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巨獣の背 ベヒモス・ゲート  作者: かべちょろ


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3/5

汚れた聖杯、剥き出しの生

「さあ、物語をはじめよう」

その決意を飲み込んだ直後、世界から「音」が消えた。


昇降機が底を打ち、エルの足が初めて「グラン・トール」という母体を離れた瞬間、彼女を包んだのは絶対的な静寂と、凍りつくような死の抱擁だった。


一歩、踏み出す。


サクッ、という乾いた音が鼓膜を叩く。それは雪を踏む音に似ていたが、本質的には正反対のものだ。

雪は溶ければ水になるが、この「塩」は、触れるものすべてを自分と同じ無機質な結晶へと変えようとする。


「……っ……はぁ……っ……」


防護服のフィルター越しに吐き出す吐息が、一瞬で白く結晶化し、襟元にこびりつく。

猛烈な乾燥がエルの喉を襲った。水分を含んだ粘膜が、防護服のわずかな隙間から侵入した塩分によって、内側から削り取られていく感覚。


視界はどこまでも白く、高低差さえ定かではない。

背後のグラン・トールを見上げれば、そこには垂直に切り立った絶壁のような「脚」がそびえ立っている。かつては神殿の柱のように見えたそれは、今や遠い天上の世界の遺物だった。


(探しなさい……エル。生きるための、リズムを……)


師・ガラムの教えを反芻し、エルは震える手で『古の聴診杖』を構えた。

杖の先端を、底の見えない塩の堆積層へと突き立てる。


(ド…………クン………………ド…………クン……)


遠ざかっていくグラン・トールの、緩慢な鼓動。

だが、それとは別に、足元から「不協和音」が這い上がってきた。


(ギ……ギギッ……ドクッ、ドクッ……!)


金属をヤスリで削るような、不快で、卑しく、それでいて強烈な生命力を持ったリズム。

エルは共感覚のスイッチを入れた。

彼女の視界の中で、真っ白な世界に「どす黒い赤色」の火花が散る。


「……いた」


塩の層を割って現れたのは、巨大な蜘蛛とムカデを継ぎ接ぎしたような異形の怪物――『塩害獣エンガイジュウ』だった。

体長は二メートルほど。全身が分厚い塩の甲殻に覆われ、その隙間から赤黒い筋肉の繊維が、剥き出しの神経のように脈打っている。怪物の六つの複眼が、唯一の「潤い」であるエルを捉え、ギチギチと牙を鳴らした。


怪物が跳ぶ。

エルは恐怖を押し殺し、杖を両手で握りしめた。

戦う術など知らない。だが、彼女は「音」を知っている。


(そこ……!)


怪物が空中で体をひねる瞬間、その胸部中央に、一瞬だけ「色の濃い場所」が浮かび上がった。

心臓。すべてのリズムの起点。

エルは杖を突き出した。それは攻撃というより、避雷針を雷に向けるような動作だった。杖の先端が怪物の塩殻の隙間に吸い込まれる。


「響けッ!」


杖に込めたエルの魔力が、怪物の鼓動と「逆位相」の振動を叩きつけた。


ドォォォォォンッ!


内部から爆発したような衝撃が走り、怪物は悲鳴さえ上げられずに地面へ叩きつけられた。塩の殻が粉々に砕け、中からどろりとした赤黒い体液が溢れ出す。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


勝利の余韻はない。あるのは、焼けるような飢えと渇きだ。

エルの指は、無意識のうちにナイフを握っていた。

彼女は怪物の死骸へと這い寄る。

かつての心音士としての倫理が、頭の片隅で警鐘を鳴らす。


――巨獣の恵み以外を口にするな。それは、獣へ堕ちる道だ、と。


「……うるさい」


エルはナイフを怪物の胸部に突き立て、強引に肉を裂いた。

塩に侵食されていない中心部から、握り拳ほどの大きさの「核」が姿を現す。それはまだ微かに、トクン、トクンと温かい拍動を残していた。


エルの鼻腔を、生臭い血の匂いと、鼻をつくアンモニアのような悪臭が突く。

彼女は防護服のマスクを強引に剥ぎ取った。

一瞬にして、極限まで乾燥した空気が顔を焼き、唇が割れて血が滲む。


「……いただきます」


震える手で、その「核」を口へと運ぶ。

それは食べ物と呼べるようなものではなかった。

口に入れた瞬間、強烈な鉄の味と、内臓を煮詰めたような苦味が広がった。ドロリとした粘液が喉に絡みつき、拒絶反応で胃がせり上がる。


(食べれなきゃ……死ぬ。すぐ、終わり……)


エルは目を血走らせ、逃げようとする核を奥歯で噛み潰した。

グチャリ、という生々しい音が頭蓋に響く。

噛むたびに、怪物が持っていた「生」のエネルギーが、熱い泥のように喉を下っていく。それは汚泥を啜るような惨めな行為だったが、同時に、干からびた彼女の細胞一つ一つが歓喜の声を上げるのがわかった。


「……あ、ぐ……ぅ……っ」


涙が溢れ、頬を伝うそばから塩の結晶へと変わっていく。

彼女は核の最後の一片までを飲み込み、血に汚れた手で、今度は『命の種火』を握った。

石が放つ熱が、周囲の塩を分解し、一滴、また一滴と、杖の溝を伝って真水を滴らせる。

そのわずかな水を、血の混じった口内に流し込む。


鉄の味と、水の甘みが混ざり合い、エルは地面に突っ伏して咽び泣いた。

かつての「心音師見習い」だった少女は、もうどこにもいない。

ここにいるのは、泥を食らい、血を啜り、それでも「処女獣」へと辿り着こうとする、一匹の飢えた獣だ。


「……おいしい」


吐き捨てるように呟いたその言葉は、嘘ではなかった。

絶望的な空腹の中で味わった「略奪した命」の味は、グラン・トールの上で食べていたどのパンよりも、鮮烈に「生きている」ことを実感させた。


エルは再びマスクを装着し、立ち上がる。

口の周りにこびりついた血が、塩の風にさらされて黒く固まっていく。

その横顔には、かつての幼さは消え、獲物を追う捕食者のような鋭い光が宿っていた。


グラン・トールの寿命まで、あと二年。

彼女の旅は、まだ始まったばかりだ。


「さあ……物語を、続けよう」


一歩。

今度は迷いなく、白銀の地獄へと足を踏み出した。

背後で、半分に引き裂かれた塩害獣の死骸が、急速に白く、物言わぬ結晶へと還っていくのを、彼女は一度も振り返らなかった。

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