第一章 四節 魔王の力、その代償
森の奥、木々がざわめくその先で、少女の悲鳴が響いた。
「や、やめてっ……!」
駆け寄ったリオンの目に映ったのは、倒れた少女と、唸り声をあげる二体の魔獣――黒毛の狼のような獣たちだった。
鋭い牙が、今にも少女の喉元に食い込もうとしていた。
「っ、間に合え……!」
リオンは右手を掲げた。
紋章が脈打つ。空気が歪む。
脳裏に、ゼファル=ノクスの問いが響いた。
「力を使うか?」
「……ああ。貸してくれ。守らなきゃいけないんだ」
足元に黒い魔法陣が浮かぶ。
空気が重く沈み、黒い炎が右腕から立ち上がる。
「“崩滅の鎖”!」
漆黒の鎖が獣の一体に突き刺さり、うねるようにその体を締め上げる。
悲鳴すら上げられずに、魔獣は骨ごと砕け、崩れ落ちた。
もう一体は怯えたように後退したのち、唸り声を上げて森へと逃げていった。
「っ、はぁ……くっ……!」
リオンは膝をついた。
視界が揺れる。右腕が焼けるように熱い。
皮膚の下で、黒い“紋様”が血管に沿ってじわじわと広がっていた。
「代償だ。力の反動が肉体に返る」
「っ、わかってる……けど、これくらい……」
「安心しろ。すぐに命を落とすことはない。
だが、このまま使い続ければ、お前は“人としての形”を失う」
「……それでも、俺は使うよ。誰かを救えるなら……!」
そのとき、震える声が耳に届いた。
「……た、助けてくれて……ありがとう」
リオンが顔を上げると、少女が恐る恐る立ち上がり、頭を下げた。
「私、森で迷って……魔獣が出てきて……。
あの、あなた、魔法使いさん……ですか?」
「……いや。呪われた力を借りてるだけの、旅人だよ」
「でも……ありがとう。あなたは、優しい人だと思う」
リオンはその言葉に、ほんの少しだけ顔をほころばせた。
「優しい、か。
お前の中には確かに“人の核”が残っている」
「その部分こそが、お前を“魔”にしない唯一の楔だ」
「それなら、それを握りしめて歩いてやるさ」
少女が言った。
「……あの、よかったら村まで送ってもらえませんか?」
リオンは一拍置いて、ふっと肩をすくめた。
「仕方ないな。護衛料は取らないけど、歩きながら話しかけるのは禁止な」
少女はくすっと笑い、小さく頷いた。
二人は森を抜けて、小さな道を歩いた。
少女は時折リオンの横顔を見ては、安心したように歩を進めた。
「ねえ、お兄さんは、どこへ行くの?」
「神のいる場所さ。いや……偽物の神、かもしれないな」
「ふしぎなこと言うね」
「俺も、そう思うよ」
やがて、森を抜けた先に、小さな畑と煙の立ち上る民家が見えてきた。
「あそこが、私の村。ありがとう、お兄さん」
「……無事に着けて何よりだ」
「来てくれないの? みんなに紹介したいのに」
「俺が入れば、きっと誰かが怖がる。
……だから、ここでお別れだ」
少女は少し寂しそうに頷いた。
「……また、どこかで会えたらいいな」
「そのときまでに、もう少しまともな格好しとくよ」
少女は笑い、リオンはその背中を見送った。
黒猫がリオンの足元に擦り寄る。
「お前は、まだ“人間”だよ」
「……そう、かもな」
リオンは再び森に背を向け、歩き出した。
その足は、朝靄の向こうに霞む“聖都”へと向かっている。