第一章 三節 忘れられた神殿
旅立って三日。
森を越え、草の生い茂る谷を渡り、獣の気配すら薄い旧道を歩いた先に、それはあった。
廃墟。
崩れかけた石の柱、瓦礫に埋もれた階段、祈りの痕跡だけが残る無人の神殿跡。
朝日も届かぬ場所に、風だけがさやさやと吹き抜けていた。
「……こんな場所があるなんて、誰も知らないはずだろ」
リオンは立ち止まり、足元の苔むした石を見下ろす。
導き手の黒猫が、静かに彼の前に立ち、階段の上を見つめていた。
「ここに、何があるっていうんだよ……」
黒猫は一声、短く鳴いた。
その声は不思議と、まるで「お前の過去がここにある」と告げているようだった。
リオンは小さく息をつき、ゆっくりと石の階段を上った。
重く湿った空気の中で、神殿の奥へと進む。
石造りのアーチをくぐると、そこには中央にぽつんとひとつの祭壇が佇んでいた。
そして、その上に――一枚の石板。
古代文字でびっしりと刻まれたそれは、時間の流れにすら侵されることなく、淡く輝いていた。
「その碑文は、世界の“始まり”を記したものだ」
――ゼファル=ノクスの声が、リオンの胸奥から響いた。
「……始まり?」
「そうだ。かつてこの世界には、真なる“神”が存在していた。
だが今残されているのは、“神の名を騙る機構”にすぎん。
正義、勇者、神託……そのすべては、ただの歯車だ」
「……ふざけてるな。
じゃあ俺たちは、あの勇者の剣に焼かれたのは……“正義”でも“神の裁き”でもなかったってことか?」
「ああ。お前の村が焼かれたのは、必要な犠牲だったのだろう。
それは“上”にとっての必要性であり、“下”にとっての絶望だ」
リオンは唇を噛んだ。
拳を握りしめ、祭壇にそっと手を伸ばす。
触れた瞬間――光が広がった。
視界が白に染まり、次の瞬間、異様な映像が脳内に流れ込んできた。
炎に包まれる街。
天から降る血の雨。
黒い空に浮かぶ巨大な門――その中から這い出る、得体の知れない影たち。
「これは……未来……?」
「可能性の一つ。
このままいけば、世界は崩壊する。
だが、それは“悪”のせいではない。
“歪んだ正義”が招く、当然の帰結だ」
「……だったら、俺は止める」
リオンは低く呟いた。
額に汗がにじみ、心臓の鼓動が早まる。
だが、その中にあるのは恐怖ではなかった。確かな怒りと、意志だった。
「神でも、勇者でも……このまま黙って見過ごすわけにはいかない。
あいつらが正義を名乗るなら、俺は“悪”として――止める」
「その意志、我は受け取った。
ならば選べ。破壊か、再生か。お前の道は、既に始まっている」
リオンはふっと目を閉じた。
そして、ゆっくりと石板から手を離す。
空を見上げれば、神殿の天井に空いた穴から、一筋の光が差し込んでいた。
光の中、黒猫が祭壇の縁にちょこんと座り、金色の瞳でこちらを見つめていた。
「……こんな未来、絶対に許さない。
俺が壊す。こんな世界を」
猫はにゃあと一声鳴き、静かに階段を下り始めた。
「……案内、してくれるんだな。
この先に、俺の戦うべき場所があるってことか」
リオンは最後に神殿を振り返った。
それは、世界の理を少しだけ覗いた場所。
そして――まだ見ぬ真実への“扉”。
「行こう。これ以上、誰かが泣く前に」
リオンは黒猫の後を追い、静かな森の中へと足を踏み出した。