第二話
一口に冬といっても、様々な種類の冬がある。冬らしい冬、暖かい冬、一人で超したくなる冬やら無性に酒が飲みたくなる冬やら、とにかく種々雑多だ。この年はそんな数ある冬の中でも最悪の冬のようだった。やたらと寒く、雨はしとしと降り続き、たまに晴れて日中は少し寒さも和らぐかと思えば、日没を待たずして激しい寒風とともに容赦ない寒さがやってくるのだ。それに加えて雪も降らないとくれば、ただひたすらに寒いだけだった。
この最悪な冬は鼻たちにとっても最悪だった。上鼻が調子を崩してしまったのである。上鼻は四六時中、メリハリもなく鼻孔をひくつかせて矢鱈と匂いを嗅ぎ、昼夜を問わず叫び散らかした。どこそこ大学のなにがしは実験データの改ざんや実験自体への作為をしているだとか、あれこれ株式会社の役員のだれかれは自身の債務の担保に会社の土地を指定しているだとか、果てにはいついつに日本は核の雲に包まれるとかいったことまで言い出す始末で、そのたびに下鼻にたしなめられていた。
そんなことが数日間続いたのだが、ある日の夜、上鼻は疲れにより気絶したかのようにぐっすりと眠った。彼が眠ってしまうと住宅街にはいつもの静けさがようやく戻ってきた。大通りでもほとんど車は走っておらず、聞こえるのは上鼻の大きないびきだけだ。既に月は高く昇り、日付も変わっていたので、見渡す限りの家々は全て消灯している。
そこら一帯の灯りが消えると空はぐっと高くなったように見え、より多くの星の輝きがだまし絵のようにいつの間にか現れている。下鼻は浮世離れな星明かりを受けながら、鼻の穴からため息のように大きく息を吐いた。下鼻はくたくたに疲れていた。上鼻が大声で訳のわからないことを喚くたびに必死でなだめるというのを五日間続けていたのだ。無理もないだろう。それに、上鼻が黙っているときでさえ、不安や心配がヤスリのように彼の神経をすり減らし、ストレスを与えていた。
上鼻の調子が良くなってくれればなぁ、と下鼻は月と星の光を浴びながら考えた。せめてもう少し暖かくなったら、ずっとマシになるんだろうが、春を待つしかないのか?彼は上鼻と比べれば思慮深い方だったが、それでもやはり何かを考えるにはあまりにも疲れすぎていた。
「星たち御用達とかいう天の泉に俺たちも行ければなぁ。それでチュンセだかポウセだか、小さな星が上鼻にちょいとあの香しい息を吹きかけてくれたら・・・」
下鼻は思い出したかのようにそう漏らしたが、自身の声に気づくと自嘲気味に鼻を鳴らすだけでそれより先は心の中でも言わなかった。
下鼻は一際大きく鼻を震わせながら目を覚ました。おそらくほんの少しの差で意識の覚醒の方が速かっただろう。寝てしまったのか?どれくらい?と思考を巡らしていたためか、空気を打ちのめすかのような、ほとんど怒号といってもいいくらいの大声は少し遅れて彼の知覚に及んだ。それは怒声に聞こえるほど大きくてとげとげしいが、攻撃的ではない、ちょうど横断歩道の向こうにいる友人に呼びかけるような声色だ。
下鼻はキョロキョロと鼻を動かし、三つの情報を得た。まず、今が夜中の一時頃だということ。次に、上鼻はまだ眠っているということ。最後に、声は二人の若者、以前にここを通ったキノコ頭と白髪の男性、から発せられていて、二人とも足が確かでなくなるほど酔っ払っているということ。
本当に懲りない連中だな、と下鼻は呆れつつも、上鼻が起きてしまわないかと肝を冷やしていた。この時の彼には、若者たちに早く通り過ぎてほしいと思う一方で引き返して別の道を通ってほしいと願う気持ちと、上鼻にこのまま眠っていてほしいと望む一方で起きて息を殺していてほしいと求める気持ちが各々で対立し合っていた。その四つの気持ちによる二つの矛盾に彼は抜き差しならなくなり、その結果何もできないでいるうちに、若者たちはあと数歩のところまで近づき、上鼻は地響きのようないびきをかき続けていた。
キノコ頭がふと立ち止まり、ぐらりぐらりと首を回した。
「おい、どうしたんだよ」と白髪も数歩先で立ち止まって振り返り、ヘラヘラ笑いながら言った。
「んー?いや・・・」キノコ頭もニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら歯切れの悪い返事をした。
「キメェな。どうしたんだよ」
「・・・なんか、おっさんのいびきみたいなの聞こえね?」
白髪は黙って首と視線を動かし、その後にまた口を開いた。
「マジじゃん、ヤベェな。どっからだよ」
「知らね。とっとと帰らね?」
キノコ頭が一歩踏み出したが、もう一人はそれに続かずに顔を斜め上に向け、メガホンのように両手を口に添えた。
「もしもぉし!おっさぁん!いびきがヤベェぞ!家庭ではいつも小声でモゴモゴしてるくせに、夢ん中では一丁前に亭主関白かぁ!?」
咆哮めいた大声は閑静な住宅街に火災みたく瞬く間に広がっていき、それを追うかのように、キノコ頭の笑い声がつんざいた。そしてそれに気をよくした白髪が、アホだとかボケだとか、短い罵倒を言い、キノコ頭が笑う。幼稚な文句と笑い声は地震のP波とS波のように一つのセットになっていた。
「うるせえぞクソガキ!クセぇ口閉じてさっさと失せやがれ!」
二人の声とは異なる、剣呑で攻撃的な声が唐突にとどろいた。それはいつぞやの市営バスのように周囲の音を飲み込み、天まで響いた。きっと、気絶していた大カラスやサソリの星も飛び起きたことだろう。若者たちも下鼻も驚いて呆気にとられていたが、その声が上鼻のものだと気づいた下鼻は、とっさに制止しようと息を吸う。しかし、若者たちの方が早かった。
「なぁ、今の声、どこからだよ。超ガチじゃん」と白髪。
「めっちゃ近かったぞ。ほとんど真横だったぞ」とキノコ頭。
「ここだよ!分かんねえか!?紫脳みそ野郎が!」と上鼻。
上鼻の声に二人が再度黙り、首を左右に回したので、下鼻はここだと会話に割り込もうとしたが、またしても若者たちに阻まれた。
「おい、ブロック塀のこの穴からだぞ!よく見たら鼻の穴みたいにヒクヒク動いてるぞ!」
キノコ頭は穴を指さして塀に近づいた。
「マジじゃん!ヤベェ!穴が喋ってんじゃん!」
白髪は、今度は自分でゲラゲラと笑った。
「うわっ、クッセ!この穴めっちゃ豚臭い息吐いてんだけど。ウケるわ」
ヘラヘラしながらキノコ頭が白髪のところに戻った。
全く悪びれる様子もない若者たちに、上鼻はますます怒りを募らせ、鼻孔を激しく震わせた。
「クズどもめ・・・。ふん、いいさ。せいぜいそうやって飄々と粋がってりゃいい。だがお天道は全部見てるんだからな、お前らの、悪魔さえ逃げ出すほどの鬼畜の所業を。全部知ってるんだからな、お前らが塵にも及ばないゴミだってことを」
彼の言葉を受けても二人は悪鬼のように笑うだけで、白髪はタバコに火をつけ、キノコ頭はポケットからスマホを取り出した。
そのスマホから、ポッ、という無機質で幾分間抜けな音が聞こえると、上鼻は勝ち誇ったかのように、ゆっくりと、大仰に、もったいぶりながら、言った。
「はん、お前ら本当に酒と動画撮影が好きだな。今日も未成年の女の子を酔い潰して、乱暴してるとこを撮ったのかい?それともその動画を高値で売っ払ったとこか?儲かりまっか?ぼちぼちでんなぁーってな!今日も人を不幸にして酒がうまいだろうよ!がっはっはっは!」
上鼻の壊れたような笑いとは対照的に、二人の若者はマネキンのように動きを止めて無表情になった。今なら下鼻が割って入る余地があったのだが、この時には、彼は今までに嗅いだことのない悪臭、上鼻の病気の臭いでもなければ、若者たちの酒やら欲やら悪意やらの臭いでもない、言うなればこれから起こるであろう残忍な行為への恐怖が臭いとなったもの、に打ちのめされてすっかり尻込みしてしまっていたのである。
二人の若者は何やらコソコソと話していた。その目には、およそ人間ならば誰しも覚えはある、醜悪な光を宿している。その会話に含まれる強い悪意を悟ることができなくなっていた上鼻は、勝ちを確信したかのようにただひたすら強気でまくし立てた。
「おい、どうなんだ!何とか言えよ、犯罪者ども!お天道は見てるんだ!お前らの悪は、文字通り既に白日の下に晒されてるんだよ!馬鹿なガキどもだ!人目を忍べばどうにかなるとでも思ったか!」異常なまでに興奮した上鼻はそこで一旦止めると、穴を広げて息を大きく吸った。「ざまぁみろ!言ったとおりだ、お天道は―」
彼の言葉が終わるのを待たずして、手で口を封じるかのように、上鼻の左穴にタバコの先端が押しつけられた。タバコを持つ手の先にいるのは白髪だ。ジュッ、という肉が焦げる音とともに、上鼻から驚愕とも悲鳴とも取れる声が発せられた。しかし、その後に出たのは明確な苦痛の叫びだった。
「おお、ヤベェな、マジで痛がってんじゃん。ウケる。つーか、めちゃ豚肉の匂いするんだけど。腹減るわー」
白髪がそう言いながら、右手の人差し指と親指をこするように動かしてタバコを回転させた。
「とっとと済ませちまおうぜ。ライター貸してくんね?」
キノコ頭はそう言ってタバコをくわえた。
上鼻は灰皿のようにタバコの火を押しつけられるたび、あが、とか、いぎ、とか表現しきれない声を上げた。そしてその後には必ず、人間のような悪意に満ちた笑い声が響くのだった。
二〇分後、もうそこには二人の若者はおらず、ほとんど長いままの吸い殻で穴を一杯にして荒い呼吸をしつつ時折短いうめき声を上げる上鼻と、寒さに耐えるかのように震える呼吸を繰り返す下鼻がいるだけだった。
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最近のことだ。僕は三条駅ビルにあるブックオフで買い物をした帰りに中京区の松ヶ枝町にいる知り合いへ新年の挨拶をしに行った。鴨川に架かる三条大橋は、新年ということもあり、市民のみならず参拝目的の観光客でも溢れかえっている。雑踏に紛れてしまった鴨川の流れに耳を傾ける余裕もなく、僕は人の濁流に押し戻されないように前に進んでいった。老若男女、皆よほどめでたいのか、僕の足を踏んでも肩とぶつかっても背中をどついても、何も気づかない。なんだかサッカーボールにでもなった気分だ。橋の途中ですれ違う、薄そうな晴れ着やら浴衣やら赤や白でカラフルな洋服やら髪の毛やらはまるで鴨川の下流に浮かぶ塵芥のようだった。
どうにか橋を抜けて松ヶ枝町に入ると、同じ京都市とは思えないほど静かになった。集中すれば枯れ葉の落ちる音だって聞こえてきそうだ。彼もいい場所に居を構えたな、と感心しながら住宅街を歩いていると僕の鼻腔に梅の匂いが、気ままな旅人のように、ふらふらと立ち寄った。香水やら整髪料やらのにおいにいたぶられた僕の鼻に嬉しい匂いだ。なんとなく僕はどこの梅がこれほど香っているのか確かめたくなり、立ち止まって周囲を見回した。昔ながらの和風な家が多いが、もちろん今風な家もあり、どちらからも団らんが壁越しに伝わってきていて温かい。視線を遠くに向けると、五軒ほど先の家に木の幹とそれをいい加減で隠す赤白色の梅の花が見える。そちらに向かって一歩踏み出した時、背後から突然声をかけられた。
「おい、おっさん!タバコの吸い過ぎだぜ!肺がんに気をつけろよ!」
どうやら半年ほど禁煙しても大した効果は無いらしい。それにしても、肺がんって・・・。
松ヶ枝の知人によると、その鼻たちは今年に入ってからいつの間にか町の掲示板の下に現れていたらしい。