【07】死因:ビンタ なんて冗談じゃない
手を見る。クレイを見る。ぶつかった場所に皹が入っている。この手で彼を壁に叩きつけた。その事実を、崩れ落ちた元婚約者の物言わぬ様子が告げている。
クレイは白目になっていた。
そして口の端から泡を吹いていた。
「う、うそでしょ、そんな馬鹿力じゃないし、え、何で、え、やだちょっと、し、死っ……!?」
「死にはせん。昏倒させただけだ」
ぬっと突然、背中から低い声がした。
振り向けばそこにはヴァドーさん。さっき消えた時と全く同じ姿で、私を上から覗き込んでいる。
「ヴァドーさん、いたんですか!?」
「ずっといたぞ。姿を消していただけだ」
「ああそういうこともできるの…… じゃなくて! 今昏倒させたって、あのやけにうまく決まったビンタ、ひょっとして貴方が!?」
「いいや、打ったのは間違いなくおまえだ。お見事。
我がやったのは勢いに乗せて吹き飛ばしただけよ。いい感じに黙ったな」
と、ひょいひょいっとした足取りで、ヴァドーさんはクレイの横にしゃがみこんだ。
「見ろ、顔が青くなってきたぞ。これは長くもつまい」
なんて言ってからから笑っている。
私の方が青くなる番だった。長くないって、つまり。
「そこまでしなくていいんです、ちょっと分からせたかっただけでっ…… し、死んで欲しいなんて思ってない!」
「困るのか? 愛しても居ない、迷惑なだけの男であるのに」
「当たり前でしょ!? ああ、誰か呼んでこなきゃ、手遅れに……!」
飛び出そうとした私の手をヴァドーさんは掴んだ。最初の時よりも弱い力で、だけれど逃れられない、絶妙な力加減で。
「我なら、『どうにか』できるが?」
ざわ、と。
周りの空気が、また揺らいだ気がした。
「どうにかって…… クレイを助けられるんですか?」
「瀕死の重傷を元に戻すなど容易いこと。望むならば力を貸そう」
「じゃあお願いします、今すぐに助けて!」
「約束には書面が必要でなかったか?」
「そんなことをしてたら間に合わなくなるでしょうが!! 何だって悠長に構えてるの、悪魔ってそうなの!?」
私が背中をぼかすか叩いて訴えると、ヴァドーさんはにんまり笑った。一本指を立てる。そして、
「確かに承った。では、そい」
軽く言って、指をクレイの頭の中に突っ込んだ。
「ひええええええええ!!!?」
私の絶叫がこだまする。いや、叫ぶに決まっている。こめかみからずぶっと、あの長い爪が生えた人さし指が埋まっているのだ。血も出ないし何の音もしないのがかえって不気味だ。細かく動かしながら、ヴァドーさんがぶつぶつ言う。
「脳味噌の方が少々あれだな…… ここをこうして、こう……」
「あれってなんですか!何やってるんですか!」
「此方も大分やばいか? いやなに、ちょちょいと、あ」
「あ、って何!? やめて本当に説明してちゃんと!」
「煩い娘だ、ポロっといったらどうする。まあいい、適当に繋げば」
「不穏なこと言わないでよおおお!」
半泣きになる私に誰か同情してほしい。やだもう本当にやだ。
背中を掴んで揺さぶりたかったけれど、その振動でまた「あ」とか言われたら今度こそ私が下手人になる。恐ろしくて横で悲鳴を上げるしかなく、半ば祈るような気持ちだった。好きか嫌いかはさておいて、知り合いを殺したいなんて思う人間はいないだろう。死なないで欲しい。いろんな意味で。
「ん、善し」
ヴァドーさんがすぽんと指を抜くまで、私は中腰でわなわな震えるだけのか弱い乙女になり下がっていた。
果たしてクレイは――
白目をむいたままだった顔を恐る恐るのぞき込むと、いきなり目がぐるんと元に戻った。こっちが失神するかと思った。
「ク、クレイ……?」
呼びかけてみる。彼はビク、と跳ねてから起き上がって――
「やあイレーナ! どうしたんだい、青い顔をして!!」
歯をきらりと輝かせて、爽やかに、私に向けて挨拶をした。
「貴方、大丈夫なの? どこもおかしくは……」
「変なことを聞くんだね、僕は至っていつも通りさ! しかしいい天気だ、こんな日は釣りにでも出かけたくなるよ! ああでも、そんなことをしたら父上に怒られてしまうかな、貴族としての自覚をもっと持てってね、ハハッ!!」
空はどんより曇り空なのに、彼の眼には一体どう映っているんだろうか。
首をぎりぎりとぎこちなく回して、私はヴァドーさんを見た。まったく素知らぬ顔をしていた。クレイが彼に気が付いていないということは、私にだけ姿を見せているんだろう。何その都合のいい技。
「おっと、もうこんな時間か! 僕はこれから今夜のパーティの準備をしないといけなくてね! 失礼するよ!」
と――
彼は、颯爽と別れの挨拶をすると、軽やかな足取りで袋小路を抜けていった。
「……どうしちゃったの、あれ」
「ちょっとしたおまけだ」
呆然とする私の横で、ヴァドーさんはにやり、と笑った。
「おまえへの恋愛感情を根こそぎ引っこ抜いた。二度と付きまとわれることは無かろう。
ヒトの感情操作は我らの十八番。神にも為せぬ妙技よ。少々陽気な男になったが、命よりは安かろう?」
「あ……」
この人――
本当に、私のことを助けてくれたのか。
(私が助けてって言ったから。クレイを死なせないでと願ったから)
その上、今後も困らないようになんてサービスまでしてくれた。
ぐっと胸がせりあがるような気分だった。
彼は確かに悪魔だけれど、言った通り、やるといったらやってくれる。嘘をつかない。もしかしたら、人間よりもずっと誠実で偽りのない存在なのかもしれない。
だったらこちらも、誠実にお礼を言うべきだ。
私は立ち上がり、まっすぐ背中を伸ばして頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげで助かりました。……色々と失礼なことをしてごめんなさい。貴方のおかげで救われました」
「礼など不用よ。なんだ、畏まって」
再びからから笑って、ヴァドーさんは手を振った。我とおまえの仲ではないか――なんて、親しげに肩まで叩いて。
(この人、いやひとじゃないけど、優しいじゃない)
なんだかじんわり泣けてくる。
悪の存在なんて言われているけれど、少なくともヴァドーさんはそうじゃない。
思い返してみれば、最初から彼は何だかんだで優しかった。私は自分が可愛げのない、気の強い性格だと自認しているけれど、そういうのが嫌な人が多いことも知っている。
ヴァドーさんは、そんな私の言うことをちゃんと聞いてくれたし、助けてもくれた。
それはヒーローと呼んでも差し支えのない働きだ。そう思ったら、彼の恐ろしい風貌も、巨大な角も、全然こわいと感じなくなった。
それどころか、うん。
(かっこいい、と思う)
綺麗な顔で、高い身長で、ちょっと物言いは意地悪いけど、人を助けてくれる。
あ、やばい。なんかドキドキしてきた。さっき後ろから抱きしめられて近距離でお喋りしてたのとか、今更になって意識してしまう。
「ほ、ほんとにありがとう。何て言えばいいか――」
急に身体が熱くなった。どうしよう。私がもじもじ戸惑っていると、ヴァドーさんは朗らかな声で言った。
「おまえは我と契約したのだから、もっと堂々とするが良い」
「……は?」
読んで下さってありがとうございます!!次話でいったんラストです。よければお付き合いくださいませ。