第一話
9月半ばのこと、丸太町通から一つ角を曲がった住宅街に入った時、キンモクセイの匂いが漂ってきた。その香りを辿っていくと、ある古い民家が見えてくる。そこの庭にキンモクセイが植えられているのだ。背と同じくらいのブロック塀の向こうに大きなキンモクセイがあり、身を乗り出してその家の縁側を外から覗くことは容易ではない。木は狭い庭を占有するようにどっしりと構えており、見上げると深く繁った葉と花の隙間を雲と青空が貼り絵のように埋めている。まるでステンドグラスだ。
「今年もキンモクセイが良く咲いたなぁ」
「ああ。しかし、斜め向かいの家のサザンカは駄目だな、ありゃあ」
どこからか声がした。そう遠くはない。一通り周囲を見回しても誰も見当たらない。はて、空耳か、あるいは家の中からだろうか。そうして首をかしげると、ブゴォー、ブゴォー、と中年男性のいびきのような音が聞こえた。音はキンモクセイのすぐ近くだ。注意深く見てみると奇妙なものがあった。穴だ。縦長の穴。ブロック塀の中間あたりに豚の鼻のような穴が二セットあった。コンセントの穴に似ていると言えばきっと分かりやすいだろうか。とにかく、先ほどの声や音はその四つの穴から出ていたようだった。
ブロック塀に手をかけ、身を乗り出し、庭を見渡した。あの鼻があった場所をみても、豚どころか何もおらず、ただ風と自重によって振り落とされたキンモクセイの花と葉がちらほらと散らばっているだけだった。穏やかな風が吹き、それに乗って木の葉の揺れる音と花の匂いが流れていく。風が止むと再び静けさがどこからともなくやってきたが、雄豚の鳴き声のような、ゴッ、ゴッ、という音だけは相変わらず小さく聞こえてきていた。
その鼻たちは上段にある一組の穴と下段にある一組の穴で自我が分かれている。
ある日、朝も深まってきた八時頃に、一人の男子高校生が急いだ様子で彼らの前を通った。
「おい、ガキ!朝飯はちゃんと食えよ!購買のろくでもない惣菜パンなんかじゃダメだぜ!」と上鼻。
「寝不足か?どうやら昨日は夜更かしさんだったみたいだな。そりゃあ寝坊もするだろうよ。日付が変わる前に寝なきゃいけないよ」と下鼻。
高校生は立ち止まり、驚いたように背後を振り返ったが、空耳だと思ったのか、すぐにむき直して走っていった。
その鼻たちは、嗅覚がずば抜けて優れているというより、もはや嗅覚によってのみ、視覚や聴覚のような、他の感覚器官の役割を行っていると言っても過言ではないだろう。
ある日、夜が昼の色を上塗りし始めた一八時頃に、二人の若い学生が楽しそうに話しながら彼らの前を通った。一方が男性で他方が女性だ。厚いコートの肩が時々ぶつかっている。
「おい、姉ちゃん!アツアツだな!けど気をつけろよ!そいつはちょっとモラハラだとかロジハラだとかの気質があるぜ!」と上鼻。
「付き合う前と後で豹変するやつって、男女問わずいるものなあ。周囲や社会の普通とかいうものを気にして急ぐ気持ちは分かるが、それで自分が傷つく羽目になったら世話ないよ」と下鼻。
大学生たちは心臓がびくりとしたが、振り返ることはせずに平静を装ってそのまま遠ざかっていった。彼らは背後に迫るシルバーのバンに気づいていない。あまり広くはない道だったので、バンはクラクションを鳴らし、二人は今度こそ振り向いた。
その鼻たちはにおいから単なる刺激以上の情報を引き出すことができる。おそらく、人間が視覚から得た情報を元に様々な推測をできるのに近いと思う。遠くに黒い雲が見えるから雨が降るだろう、とか、チューリップが萎びているから水や肥料が必要だろう、とかいったような。
ある日、比叡山の向こうが少しずつ明るんできた五時頃に、一人の老人が一歩を広く踏んで腕を大きく振りながら彼らの前を通った。ウォーキング中だろう。
「おい、爺さん!お早う!精が出るな!でも心臓の具合がちょっと良くないぞ!とっとと病院で診てもらえよな!」と上鼻。
「何か質の悪い病気かもしれないものな、早いに越したことはないよ。そうでなくとも、ついでにいろいろ診てもらえばいい。高齢者は安く病院を利用できるしね」と下鼻。
老人は腕も足も勢いを緩めることなく、競歩選手のように脇目も振らなかった。そして軽く左手を振りながら「おうよ!」とだけ返事をしたのだった。
その鼻たちは別に特別なことをしているわけではない。ただ嗅いでいるだけなのだ。それにもかかわらず、彼らの嗅覚はもはや第六感、あるいは予知能力めいているようにさえ思われる。
ある日、京都の真上まで昇った太陽が市をくまなく照らしあげていた一三時頃に、若夫婦が寄り添って手をつなぎながらペンギンのように仲睦まじげに彼らの前を通った。彼らの声は小さく、会話は途切れ途切れにしか聞こえない。かろうじて聞こえる単語はまるで二人にしか通用しない秘密の合い言葉のようだった。
「おい、お二人さん!めでたいな!赤子の世話は大変だけど頑張れよ!なまこやたらこなんかよりずっと大変だぜ!はっはっは!」と上鼻。
「上鼻、気が早いぞ。そりゃあ明後日だ」と下鼻。
鼻たちはそれきり黙ってしまった。若夫婦は驚いたように辺りを見渡したが誰もいないと分かると、顔を見合わせて鏡のように互いに首をかしげ、それからくすくすと笑った。晩秋の陽光が肌を心地よく包んでいる。丸裸になった木の屈託そうな匂いは、太陽によって、来る春に新たに芽吹く生を心待ちにする香りへと絶え間なく濾過され、それが昼の京都市を陽光とともに満たしていた。
ある日、一〇月の中旬ほどから薄らと京都市を覆い始めた冷たいヴェールが触れられそうなほど明瞭に見えるようになってきた一二月のある日のことだ。相変わらず上鼻と下鼻は日がな一日鼻を鳴らして口から息を漏らしながら、通行人の匂いを嗅いでは声をかけるというのを繰り返していた。
そこらは住宅街ということもあってか、二二時を過ぎる頃には、太陽の就寝に遅ればせながら従うかのように灯りを消して静まる家々がしばしばと現れ、その静寂と暗闇のせいでこの住宅街へ入る道が黒く塗りつぶされてしまって丸太町通からは見えなくなっているのではないかと疑ってしまいそうなほど誰も通らなくなる。そのため、鼻たちもこの時間になると大抵やることがなくなってしまい、一休みしようかと思っていると大通りから住宅街へ向かってくる声が聞こえた。こういう時にあらゆる意味で俊敏なのは上鼻だ。ぴくりと鼻孔を震わせ、くんくんと声のした方嗅ぎ始めた。
声の主は若い、大学生くらいの二人組だ。一人の髪色は深い茶色で、キノコのような髪型をしており、背は170センチ無いくらいだった。もう一人の髪色は灰っぽい白色で、いわゆるウルフカットをしており、背は180センチほどあるように見えた。そして、二人とも大学生の例に漏れず、膝頭まで隠すほど丈の長いコートを着ていた。彼らは相当酒が入っているのか、夜の住宅街だということも忘れて、降りている真っ黒な帳をやたらめったらにかき分けるかのように大きな声で話したり下品な笑い声を上げたりしながら近づいてくる。
「あいつらには話しかけちゃいけねえよ。一瞬、人間だと気づかなかったぜ」と上鼻。
「そうだな。何されるか分かったもんじゃない」と下鼻。
グゥォオオン、と大きな音が聞こえてきたと思うと、丸太町通をバスが通り過ぎていくのが見えた。黄緑色のティッシュ箱のような車体の市営バスだ。大通りへ出るとすぐにある停留所に一時停車していて、今発車したところだったのだろう。バスが出す最も大きい音である、発進から加速しきるまでの爆音が住宅街に響き渡り、若者の笑い声も鼻たちの話し声も、海で波にさらわれる砂のオブジェのごとく、バスから発せられた音の荒波に果てまで突き飛ばされていった。
バスのエンジン音が遠くへ去ったり家やブロック塀に吸い込まれたりした直後は、一瞬間の静けさが訪れたが、そのすぐ後には、若者たちの喧噪はスクイーズのように元通りになっていた。そして、彼らはヴォリュームのつまみがこわれてしまったラジオみたいに、そのまま大きな声を上げながら、黙りこくった鼻たちの前を通り過ぎていき、二つ先の十字路を左に曲がって見えなくなった。