終末の残響と白銀の旅立ち
世界は、あまりにも白く、そして残酷に美しかった。
見渡す限りの地平を埋め尽くすのは、生命を拒絶する結晶の海――「塩の大溟」。かつて「海」と呼ばれた場所をすべて飲み込んだその白銀の荒野は、風が吹くたびに微細な結晶を舞い上げる。その塵を吸い込めば肺は内側から引き裂かれ、肌を晒せば一瞬にして細胞の水分を奪い去られ、物言わぬ塩の彫像へと変えられる。
この死の世界を渡る唯一の箱舟、それが山脈ほどもある巨躯を持つ「巨獣」である。
全長280キロメートルに及ぶ巨獣「グラン・トール」。その最北端、天空に突き出た『観測の角』の断崖に、少女エルは立っていた。
「……また、遅れたわ」
エルは祈るように膝をつき、使い込まれた聴診杖を大地の皮膚――巨獣の分厚い角質層――へと深く突き立てた。
彼女の指先を通じて伝わるのは、地鳴りのような重低音。しかし、そのリズムは心音士の教本に記された勇壮な「生命の旋律」とは程遠いものだった。
(ド………………クン………………。……………………ド………………クン……)
「エル。もういい、顔を上げなさい」
背後からかけられた声は、風に削られた岩のように掠れていた。
老心音士ガラム。この巨獣の健康を半世紀以上にわたって支えてきた男の首には、長年の酷使で黒ずんだ銀の聴診器が揺れている。
「師匠、まだ脈はあります。ただ、深部の筋肉に塩の結晶が食い込んで、神経伝達が阻害されているだけです。高濃度の抗体薬を、もっと中枢に近い神経節に投与すれば……」
「無駄だ。エル、これは病ではない。寿命だ」
ガラムは遠く、巨獣の脇腹から噴き出す白い蒸気――排熱孔を見つめた。
「どんなに強靭な巨獣であっても、塩の浸食に抗い続けるには限界がある。この子が膝をつき、塩の海に沈むまでの時間は、どれほど楽観的に見積もっても、あと二年。それが、我々に残された全時間だ」
二年は、あまりにも残酷な数字だった。
もし明日死ぬのであれば、人は祈りの中で果てるだろう。だが、二年の猶予は、人々に「足掻く時間」と、生き残るために隣人と「奪い合う時間」を与えてしまう。
「三万人の民に、二年のカウントダウンを告げろというのですか」
「……議会は公表しないだろう。混乱を恐れ、最後の瞬間まで『共生』という名の搾取を続けるはずだ。だが、エル。お前には聞こえているはずだ。この子の奥底で、何かが死に絶えていく色が」
エルは唇を噛んだ。
彼女には「共感覚」がある。鼓動を音ではなく「色」として捉える異能。
今のグラン・トールの鼓動は、かつての輝かしい黄金色を失い、死を予感させる濁った鉛色に変色していた。
その夜。
巨獣の背に築かれた都市『テラ・グラナ』の喧騒を離れ、エルは一人、巨獣の尾に近い「不毛の地」を訪れていた。
塩の海から吹き上げる塩害が最も激しく、誰も近寄らない、捨てられた場所。
エルは静寂の中で、もう一度だけ地表に耳を当てた。
自分の鼓動を殺し、グラン・トールの老いた鼓動を意識の外へ追いやる。意識をさらに深く、巨獣の巨大な肉体を通り抜け、その足下が接している「塩の海」のその先へと伸ばしていく。
(……ト、ト、ト、ト……)
「……聞こえる」
微かだが、圧倒的に速く、鋭い、未知の拍動。
それは、グラン・トールの重厚なリズムとは対極にある、若々しく猛々しい「生命の爆発」のような色を帯びていた。
「やっぱり、いる……お伽話じゃなかった」
伝説に語られる、まだ誰も乗せていない「処女獣」。
塩の海をおよそ1万キロメートル渡った先、白い霧のカーテンが閉ざされた「静寂の極致」に眠るという、新たな人類の揺りかご。
「さあ、物語をはじめよう」
彼女は誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
その声は、忍び寄る終末の足音を打ち消すほどに、静かで、冷徹な決意に満ちていた。
翌朝。
エルは、巨獣の「尾」の端にある、古びた昇降機の前に立っていた。
かつて巨獣の寄生虫を駆逐するために外壁へと降りる職人たちが使っていたその機械は、今や錆びつき、忘れ去られている。
「行かせてくれるわね、グラン・トール」
彼女が足元の地面を軽く叩くと、応えるように足場が大きく揺れた。
それは拒絶ではなく、この背に住む最愛の娘を死地へと送り出す、老いた獣の最後の手向けのように感じられた。
エルは昇降機のレバーを引いた。
軋む金属音。下降を始める視界。
昇降機が下降する中、エルは背負い袋の重みを確かめた。
中には、わずかな希望が詰め込まれていた。
初代心音士の遺産である『古の聴診杖』。
自らの体を塩の浸食から守る『高濃度抗体薬』。
そして、巨獣の熱を閉じ込めた魔導石『命の種火』。
そして数日分の『濃縮血清錠剤』。
パンも干し肉も持たなかったのは、荷物を軽くするためだけではない。
(……戻るつもりがないなら、故郷の糧を奪うわけにはいかない)
彼女は知っている。塩の海で出会う怪物は、敵であると同時に、唯一の「食料」であることを。聴診杖でその命を奪い、その熱が消える前に核を啜る。それは心音士が最も忌むべき「略奪者」への墜落を意味していた。
だが、聖職者のような心のままではこの白銀の地獄は渡れない。
エルは空腹よりも先に訪れるであろう、喉の乾きを想像し、唇を強く噛んだ。
空に輝く都市の灯火が、ゆっくりと、しかし確実に遠ざかっていく。
眼下には、すべてを白く染め上げる、塩の地獄。
一歩踏み出せば、二度とこの温かな背中には戻れない。
少女エル、十六歳。
彼女の小さな一歩が、二年の余命を宣告された人類の、最後の「希望」という名の叛逆の始まりだった。




