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巨獣の背 ベヒモス・ゲート  作者: かべちょろ


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2/5

幕間:揺籃(ゆりかご)の上の虚構

これは、少女エルが白銀の地獄へと身を投じた翌朝。

残された「日常」という名の、緩やかな停滞の記録である。



「……今朝の『赤パン』は、いつもより鉄臭いな」


都市防衛隊の詰所。若き小隊長レギウスは、配給された朝食を前に顔をしかめた。

皿に載っているのは、赤黒く変色した硬いパンと、濁ったスープ。

これが、巨獣「グラン・トール」の背に住む三万人の民の主食だ。


パンの原料は「血苔けつえいごけ」。巨獣の分厚い角質層の隙間、地熱と微量な体液が漏れ出す場所に群生する、奇妙な植物。それを乾燥させて粉にし、わずかな水で練って焼く。味は錆びた鉄を舐めているようで、栄養価も低い。

スープは、巨獣の表層血管から採取した「血清」を、不純物を濾過して薄めたものだ。こちらは貴重なミネラル源だが、やはり独特の生臭さがある。


「文句を言うな、レギウス。食えるだけマシだ。下層区画じゃ、今週から配給が二割カットされたらしいぞ」


向かいに座る古参の隊員が、スープを音を立てて啜った。


この都市国家『テラ・グラナ』は、明確な階級社会だ。巨獣の熱源に近い中心部に住む議員や高級技術者たちと、外縁部の冷たい区画に住む労働者階級。食料の質も量も、その序列に従う。


「……わかっていますよ。僕たちが生きていられるのは、グラン・トールが血を分けてくれているおかげだ」


レギウスはパンをスープに浸し、無理やり胃に流し込んだ。


この大地は、生きている。

足元から常に伝わる微振動。空を覆う蒸気の雲。都市中に張り巡らされたパイプラインは、巨獣の血管から熱とエネルギーを吸い上げ、都市の心臓部である「抗体炉」へと送る。そこで精製されたエネルギーが街を照らし、代わりに生成された免疫活性剤が巨獣の体内へと戻される。

完全なるリサイクル。いや、寄生と延命のサイクル。

人々はこの巨大な獣を「神」と崇めながら、その実、その身を削り取って食らうダニのような存在だった。

朝食を終え、レギウスは装備を整えて巡回に出た。

彼の任務は「外殻防衛線」の警備だ。巨獣の背中でもっとも塩の海に近い、危険な境界線。


「おい、聞いたか? 他の巨獣、『ゼノ・バス』の連中が、また国境付近で挑発行為をしてきたらしい」


「ああ。向こうの巨獣は、うちより老化が進んでるって噂だ。資源(血)が足りないんだろうよ」


すれ違う市民たちの噂話が耳に入る。

この世界には、塩の海を渡る巨獣が十数体存在する。それぞれの背に乗る国家は、互いに不可侵条約を結びつつも、常に緊張状態にある。巨獣の寿命が近づけば、その上の民は生き残りをかけて、他の巨獣を奪いに来るだろう。

議会は「共存」を謳うが、それが薄氷の上の平和であることを、誰もが知っていた。


「……ん?」


不意に、レギウスの足元の振動が変わった。

いつもの緩慢なリズムではない。何かが皮膚の下を這い回るような、不快なノイズ。


ウゥゥゥゥゥゥンッ!!


都市全体に、緊急警報のサイレンが鳴り響いた。


「総員、配置につけ! 『塩害獣エンガイジュウ』の発生だ! 第四区画、左舷後脚部!」


レギウスは蒸気式のライフルを担ぎ、現場へと疾走した。

塩害獣。それは、下の世界――塩の海から這い上がってくる「死」の具現だ。

塩の結晶が何らかの意思を持ったように集合し、巨獣の傷口や弱った皮膚から侵入しようとする。奴らは水分を憎み、生きているもの全てを塩の柱に変えようとする。


「撃てッ! 奴らを皮膚の中に潜らせるな!」


現場では、すでに戦闘が始まっていた。

体長三メートルほどの、結晶化した多脚型の怪物が、巨獣の硬い皮膚に爪を突き立てている。防衛隊員たちの放つ鉛弾が、怪物の塩の殻を砕く。

だが、奴らは痛みを知らない。砕けた端から周囲の塩分を吸収し、再生していく。


「クソっ、キリがない! 『抗体液』の散布準備!」


レギウスが叫んだその時、足元の大地が大きく隆起した。


ズズズズゥン!


巨獣の皮膚が裂け、そこから白濁した粘液が噴水のように噴き出した。それは巨獣自身の免疫システム――巨大な白血球の塊のようなものだ。


粘液は塩害獣を包み込み、その強力な消化酵素で、結晶の体を溶かしていく。


「……助かった。グラン・トールの自己防衛本能だ」


部下たちが安堵の息を漏らす。

これが、この都市の防衛システムだ。人間が外敵を足止めし、巨獣自身がそれを排除する。

人と獣は、運命共同体だった。獣が死ねば人も死に、人が獣の健康管理を怠れば獣も死ぬ。

戦闘が終わり、塩まみれになったレギウスは、ふと北の空を見上げた。

厚い雲の向こう、決して晴れることのない白い水平線。


「……お前は、今頃どこにいるんだ、エル」


幼馴染の少女の顔が浮かぶ。

心音士見習いだった彼女は、昨日、誰にも告げずに都市を去った。「処女獣」を探すという、狂気じみた書き置きを残して。

彼女の師であるガラム老は、議会で「彼女は事故で亡くなった」と報告したという。真実が知れれば、パニックが起きるからだ。


だが、レギウスは知っていた。彼女がどれほど真剣に、この巨獣の「音」を聞いていたかを。


(なあ、エル。俺たちの神様(ベヒモス)は、あとどれくらい保つんだ?)


街は今日も、仮初めの平穏の中にある。

人々はまずい血苔のパンを食い、他の巨獣の影に怯え、襲い来る塩の怪物と戦う。


明日も、明後日も、この巨大な揺籃の上で、同じ日が続くと信じて。

レギウスは拳を握りしめた。

彼もまた、この閉塞した「重厚な虚構」の一部だった。だが、その檻から飛び出した少女の勇気を、否定することだけはできなかった。


「生きていてくれよ……」


彼の祈りは、常に唸りをあげるパイプラインの蒸気音にかき消され、灰色の空へと吸い込まれていった。

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