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巨獣の背 ベヒモス・ゲート  作者: かべちょろ


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脈路の地図と希望の箱舟

エルの耳に届く彼らの鼓動は、あまりに悲痛だった。

自分の本来の心臓と、無理やり繋ぎ合わされた怪物の核。二つのリズムが互いを食い荒らし、不協和音となって彼らの精神を削り続けている。

共感覚の視界では、彼らの胸元は濁った鉛色と、怪物のどす黒い赤色が激しく火花を散らし、今にも弾け飛びそうに見えた。


このままでは数日のうちに、彼らは完全に理性を失い、ただ水分を求めて徘徊する「塩害獣」そのものへと成り下がるだろう。


「……目を、閉じて」


エルは静かに告げた。彼女は聴診杖を地面ではなく、老人の胸元、脈打つ「核」のすぐそばに添えた。


心音士としての禁忌。汚れた命への干渉。だが、師匠ガラムがかつて語った言葉が脳裏をよぎる。


『心音士とは、旋律を奏でる者ではない。世界という名の不協和音を、調律する者だ』


エルは深く息を吸い込み、自身の「黄金の鼓動」を杖へと流し込んだ。『命の種火』の熱を借り、杖の先端から微細な高周波振動を発生させる。


「響け。混ざり合い、静まれ……」


黄金の波紋が、老人の胸に渦巻く黒ずんだ赤色を優しく包み込んでいく。暴れていた怪物のリズムが、エルの放つ一定の周期に「共鳴」し、次第にその激しさを抑えていった。


一度、二度。

不快な摩擦音が消え、穏やかな、凪のようなリズムが広場を包む。


「……ああ……」


老人の顔から険しさが消え、結晶化していた瞳に、わずかながらの人間らしい光が戻った。他の『塩憑き』たちも、憑き物が落ちたようにその場にへたり込み、安らかな吐息を漏らす。


「ありがとう……心音士の娘よ。久方ぶりに、自分の心臓の音が聞こえた気がする……」


老人は震える手で顔を覆い、涙を流した。その涙さえもすぐに結晶へと変わるが、彼の心は確かに今、人間としてそこにあった。


「どうして……こんな死地へやってきた。あんたのような若い子が、たった一人で」


老人の問いに、エルはアトラスの巨大な肋骨を見上げながら、静かに語り始めた。

自分たちの母なる巨獣『グラン・トール』の寿命が、あと二年しかないこと。

三万人の民が、沈みゆく巨獣の上で死を待つ運命にあること。

そして、自分は伝説の『処女獣うぶすな』を見つけ出し、新しい大陸を築くために、故郷を捨ててこの海へ飛び出したこと。


エルの告白に、亡霊たちは静まり返った。彼らもまた、かつてアトラスが沈む時に同じ絶望を味わった者たちだ。エルの背負う運命の重さが、彼らの枯れ果てた心に染み渡っていく。


「……処女獣、か。約一万キロ。ここから北の果てまで、その足で歩くつもりか?」


老人は自嘲気味に笑い、懐から古びた一枚の地図を取り出した。それは紙ではなく、巨獣の皮に針で細かく刻まれた、奇妙な等高線のようなものだった。


「これは……?」


「『塩のうみの脈路』だ。……お嬢ちゃん、あんたが目指している場所は、ただ北へ歩くだけでは辿り着けない。塩の海には、目に見えない『海流』がある。巨獣が歩くときに生じる振動の残響……それが重なり合う『共振点』を渡っていかなければ、底なしの塩の渦に飲み込まれるだろう」


老人は結晶化した指で、地図の一点を指した。


「この『アトラス』の骸から北西へ三日。そこに、かつての巨獣たちが愛した『潮溜まり』がある。……だが、歩いていてはそこへ着く前に塩害獣の餌食だ。一万キロの旅路を歩き通せる人間などおらん」


老人は立ち上がり、おぼつかない足取りでエルの手を引いた。


「来なさい。アトラスが、あんたのような娘を待っていたのかもしれん」


連れて行かれたのは、崩落した都市の地下深く、かつて『巨獣工廠べひもす・こうしょう』と呼ばれた巨大なドックだった。

そこには、数十年分の塩に埋もれながらも、その優美なフォルムを失っていない一台の機体があった。

それは、巨大な三枚のマストを持つ、奇妙な形の『船』だった。船底には車輪ではなく、塩の結晶の上を滑るための、巨大な金属製のソリ(スキッド)が装着されている。


「これは……『塩上帆船ソルト・スキマー』。

巨獣の背の間の連絡や、高速調査に使われていた代物だ。動力は、この死の世界に絶えず吹き荒れる『塩風』だ」


老人は機体の下に積もった塩を払った。船体は、巨獣の骨と、強靭な皮膜でできているようだ。


「名は『アギト』。風を食らって進むあぎと、という意味さ。アトラスが沈む直前まで、誰かがこいつを整備していた跡がある。……風さえあれば、こいつは塩の上を飛ぶように滑る。一万キロの死の海を渡るなら、こいつが唯一の『翼』になるだろう」


エルはアギトの船体に触れた。冷たいが、風を待ちわびているような、しなやかな強さを感じる。


「私が……これを?」


「ああ。地図と、このアギト……それが、私たちを人間として眠れる様にしてくれた、あんたへのせめてもの礼だ。操舵席に聴診杖を繋げば、帆の微調整はお前の感覚でやれるはずだ」


エルは地図を受け取った。その表面に残るかすかな体温が、彼女の掌を焼く。彼らを完全に救うことはできない。核を取り込んだ時点で、彼らの命の灯火はいつか塩に呑まれる運命にある。それでも、彼らは最後に「自分の音」を取り戻し、自分たちの夢をエルに託したのだ。


「行っておくれ、小さな心音士。……あんたの音が、いつかこの白い世界に、新しい旋律を刻むことを願っているよ」


エルは深く頭を下げ、アギトの操舵席に乗り込んだ。

風防ガラスの向こうには、地下ドックの出口から差し込む白い光と、吹き荒れる風の音が待っていた。

エルは聴診杖をソケットに差し込み、自身の鼓動を機体と同調させた。

バサァッ! と音を立てて、巨獣の皮膜でできた帆が展開する。地下に吹き込む風を孕み、マストがきしりと鳴った。


「さあ……物語を、続けよう」


彼女が呟く。

アギトの船体が、ガガガッと塩の床を削りながら動き出す。


二年の期限。一万キロの旅路。

エルの旅路に、海流の導きと、風を駆る翼が加わった。


崩落するアトラスの街を背に、重厚な帆船が、白銀の塩の海へと滑り出る。

背後で、老人が静かに歌い始める声が風に乗って聞こえた。それは、今は亡き巨獣アトラスを讃える、永遠の安らぎの歌だった。

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