第一章 二節 黒き旅路の始まり
夜明け前の空は、まだかすかに群青色だった。
焼け跡となった村に背を向け、リオンは丘の上で立ち止まる。
旅支度はすでに整っていた。
腰には短剣、肩にはマント、そして右手には刻まれた“魔”の紋章。
でも、彼の足はまだ、完全には前を向けていなかった。
「……やっぱり、最後にもう一度だけ」
彼は、かつて自分が暮らしていた家の跡地へと向かう。
扉は崩れ、柱は炭になっていた。
それでも、リオンの記憶の中では、あの家は今も変わらずそこにあった。
――朝、父が薪を割っていた音。
――母の優しい歌声。
――妹の笑い声と、小さな足音。
何もかもが焼かれて、消えてしまった。
「……ごめん。俺、家族なのに、何一つ守れなかった」
瓦礫の中から見つけた焦げた木箱。
中には、絵本と、一枚の写真――家族四人が微笑む姿が写っていた。
裏には母の字。
『リオンへ――君がどんな未来を選んでも、私たちは君を愛してる』
リオンはそれを胸に抱きしめ、もう一つの焼け跡へと足を運ぶ。
そこは、幼い頃によく通ったミラばあちゃんの家だった。
井戸のそばには、煤けた木彫りのリンゴがぽつんと残っていた。
「……ばあちゃん、これ……まだ、残ってたんだな」
拾い上げ、服の裾で汚れを拭って、胸ポケットにしまう。
「俺、魔になった。でも……優しさだけは、忘れないようにする」
その時だった。
かすかに、足音が聞こえた。
「……誰だ?」
振り向くと、黒猫が一匹、焼け跡の上に佇んでいた。
艶のある毛並み、金の瞳。まるで人間のように、リオンをじっと見つめていた。
「猫……?」
黒猫は一声鳴き、すっとリオンの足元に寄ってくる。
その仕草に、不思議と警戒心は湧かなかった。
「その猫は――導き手だ」
心の奥に、ゼファル=ノクスの声が響いた。
「導き手……?」
「我と契約した者に、新たな縁を繋ぐ存在。
その猫は、世界の理に抗う者を見届ける“目”でもある」
黒猫はリオンの足元でくるりと回り、前方へと歩き出した。
まるで「ついてこい」と言わんばかりに。
「……わかったよ。案内してくれ」
リオンは最後に、村を振り返った。
家族も、村人も、もういない。
でもその記憶と想いは、確かに心に刻まれた。
「行ってきます。……俺、もう戻れないけど……絶対、無駄にしないから」
そして、猫とともに、夜明けの空へと踏み出す。
その背に宿るのは、魔の力と、消えない人の優しさ。
こうして、“黒き旅路”が始まった。