亡霊の街と、血の残響
怪物の核を噛み潰したときの、あの「ヌチャリ」とした、生温かい感触が奥歯に残っている。
喉を焼くようなアンモニア臭と、舌にこびりつく鉄の味。
エルは、それらを強引に唾液と一緒に飲み込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
胃の奥が熱い。略奪した命のエネルギーが、エルの細い血管を駆け巡り、凍りかけていた指先に強引な熱を灯していく。それは救いというよりも、体内に異物を流し込まれたような、冒涜的な充足感だった。
エルの視界には、先ほどまで「赤黒い火花」を散らしていた怪物のリズムが、今はもう灰色の静寂へと変わっているのが見えた。核を失った死骸は、見る間に白銀の塩へと同化し、風にさらわれて崩れていく。
(私は……これを繰り返して、生きていくのね)
聴診杖を支えに立ち上がると、膝がガクガクと震えた。
罪悪感ではない。そんな高潔な感情は、最初のひと口で、この塩の海に捨ててきた。
震えているのは、もっと根源的な「飢え」への恐怖だ。一度あの味を知ってしまった細胞が、次の獲物を求めて、エルの意識を内側から突き動かしている。
エルは再び歩き出した。どれほどの時間を、ただ無機質な白を見つめて過ごしただろうか。
旅立ちから数日が過ぎた頃。吹き荒れる塩の嵐の切れ間に、異質な「影」が浮かび上がった。
最初は、地平線に浮かぶ白い蜃気楼だと思った。
あるいは、塩の結晶が積み重なってできた巨大な丘陵地帯か。
だが、一日歩き、二日歩いても、その影は一向に近づく気配を見せない。むしろ歩くほどに、そのあまりの巨大さが、遠近感を狂わせていくのだ。
三日目。風が凪ぎ、視界を覆っていた白い霧が一時的に晴れた瞬間、エルはその真の姿を目撃し、息を呑んだ。
「……嘘」
それは、山脈ではなかった。
天を衝くようにそびえ立つ、白亜の肋骨の列。全長百キロメートルにも及ぶであろう、超巨大な生物の遺骸。
数十年前に沈んだとされる伝説の巨獣、「アトラス」の白骨化した死骸だ。
下半身の半分以上が塩の砂漠に埋もれながらも、その威容は圧倒的だった。かつてその背の上にあったはずの都市は、巨獣の死と共に崩落し、肋骨と脊椎の間に挟まったまま、塩の鍾乳洞のような奇怪な造形を作り出していた。
かつてここには、数万の呼吸があり、愛があり、生活があったはずだ。今はただ、冷たい塩の結晶がすべてを剥製にしている。
さらに丸一日かけて、エルはようやくアトラスの「足元」――かつての都市の入り口へと辿り着いた。見上げる肋骨は、もはや空を支える柱のようにしか見えない。
(……ト……ト……ト……)
不意に、エルの聴診杖が微かな「音」を拾った。
怪物の、あの卑しいリズムではない。
風の音に紛れて消えてしまいそうなほど弱く、しかし一定の周期を持った、人間の……あるいは、かつて人間だったものの鼓動。
「誰か……いるの?」
返事はない。ただ、結晶化したビル群の隙間から、冷たい風がヒュウヒュウと鳴るだけだ。
エルは、聴診杖を武器のように構え直し、警戒しながら街の「喉元」――旧大通りであったろう場所へと足を踏み入れた。
そこには、正気を疑うような光景が広がっていた。
街の広場、凍りついた噴水の周りに、数人の人々が座り込んでいる。
彼らの肌は、まるで陶器のように白く、衣服の上からでもわかるほど、体の一部が結晶化して透き通っていた。
『塩憑き(しおつき)』
巨獣の加護を失い、塩の海に長く晒されながらも、死にきれなかった者たちの成れの果てだ。
彼らは侵入者の気配にゆっくりと首を巡らせ、濁った瞳でエルを見つめた。その眼球さえも、半分は塩の結晶に置換されている。
「……新しい……心音が、する……」
一人の老人が、カサカサと乾いた声を漏らした。
その胸元には、エルが数日前に食べたものと同じ「怪物の核」が、あろうことか直接、心臓のあたりに埋め込まれていた。
核はドクドクと不気味に脈打ち、老人の白く変色した血管に、毒々しい赤色を強制的に送り込んでいる。
「お嬢ちゃん……その杖。あんた、『心音士』だね。……お願いだ、私たちのリズムを……整えておくれ。……この『核』が、もう、自分たちの音を……忘れてしまったんだ……」
老人が助けを求めて手を伸ばす。その指先は、すでに人間のものではなく、鋭い結晶の爪へと変貌していた。
エルは息を呑み、一歩後ずさった。
彼らは、この死の世界で生き延びるために怪物を取り込み、その代償として自分自身が怪物へと変貌しつつある「亡霊」たちだった。
「さあ……物語を、続けよう」
エルは震える声で自分に言い聞かせるように呟き、再び杖を強く握りしめた。
それは彼らへの救済のためか、あるいは、この亡霊たちさえも自分の生きる「糧」にするための決意か。
白銀の地獄で、少女の瞳は、より深く、昏い色へと染まっていく。




