【08】せめて対等な契約を!
けいやく。
契約って言ったのか、彼。
「手を見てみろ」
真顔になった私に、ヴァドーさんが指をさす。左手。私の小指の爪が真っ黒に、あの星屑を撒いた色彩に染まっている。
契約の証だ、と、彼は笑った。
笑顔は気持ちのいいものじゃない、にんまりとした、如何にも悪魔的なそれだった。
「悪魔に願いを叶えさせるには、対等な契約があってこそと話したろうに。
おまえの望みはあの男を生かすこと。我は叶えた。ならばそちらも対価を支払わねばな」
「な、な、な……!?」
「おっと、詐欺と謗られる言われはないぞ。交渉の手順を飛ばしたのはおまえだ。商家の娘も殺人犯になりかけると詰めが甘くなるらしい」
前言撤回。
こいつは悪逆非道の悪魔だ。
開いた口が塞がらない。彼はあの極限状態で、私が混乱していることを理解した上で交渉を持ち掛けたのだ。商談としてやらない手ではないけれども不誠実にあたる、こんなことをすればもう二度と取引は望めない。禁忌的なあくどいやり口、それを平然とやってのけたのだ!
「しっ……信じられない! 不道徳! 不義! 最低!!」
「おうおう、よく喚く。何を言おうと覆らぬのに」
「代償に何を寄越せっていうつもりです!? 言っておきますけどお金なら出しませんよ、貴方みたいな不義理な商売を働く人には銅貨一枚だって支払いたくない!!」
「金なぞ糞の役にも立たぬわ。我が望むのはたった一つ。それを交渉する前に割り込んできたのは元婚約者の方だぞ? まあいい――」
ヴァドーさんは私の怒りを全く気にも留めていない。長い指の腹をひたりと両手分くっつけて、意味深な表情を浮かべて見せる。
「おまえはこれから、共に『真実の愛』を探してもらう」
意味が分からない。という反応をすでに予見していたらしい彼は、まあ聞けと眉を持ち上げた。
「おまえの述べた恋愛論は説得力があった。やはりヒトの感情はヒトに教わるが最適と痛感した。あれしきでは足りぬから、もっと色々教えてくれ。そして我の胃の腑を満たす手伝いをするのだ」
「あ、あ、悪魔の手助け!? 冗談じゃない!」
「ならば紹介でも構わぬぞ。真に愛し合っているヒトのつがいと引き合わせてくれ。『真実の愛』が芽生えていればそれを喰う。おまえは自由。どうだ?」
「知人を生贄にして自分だけ助かれと!? ばか言わないで、破局させるってことでしょうが!」
「出来んか。わりかし利己的な女に見えたが、そのあたりはまともなのだな。
ではやはり、予定通り共犯となってもらわねばなるまい」
まともじゃない生き物にまともって言われてもまったく嬉しくなかった。
(もうこれはあれだ、逃げるしかない)
私はヴァドーさんを睨みつけながら、じり、じり、と、距離を取りつつあった。
少しずつ離れて、大声で悪魔だ変質者だと叫びながら大通りを目指す。姿を隠せる相手にどれだけ有効なのかは知れないけれど、口封じの話をしていたなら存在を露見したくはないはずだ。
「言っておくが、どれだけ逃げても無駄だぞ」
逃げる算段をつける私に、絶望的な言葉が投げられた。
悪魔はにんまり笑う。小指を立てて、唇の端を持ち上げて。
「おまえの小指は約束した。何所へ行こうと我は見失わぬ。契約が履行されるまでは永遠にな」
「っ……!」
「他に手がないのならば受け入れろ。
いやはや、切り捨てた元婚約者を救う為に悪魔と契約を結ぶなど、おまえは本当に人の良い娘よなあ?」
嫌味に対しても言い返せない。
まさに万事休す――
「ああああああ! 何て失態!!」
がくりと地面に膝をついて、私は頭を掻きむしった。
「内容も確認せずに契約を結んだなんて、お父様にばれたら何て言われるか!! こんなうさん臭い悪魔に! 騙されて! 契約!! 最悪!!」
絶叫は人一人いない路地に空しく響き渡る。かかか、と、喉を鳴らす笑い声がかぶさってきて更に怒りがこみ上げる。彼にもだがもちろん自分にもだ。
ぎっと睨みつけると、ヴァドーさんは肩をすくめた。大きな角をまるで自慢するみたいに揺らして。
「そう憤るな、何も難しいことを頼んではいない。ちとヒトの恋愛事情の解説役が欲しいだけだ。まずは知らねば、それだけよ」
「そんなの適当な恋愛小説でも読んで勉強したらいいじゃないの! 世の中にいっぱいあるわよ! 本でも劇でも何でも!!」
「現実と地続きの解釈でなくてはなあ。何か嘘っぽいし」
「えり好みを! するな!! ああもうっ……!」
こうなったらもう、やけっぱちだ。
彼の目的は『真実の愛』を食べること。そのためにまず、ヒトの恋愛を知ること。悪魔では理解できない感情を理解する為に私を利用する。
だったら私だって利用しようじゃないか。
(ヴァドーさんは感情を匂いで感知してた。それに怪我も治せる力を持ってる。うまく扱えば商売に繋がるかも…… いいえ繋げてみせる、詐欺悪魔に搾取されっぱなしなんて、絶対にごめんだわ)
そうでもしないと、とても冷静ではいられない。
すう、はあ。一度深呼吸をしてから、私はヴァドーさんに向き直った。
高い位置にある綺麗な顔は、面白おかしいおもちゃを見つけた子供か、嗜虐趣味のご婦人か。どちらにしても迷惑極まりない雰囲気で、私を見下ろしている。
(やってやろうじゃないの)
ひくつく頬を押し殺して、私はせいぜい笑ってみせた。
右手を差し出す。首をかしげる悪魔に、ずい、と。
「握手は信頼できる契約相手とするものよ。
それに貴方たちの常識じゃ、契約は対等な者として結ぶのでしょ? だったら敬語も使わないわ。
お互い良い取引になるようにしましょ、ヴァドーさん」
「ヴァドーで良いぞ。対等なればな」
私の挑戦的な物言いに、ますます彼は楽しそうな表情を浮かべた。
差し出した手に、大きな右手が応えた。ぐっと握る。体温は冷たい。まるで石にでも触っているかのよう。
怯む姿は見せたくなくて、軽く握り返す。悪魔は歯を見せて笑った。
「宜しく頼むぞ、イレーナ。今後を楽しみにしている」
こうして――
十九歳の春、私は婚約者にフラれ、その日のうちに悪魔と契約したのだった。
これからの日々が波乱に満ちた非日常となることを、私はまだ知らない。知るよしもない。
今はただ、この腹立たしい詐欺師悪魔のにやけ顔を、クレイに与えた以上のビンタで張り倒したい。そんな気持ちでいっぱいだった。
最後まで読んで下さってありがとうございます!!!
ひとまず出会いのお話としてここまでとなります。続きは機会があれば。
グルメ悪魔と肝の据わったお嬢さんのフラれからはじまるお話、ここまで読んで下さってもし良かったよと思って下さったら、よければブクマや★★★★★など、ポチっとして下さるとうれしいです!