学路。桜がまだ少し残る道を、ゆっくり歩く。

 バレー部の朝練の声が、体育館から聞こえてくる。あの頃、俺はいつも一人で練習し、チームメイトとの会話も最小限に済ませていた。


 部室に入ると、三年生のマネージャー、白石凛がすでに準備を整えていた。

 黒髪のロングヘアが、朝の光に艶やかに輝く。高身長で、すらりとした姿勢。クールで美しい顔立ちは、部員たちからも一目置かれていた。俺とは少し距離があった。話したことも、ほとんどない。


「咲山、今日も早いね」


 彼女の声は低く、落ち着いている。俺は無意識に足を止めた。

 前回の人生では、こんな風に声をかけられても、ただ頷いて終わらせていた。

 でも今は違う。


「……おはよう、白石先輩。今日の全体練習、俺もちゃんと参加するよ」


 凛の細い眉が、わずかに上がる。驚いた顔が、珍しく柔らかくなった。

 その日から、俺の変化は始まった。

 朝練で、俺は初めてチームメイトに声をかけた。


「もっと低めに頼む。俺のトスはどこに欲しい?」


 後輩が目を丸くする。いつも無口だった先輩が、急に話しかけてきたのだ。

 昼休み、屋上で一人で弁当を食べていた俺に、凛が近づいてきた。


「咲山、最近……変わったね。練習でも、みんなと話すようになった」


 彼女はフェンスに寄りかかり、長い黒髪を風に揺らしながら言った。

 俺は空を見上げた。遠くに、黒い猫のような雲が浮かんでいる。


「ああ。……一歩、踏み出してみたんだ。話すのも、最初はだるかったけど……意外と、悪くない」


 凛は小さく微笑んだ。その笑顔が、黒曜石のような瞳に光を宿す。


「私、咲山のこと、ずっと見てたよ。コートの上では誰よりも高く跳んで、綺麗なフォームなのに……人とは距離を置いてるみたいで。もったいないなって」


 その言葉が、胸に温かく染み込んだ。黒猫の瞳が、ようやく輝石のように光り始めた瞬間だった。

 一週間後。

 東京の強豪大学から、またスカウトの話が来た。

 前回の人生では、即座に断った。でも今は、すぐに結論を出さなかった。

 部室で、凛に相談した。


「スカウト、来てるんだ。でも……俺、新しい仲間とやれるかな、身長も俺より高い奴らがいるだろうし」


 凛は静かに頷いた。彼女の長い黒髪が肩を伝って少し揺れ、夕陽の残光を受けて艶やかに光る。


「身長の話……そんなこと気にしてたんだ。まだ高二でしょ。伸びるって」


 彼女の声は低く、でも温かかった。


「でもさ、蒼。君が今まで一番苦手だったのは、身長じゃなくて『人』だったよね?」


 その一言で、俺の胸がざわりとした。

 前回の人生では、確かにそうだった。188センチの長身を武器にコートを支配しながらも、誰とも深く関わらず、結局一人で壊れていった。新しいチームに入っても、同じ失敗を繰り返すんじゃないか。そんな恐怖心から俺は臆病になっていた。


「でも……今は違う」


 独り言のように呟いた。よく考えればいつの間にか悩みが変わっていた。確実に今世は一歩踏み出している。


 凛はフェンスから体を離し、俺の顔をまっすぐ見つめてきた。黒曜石のような瞳が、柔らかく細まる。


「うん。変わってるよ、蒼。一ヶ月前までの君とは、まるで別人みたい。練習で後輩に声かけるようになったり、ミーティングで意見出すようになったり……。私、すごく嬉しい」


 その言葉が、胸の奥の錆びついた部分に、ゆっくりと油を差すように染み込んでいく。

 長年油の切れた古いコンベアローラーのように固まっていた心が、黒猫の一歩でようやく動き出した。影のように長く伸びていた孤独が、少しずつ形を変え始めている。


 俺は空を見上げた。黒い猫のような雲は、もう遠くに流れ、夕陽に溶けていく。


「ありがとう……先輩。俺、逃げてたんだな。身長とか、都会とか、そんな表面的な理由で。でも本当は、ただ人と繋がるのが怖かっただけだ」


 凛は小さく笑った。


「スカウトの話、焦らなくていいよ。私は君に声が掛かっている大学で、待っておこうかな」


 その瞬間、俺の長い影が彼女の影と重なり合った。まるで黒猫のしなやかな尾が、優しく誰かを包み込むように。


 部室を出てから、俺は一人で校庭を歩いた。

 コートの端で、後輩たちがまだ軽くボールを打っている。俺は足を止め、声をかけた。


「おい、トス上げてみろ。俺が受けてやる」


 後輩の顔がぱっと明るくなる。

 スパイクを打つ瞬間、風が俺の黒髪をなびかせた。地面を強く踏みしめる感触が、確かにあった。一歩踏み出した先に、こんな温かさが待っているなんて、前回の俺は知らなかった。


 夜、家に帰ってベッドに横になりながら、俺は天井を見つめた。

 四十歳の記憶が、薄い煙のように浮かんでくる。煙草の煙の中で、誰も話しかけてこない休憩室。誰も知らない、ただの廃棄部品のような日々。

 でも今、違う。ただの影じゃなく、輝石のように胸の奥で光っている。


 スカウトの返事は、まだ保留にしたままだった。

 身長の高い奴らと一緒にやる不安は、完全に消えたわけじゃない。でも、それでもいい。 一歩踏み出せば、道は開ける。 繋がる勇気さえあれば、どんな高さの壁も、越えられる。


 翌朝、凛が校門で待っていた。


「蒼、おはよう。今日も一緒に朝練行こうか?」


 俺は頷き、彼女の隣に並んだ。

 


 この一ヶ月で、俺は知った。 人生を変えるのは、派手なジャンプじゃない。 ただ、誰かに声をかける、小さな一歩なんだって。遠くの空に、黒い影が一瞬見えた気がした。猫は、静かに微笑んでいるようだった。


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