【06】恋愛物語の主人公、再び
「良かった、見つかって! これも神の導きかな!?」
クレイの服装は別れた時と同じものだったけれど、ひどく乱れていた。何か事件があったのだろうかと心配した気持ちが、芝居がかかった口調のせいで霧散する。
変わってない。相変わらずクレイは舞台の上に立っているらしい。
「……あれ、ヴァドーさん?」
ふと気が付くと、ヴァドーさんの姿がなかった。私を背中から抱き込んだ体勢をずっと崩さなかったのに、背後には誰もいなくて、袋小路の薄闇がわだかまっているだけ。
(悪魔は好きに身を隠したり現したりすることができるんだろうか)
そんなことを思っている間に、クレイは足早に私に近寄ってきた。顔をよく見てぎょっとする。両頬が、おもしろい形に腫れあがっていたからだ。
「貴方、顔どうしたの?」
「ああ、これか」
フッ、と、クレイは自嘲気味の微笑を浮かべた。止めて。
「君のパパの拳が右、リリーの平手が左さ」
「ってことは、本当に馬鹿正直にお父様に伝えたのね」
「理解を示して下さらなかったよ。それにあろうことか、リリーまで……!」
そこまで聞いて良く分かった。何が起こったか――つまりは別れたのだろう。ヴァドーさんの客はまた、同じ道をたどったようだ。
結ばれて当日中に破局するのは好記録かもしれない。あとで聞いてみたい。
「二人で説明しに行ったんだ。そうしたらこの有様でね」
頼んでもいないのに彼は語った。お父様に殴られ激昂された時のことを。
『娘との婚約を破棄するだと!? 君は自分の立場を何だと思っているんだ!?』
『僕らは本気で愛し合っているんです! そしてイレーナのことも傷つけたくはなかった、せめて僕からご説明申し上げ、彼女に罪はないと理解して頂きたく!』
『当たり前だろうが、娘に何の問題がある! 君が婚約中の立場でありながら浮気をしたという事実しかなかろうが! ブラン男爵家は我が家を馬鹿にしているのか!』
『パパさん、落ち着いて下さい。そのように憤られても話は進みません!』
『どの口が言うか! 君にパパさんと呼ばれるのもこれきりだ! 娘共々侮辱しおって…… レオールでまともな生活ができると思うなよ!』
(ああ、容易に想像できるわ。お父様のガチ切れ)
お父様は私のことを愛してくれている。他に娘が生まれなかったからか、溺愛といっても良い。だけれど仕事に関するとなれば話は別で、決して甘やかさない人だから、その点を私は深く尊敬している。
そんな私を一方的に切り捨てたのだから、さもありなん。
クレイもお父様がどんな人なのかは知っているはず。結果は目に見えていたはずなのに、これも『真実の愛』に酔っぱらって目が曇ったが故の状況、ということか。
「レオールの町は、実質スレヴァリ商会が仕切っているようなもの――」
クレイは顔を覆い、嘆きの声を上げた。
「パパさんがそうおっしゃるなら現実にそうなる。だから僕は、ここを出ようとリリーに言ったんだ。家も何もかもを捨てて、二人で新しい場所に旅立とう、と」
「こんなはずじゃなかった、って言われたんでしょう」
「そうなんだ!! 『絶対に許してもらえるって言ったじゃない、逃亡生活なんてまっぴらよ!』と!」
「そうよね、男爵家の次男坊と結婚できると思ったら町ぐるみで総すかん食らって逃走の憂き目なんて、話が違い過ぎるものね」
「リリーは結局、僕の財産が目当てだったのさ…… それは真実の愛とは程遠い。
だけどね、イレーナ」
言って――
クレイは私の肩に、そっと手を置いた。
うるんだ瞳がじっとこちらを見つめて来る。ぞわっと走るいやな予感。まさか。
「気が付いたんだ。やっぱり君しかいないって」
(やっぱりそう来たか―――!!!!)
心の中で、私は絶叫を上げた。
正直クレイが舞台役者の顔のままでここに現れた時、最悪の未来として考えたことではあった。彼はまだ酔っている。それならすべてを自分の舞台のいいように解釈し、それこそ猪のように突っ走る可能性があった。
後ろが袋小路でなければさっさと逃げていたのだけれど、追いつめられる形になってしまってはどうにもならない。
(こんなことなら、帰り道のエスコートまで契約書に書いておけば良かった!)
悔やんでいる間にも、クレイの舞台は続いていく。肩に置いた右手、天に差し伸べる左手。あんなに天気が良かったのに空は曇りに陰っていて、だけれど彼は全く気にしていないようだ。
「君はこんな僕を責めることなく見送ってくれた。僕の愛を許してくれた。そんな君を、まやかしの愛に目が眩んで見失ってしまうなんて……
だが、こうして見つけ出せたということは! やっぱり君と僕の間には揺るがぬ赤い糸、真実の愛が結ばれている証拠だと今確信したよ! 君こそが僕の本当の真実の愛だったんだ、リリーはそのことに気づくための関門だったんだ!」
――今日一日で、一生分の『真実の愛』って単語を聞いた気がする。
開いた口が塞がらないとはこのことだった。
ついでに、ほのかに残っていたクレイへの、恋愛感情でないけれどそれなりの同情――彼だってヴァドーさんのグルメ計画の被害者と言えなくもない――が、つむじ風よりも早くどこかへ飛んでいった。
それでも一応、私は私として、スレヴァリ家の娘として立ち回った。頭痛を隠して、上っ面の笑顔を浮かべて見せる。
「クレイ、まずここから離れましょう? あんまり治安が良くないし、貴方がうろつくような場所じゃないわ。ね?」
こういう何を言っても通用しない相手は、町の衛士に押し付けるに限る。クレイは男爵家がついているんだし、もみ消しくらいはしてくれるだろう、きっと。
だけど、クレイは一筋縄ではいかなかった。
「おお、イレーナ! 僕の心優しき天使、イレーナ!!」
私の提案をどう受け取ったのか。読みが浅かったのか彼が想定以上の異常状態だったのか。浮かべた笑顔を、クレイは勘違いしたようだ。おおって。普段まず聞かないわよそれ。
「ありがとう、僕を許してくれるんだね!!」
「いやそうは言ってない、やめて、近い」
「こんな気持ちになったのは初めてだ。今すぐ君の愛に僕の愛を重ねたい!」
と。
あろうことか、クレイはタコのようにとがらせた唇で、目前に迫ってきた。
(ちょちょちょちょ待って待ってこの人キスっ!!?)
流石にそれは受け入れられない。身の安全を守る為に唇の一つをくれてやれ、と達観できるほど、私は女を捨てていない。ついでに言えば捨てる気もない。合理的な行動が分かっていても、選ばないプライドだってあるのだ。だいたい、なんで私が彼の身勝手でここまで振り回されなければならないのか!
(……っ、もう、限界!)
ごう、と燃え上がるのは怒りだった。怒りは振り上がる手の形になり、
「いい加減にしなさい!!!!」
ぱあん!!!
と、頬を打ついい音が、黒猫通りに響き渡った。
手首にぐっとかかる負荷。咄嗟に出したとは思えない、見事な平手打ち。
腫れた頬に叩き込まれた私の怒りは彼をよろめかせる――
のではなく。
足も浮く程激しく吹っ飛び、裏通りの壁に、激しくぶつかって動かなくなった。
「……え?」
振りぬいた姿勢のまま、私は唖然とした。
うそでしょ、と、呆然とした呟きがこぼれた。
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