天使と鍵師
僕が初めて「天使」に出会ったのは、親方の仕事を手伝うために、領主様の館に出向いたときのことだった。
領内一の鍵職人であると評判の親方のもとに、領主様からの仕事の依頼があったのは、一昨日のことである。当初は、半人前を領主様の館にあげるわけにはいかないという親方の方針で、僕にはお呼びはかからなかった。しかし、何がどうなったものか、昨日の晩には、次からは僕も仕事を手伝うように、と親方の許しが出たのである。何でも──僕向きの仕事がある、ということで。
領主様の館に着くと、親方は執事の案内も待たずに、勝手知ったる様子で二階へとあがる。二階にある客室の扉の鍵を修理することが、今回の仕事なのである。現場に到着すると、親方はすぐに作業を始める。僕も親方の指示に従って、必要な工具を手渡して、その作業の補助をする。躍るように動く親方の手先には、何度仕事をともにしても、変わらず見惚れてしまう。
と──不意に、舌打ちとともに、親方の手が止まる。
「いらっしゃい、鍵師さん」
幼い声に振り向くと、そこには白いドレスに身を包んだ、小さな淑女が立っている。
「今日も、たくさんたくさん、お仕事のこと教えてね」
言って、彼女はやわらかくほころんで──親方は、もう一度、小さく舌打ちをする。
「ニコ、お前が相手してやれ」
親方のその言葉に、どうやらこれが今回の僕の仕事らしい、と悟る。僕は少女に向き直り、片膝をついて目線をあわせて、精一杯優しく話しかける。
「僕の名前はニコラス──親方からはニコって呼ばれてるんだ。お嬢様のお名前は、何ていうのかな?」
「アンジェリカよ。お父様もお母様も、アンジェって呼ぶわ」
そう言って、誇らしげに小さなえくぼをつくった彼女は、僕には確かに「天使」に見えたのである。
アンジェは、お忍びで街に出るたびに──お忍びとは言っても、彼女の変装は仮装の一歩手前で、街の人たちは笑いを噛み殺すのに苦心しているようであった──僕のところに顔を出すようになった。
「ねえ、ニコ、昨日はお婆様のところにお出かけしたのよ」
彼女は、そんな何でもないようなことを、何から何まで僕に報告するのである。当初は、領主様の娘に対しておそれ多いとも思っていたのであるが、僕は次第に彼女のことを妹のようにかわいがるようになっていた。
アンジェは、領主様の娘であるという特権を親方に行使して、しばしば僕を連れ出した。彼女にとって、僕は初めての友だちだったのである。
彼女につけられた護衛をまいて、二人でお祭りの露店をめぐったこともある。無理やりに僕の腕をとって歩く彼女は、頬に小さなえくぼをつくって、幸せそうに笑っていた。
近所の子どもと遊ぶのだと言って聞かなかったこともある。無理を言ってかくれんぼに混ぜてもらったものの、容赦のない幼い小鬼に最初にみつかってしまった彼女は、全員が捕まるまでずっと頬をふくらませて拗ねていた。
アンジェは、うれしいときにはいつも頬に小さなえくぼをつくり、機嫌のわるいときにはいつも頬をふくらませる。そんな純粋な彼女から、まっすぐな愛情を向けられて──いつしか、僕にとって彼女は、妹以上の存在なっていた。
「ねえ、ニコ、お父様ったらひどいのよ! 結婚の儀式を早めるなんて言うんだもの!」
言って、アンジェは頬をふくらませる。
「ほう、ついに領主様も男子の世継ぎはあきらめなさったのかね」
最近めっきり老け込んだ親方が、アンジェの言葉に答える。
鍵職人を多く輩出するこの地方を治めるキャンベル家には、後継ぎを決めるにあたって、変わった風習がある。男子が生まれた場合には、男子が後を継ぐ。これは他の地方と変わりない。しかし、女子しか生まれなかった場合──これは傍系の男子が後を継ぐのではなく、ある特殊な儀式を経たものを、その女子の配偶者として迎え入れるという決まりになっているのである。その、ある特殊な儀式というのが──。
「ニコも挑戦してくれるわよね──『キャンベルの剣』に」
キャンベル家に代々伝わる、台座に刺さった剣を引き抜くというものであった。
「無理だよ、アンジェ──儀式の日には、領内だけでなく領外からも力自慢の男たちが集まって、そんな彼らでもキャンベルの剣は抜けないんだ。僕なんかの力じゃ、とても抜けはしないよ」
「ニコはわたしのこと、嫌いなの?」
「そんなことはないけど──」
上目で問いかけるアンジェに、僕は言いよどむ。
「じゃあ、出るだけでもいいから出てちょうだい! わたし、筋肉しか取り柄のない人のお嫁さんになるなんて、絶対嫌だわ!」
「でも──」
なおもためらう僕の言葉を聞いて、アンジェは盛大に頬をふくらませる。
「もういい! ニコなんて知らない! そうやってうじうじしてればいいんだわ!」
そう言って、彼女は家を飛び出していく。
「いいのか、ニコ?」
アンジェがいる間は遠慮していたのであろう、親方は棚から酒瓶を取り出しながら問いかける。
「だって──どう考えても無理ですよ! 僕は非力ではないかもしれないけど、それでも力自慢の連中にはかないっこありませんよ!」
そう答える僕を、親方は杯に満たした酒を一息に飲みほして、じろりとにらむ。
「鍵師としては成長したみたいだが、臆病なのは相変わらずだな、ニコ」
老いたとはいえ、親方ににらまれると、僕はぶるりと震えてしまう。
「今の領主様も、キャンベルの剣を抜いて、奥方様とご一緒になられたのは知っているな?」
何を言い出すのだろう、と疑問に思いつつも、僕は親方の言葉に頷く。
「お前には、領主様がそんな力自慢な御方に見えるのか?」
問われて、領主様の姿を思い起こす。
昔──そう、アンジェと初めて出会ったときに、遠くからお見かけしたことがある。確かに、筋肉隆々の大男、というわけではなかったように思う。その御姿に力強さは感じたものの、体格は今の僕とそれほど変わらなかったはずである。
「キャンベルの剣を抜くのに必要なものは、たった三つさ」
言って、親方は三本の指を立てる。
「一つは、お嬢さんに対する、心からの愛情」
それは──持っていると思う。いや、持っている。僕は、絶対に誰よりもアンジェを愛している。
「もう一つは、挑戦する勇気」
それは──きっと持っていない。うなだれる僕に、親方は言葉を重ねる。
「お前は賢い。自らの分もわきまえている。自分のできることの範囲がわかっているから──だから、お前は自分のできないであろうことをやらない」
親方は、めずらしくやわらかく、そう告げる。
「それは、よいことかもしれない。そうやって生きるのもわるくはないとは思う。だがな──できないということは、挑戦しない理由にはならないんだぜ」
言って、親方は再び杯に酒を注ぐ。それは、僕の奮起をうながす言葉であった。それがわかっているというのに、それでも僕の心はいまだに揺らいだままで──僕は自分のことが嫌になる。
「──もう一つは?」
親方は、必要なものは三つと言った──にもかかわらず、二つを語り終えたところで満足して、酒を注いでいるのであるからして──僕は思わず問いかける。
「もう一つは──お前はすでに持っている」
「──え?」
親方の言葉の意味がわからず、僕は間抜けな声をあげる。
「俺を信じて参加してみろよ、キャンベルの剣に。俺が保証してやるさ、剣を抜くのは、きっとお前だ」
当日──空は晴れ渡っていた。領主様の館の前は、儀式に参加する大勢の男たちと、見物にきた街の人たちでごった返している。
僕は──いまだに決心しきれずにいた。親方はああ言ったものの、やはり愛情だけで剣が抜けるとは思えなかったからである。だから、ここにきたのは、親方をたてるためと──けんか別れしたアンジェのことが気にかかったからだろう、と思う。
僕が見物席の最前列にたどり着く頃には、儀式はすでに始まっていた。台座に突き刺さった剣を握りしめて、顔を真っ赤にしてそれを引き抜こうとする大男──しかし、剣はぴくりとも動かない。
台座の後ろには、アンジェが座っている。自らが景品のように扱われていることに不満を抱いているのであろう、彼女は盛大に頬をふくらませている。
やがて、アンジェの前に置かれた砂時計の砂がすべて落ちる。それで、男の挑戦は終わり──次の男が台座に取りつく。彼は、前の男とは違って、上だけではなく、横にも剣を動かそうとする。それが功を奏したものか、剣が少しだけ上に持ちあがり、見物人は歓声をあげる──が、この男もそこまで。剣はその後、微動だにしない。
あんな大男たちでも無理なのか、と僕は絶望する。そんな剣を、僕なんかが抜けるわけがないではないか。親方は僕に、臆病だ、と言った。まったくもって、そのとおりだと思う。だって──僕はもうこの場にはいたくない。アンジェが誰かのものになるところなど見たくないのである。結局のところ、領主の娘と鍵師の徒弟では、身分が違うのだ──そう、あきらめようとしたときだった。
「──ニコ!」
アンジェが僕の姿を認めて、立ちあがって名を呼ぶ。
「次はニコがやって!」
ふくらませていた頬をしぼませて、彼女は小さなえくぼをつくる。情けなくも今から逃げ出そうとしていた僕に、彼女は全幅の信頼を置いているのである。
「いいでしょう? お父様」
愛娘に請われて、領主様は僕をじろりとにらんで──そして、おもむろに頷く。
「じゃあ、次はニコの番よ」
彼女の言葉に、僕は悟る。
僕には勇気なんてない。でも──彼女の笑顔が僕に勇気をくれる。
僕は、次の順番を待っていた大男の前に出て、汗でびっしょりになった手のひらを作業着でぬぐう。
「がんばって!」
アンジェの声に突き動かされながら、僕はおもむろに剣に手をかける。まずは、思いきり力を込めて、剣を引き抜かんとする──が、やはりというか、剣は微動だにしない。それならば、と先の男を真似て、横に動かしてみる。今度はいくらか手応えがある。
そのとき──僕は奇妙な違和感を抱いた。そもそもこの剣はなんなのだろう。魔法によって封じられた剣であろうか──いや、そんなことはない。もしも魔法の剣であれば、魔法の使えぬ領主様に抜けるはずがない。そう──領主様はこの剣を抜いたのだ。前回の儀式にも大勢参加したであろう力自慢を押しのけて、領主様が抜いたのだ。力では決して抜けない剣、しかし動かし方によってはいくらかの手応えがある。これと似たようなことを、僕は経験している──いや、ずっとそれしか経験してこなかった!
これは「鍵」だ。
これは台座に刺さった、剣の形をした、複雑な「鍵」なのである。そうとわかれば、と僕は自らを奮い立たせる。時間はまだある。アンジェを見やると、彼女は祈るように、僕を見守っている。できる──僕なら、きっとできる。
僕は手にした剣を右に回す。動かない。次は左に回す──回し過ぎだ。途中で窪みの感触があった。そこで上に動かす。そうして──先の男のときよりも、その刀身をあらわにした剣に、見物人はいっそうの歓声をあげる。
次は右か。先と同じように、途中に窪みがある──が、これは正解ではない。上に動かしても、剣は途中で止まってしまう。さらに回すと、その先にもう一つ窪みがある。こちらの方が正解であろう。剣はさらにその姿をあらわにする。僕には、もう歓声は聞こえない。
剣の長さから見ても、次で最後であろう、と思う。手に伝わる感触から、複数の窪みの存在を確信する。おそらく、この窪みのそれぞれに、剣の出っ張りをあわせて引き抜くのであろう。組み合わせの問題である。あせらずに一つずつやればよい。
まず、最初の窪みに、剣の出っ張りをあわせる──が、いくつかの窪みには出っ張りがあわない。これは違う。次。これも違う。砂時計を見やる。まだ砂は残っている。次。これも違う。砂時計に目をやろうとして思い直す。もはや残り時間を確認する間すら惜しい。次──すべての窪みに、すべての出っ張りがはまる。これだ!
後は引き抜くだけである、と力を込めて──予想外の抵抗に、意表を突かれる。
そんな──そんな馬鹿な。他の組み合わせでは無理だったのだから、これで正しいはずであるというのに──まさか、もっと手前の段階で間違っていたというのであろうか。それなら──それなら、もう間に合わない。
僕は絶望に打ちひしがれながら、アンジェの顔を見やる。祈るように僕を見る彼女が、他の誰かのものになるなんて、絶対に嫌だ。無駄なことであるとわかっていても、僕は剣を引き抜こうとする。途中に感じる抵抗が、鍵開けの失敗を告げるものだとわかっていても、力を込めずにはいられない。
アンジェ──どうして僕は君に、無理だ、なんて言ってしまったんだろう。どうして親方の言葉を、もっと信じなかったんだろう。信じて、落ち着いて儀式に臨んでさえいれば、余裕を持って正しい手順で剣を抜くことができたかもしれなかったというのに。後悔の涙が頬を伝って──そして。
剣は、僕の手の中にあった。
意外なその重さに、思わず剣を取り落としそうになって初めて、僕はその異様な刀身に気づく。難解な鍵のごとく、複雑怪奇な形をした剣──こんなもの、鍵師でなければ抜けぬであろう、とあきれる。
もしかして、あれが正しい手順だったのであろうか、最後は力で引き抜くのが正解だったのであろうか──いくら考えても答えは出ないのであるが、ただ手に残る重みだけが、僕が儀式をやり遂げたことを証明している。
呆然とする僕のもとに、空から天使が降ってくる。
「ニコ! ニコ! わたし、絶対ニコが抜いてくれるって、信じてたんだから!」
「アンジェ、危ないよ! 僕は剣を持っているんだから」
そのときになって、ようやく聞こえてくる、割れんばかりの歓声。アンジェは僕の首に腕を回して、抱きついて離れない。彼女の頬のぬくもりを感じながら、僕は心の中で、親方にありったけの感謝を捧げる。
アンジェは、興奮の冷めやらぬ喧騒の中で、とっておきの秘密を話すのだと言わんばかりに唇に指をあてて、僕の耳元でそっとささやく。
「あのね──お父様も、ずっとずっと昔には、ニコみたいな鍵師だったのよ!」