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かげとりむし

作者: 長埜 恵

 朝起きると、自分の影がなくなっていた。

 かげとりむしに奪われたのだ。かげとりむしは、勝手に人の影を奪っては巣作りの材料に使う習性をもつ。

 かげとりむしは夜行性で、人が眠っている間に影を切り取る。このむしの口はハキリバチによく似ていた。もとからそこに影なんてなかったみたいに上手く切るので、しばらく気づかない人もいるぐらいである。

 人が夜という闇の中に影を隠しても、かげとりむしは抜け目なく奪っていく。だから人は、この胡乱な泥棒に対しあらゆる対策を取っていた。

 私も例外ではない。ある異国の蜘蛛の繭から作られた銀色の糸をたぐり、私は影を追い始めた。この粘着性の高い糸は、埃のように軽いかげとりむしの体にも付着する。眠る前にベッドを囲んでおけば、簡単な罠となるのだ。

 まもなく私は、アパートの裏にある大きな木のうろまでたどり着いた。幸い、はしごは不要そうである。私は、背伸びをして中を覗き込んだ。

 うろでは、五匹のかげとりむしの幼虫が体を寄せ合っていた。彼らの足元には、幾人分かの影が柔らかく絡んで寝床を作っている。その中に、見慣れた私の影もあった。

 私は、自分の影を返してもらう必要があった。しかしあれほど絡んでいては、一度かげとりむしの幼虫を外に追い出さねばならないだろう。そしてそれは、幼いむし達にとって死にも等しいものだった。彼らはまだ未熟で体毛が生え揃っておらず、体温調節ができない。


 私は選ばなければならなかった。自分の影を諦めるか、かげとりむしのこども五匹を殺すか。


 死を伴う問いに答えかね、自分の影を見つめる。私の影は何も言わなかった。ただたくさんの影と複雑に結ばれあい、生まれた命を育むために巣の役割を果たしていた。

 そうして私も、気づけばかげとりむしの幼虫が呼吸に腹部を震わせるのをぼんやりと眺めていたのである。

 しかし、とうとう私の指先が溶け始めた。影を失った人は人の形を失う。自我が影の変化を容認したのなら尚更だ。私の肉体は、影に合わせて形を変え始めた。

 それは、私という人の死を意味していた。

 静かだった。あまりに静かな死だった。けれど酷く安らかな気持ちだった。私の影は、これからもあのむしのこども達を慈しむのである。

 閉じていく光の中、私は全ての人の影がかげとりむしの巣になった世界を思っていた。人の影は密に絡み合い、かげとりむしのこども達を包み込んでいる。その世界にはひとつも人の奏でる音がなくて、無生物の海に沈んだかのようなのだ。

 けれどもう、その世界を見ることは叶わない。それだけが、私にある唯一の心残りだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読み終えて、何とも言い難い余韻の残る奇譚でありました。 自らの命より虫の子らの命を選びとった主人公の人物、心情を想像させられ切なさと幾ばくかの共感を覚えました。
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