六口目 宮殿で美食 二
時間にすれば一分かそこらだったろう。終わるまでは、このまま転落死するかもしれない恐怖にさいなまれ続けた。ごろごろ転がらずにすんだのがまだしもの幸いだ。
滑り台のように背中を斜面にこすらせ、やっと着地したかと思ったら柔らかい土の上だった。岩場でないだけましとはいえ、全身土まみれになってしまった。
「おケガはございませんか?」
バカ丁寧な言葉が寄せられ、顔を上げるとイワシラの霊体がこちらを見下ろしていた。
「どこかで……美食にふけっているんだな」
やっかみ半分に返事をしながら膝に力を入れる。
「動き回ってはいけません」
「どこも痛くない」
イワシラの霊体は黙って右人差し指で下へとアジカンの視線を導いた。数歩先は断崖絶壁だ。つまり彼は、自分の身長と大して変わらない長さと幅の岩棚に救われていた。それと知ってみぞおちから爪先まで血が下がった。危うく腰が抜けるところを、辛うじて踏ん張り直す。
「思い留まって下さり嬉しいですわ」
「自殺したいわけじゃない」
どこか焦点のずれた会話を踏まえ、彼は唐突に気づいた。
「本体はどこだ?」
「真下に生えている木に引っかかっています」
崖からゆっくりと頭を突きだし、何かの間違いとしか思えないように崖から垂直に生える松の大木を認めた。幹を寝床さながらにしてイワシラの肉体が横たわっている。ここからだと、彼女は握り拳くらいのサイズに見える。
「どうしてああなった?」
自分の身もさることながら、やはり無視できない。
「転落する前、薮に生えていた実を口にしたら霊体になってしまいましたの。本体はそのまま落ちました」
「ウグイドンは?」
「お互いに離れて食材を探していましたわ」
「崖っぷちにあったやつなら何も実ってなかったぞ」
「最後の一個でしたもの。滅多に口にできない『ガケノバラ』の実は絶品でしたわ。ああ、私、思いだしただけでも肉体を離れてしまいそうです」
「もう離れてるじゃないか!」
「そうでしたわね。ところでこれからどうなさいますの?」
発端となった薮までは、大した落差ではなさそうだ。少し大きな脚立があればいい。そう判断するや否や、音もなく理想的な品が現れた。たてかけると上まで届く。
「あとはイワシラの救出だな」
「放っておけばライバルが減るんじゃありません?」
「私にも自尊心がある」
見殺しにして勝利を掴むなどアジカンには微塵もあり得ない。
イワシラが自力で歩けるなら、梯子をもう一つだせば簡単だ。そうとは限らないから慎重に進まねばならない。そのために、ロープとスパイクか何かがいる。それから金槌も。
実のところ、アジカンの筋力ではイワシラを抱えていけない。それでも打てる手は全て打たねばならない。
梯子を使えば今いる岩棚から簡単に松の根本までは進めるが、そこからは何歩か進まねばならない。梯子は梯子として別個に使うものの、幹の上で作業するからには自分にもイワシラにも命綱が欲しい。それにはどのみち、岩棚に命綱の端を固定しておかねばならなかった。
登山部に入っていたのではないから、いずれも細いか小さな物しかでてこなかった。スパイクに至っては釘だ。とはいえ一人にロープ二本を使えばどうにかなるだろう。
まず、岩棚の縁に釘を四本少し間隔を開けて打ち込んだ。その内の二本にロープを結び、両方ともズボンのベルトに通す。これなら、体重が分散されて危険が減る。
次に、もう二本の釘にもロープを結んでから下に降ろした。こちらはイワシラの肉体用だ。それから梯子を下ろした。
「ロープを腰に結んだら、肉体に戻ってくれ。できるなら梯子を使って登るんだ。どっちみちこちらからも引っ張る」
「かしこまりました」
負傷によっては、イワシラは自力で歩けないかも知れない。それならウグイドンを探すしかない。少なくとも、ロープを回しておきさえすれば彼女が崖底まで落ちる心配は大幅に減る。
いざ実行したら、かなりな難行だった。慎重に降りる、と言葉にするのは簡単だが命綱があっても足を滑らせたら最悪だ。その意味では、登るより降りる方が緊張する。
それでもアジカンはやり遂げた。たどり着いたら松の木はかなり頑丈で、足場としては申し分ない。
「イワシラ、しっかりしろ!」
軽く眺める限りでは大した痛手でないようだ。しかし、油断できない。そこへ、霊体が肉体に戻った。
「う、うーん……」
「もう大丈夫だぞ」
「痛たたた……アジカン、助けにきてくれたの?」
「そうだ。たって歩けそうか?」
「あちこちきしんで……うまく動けない」
「どこか骨でも折れたか?」
近づきかけたアジカンの周囲が突然暗くなった。
「アジカン、うしろ!」
振り返った彼の目に黒い羽毛と鋭い爪が生えそろった二本の脚が迫り、あわやというところで身体を沈めた。
巨大なカラスは最初の襲撃にこそ失敗したが、松の脇を急降下し、消えたかと思うと翼で巻き起こした風でアジカンの髪を跳ね上げながら喉元を掴みかけた。翼を広げたらゆうに大人七、八人分の幅はある。
今度も身体を捻って逃れたつもりが、足を踏み外して幹から転落しかけてしまう。いつの間にか木から落ちそうな位置まで寄せられていた。慌てて両手をついて免れたものの、鳥は空で身体を百八十度反転させて三度目の正直を狙った。
まともな武器がない上に狭い足場でしか動けない彼と、どこからでも好きに襲撃できる鳥とでは勝負にならない。
「アジカン!」
せめて援護射撃をとポケットの中にあった小銭を投げつけるイワシラ。
「痛っ! 俺に当たってるぞ! やめろイワシラ!」
「ご、ごめんなさい」
そのとき、急降下ポイントが微妙にずれた。アジカンではなく幹に爪がかかり、バランスを崩して谷底へ向けて落ちる。激突寸前で立て直したものの、再びやってくるまでに時間がかかるのは明らかだ。
カラスは光る物に興味を覚えるという。さっきのは、ただ光るだけでなく動いていたから余計に目だったのだろう。
アジカンは仕かけつきの釣具を呼びだした。エサの代わりにスプーンと呼ばれる流線形をした金属板の疑似餌がついている。スプーンには小さくともカラスの爪に負けない鋭く頑丈な三本針が備わっていた。
空中にスプーンを垂らして軽く揺すると、カラスは即座に足で掴んだ。針が深々と刺さり、悲鳴を上げて支離滅裂に飛び回る。そうすると今度は釣糸が身体に絡まり、がんじがらめになった鳥は羽根を撒き散らしながら墜落し始めた。
アジカンは、リールのベイルを倒して糸が自由にでていくようにした。放っておけば落ちるし、魚ならともかくあんな巨大な鳥を釣竿から自力で引き上げるのは無謀過ぎる。
鳥が地面に激突し、断末魔が上がった。釣竿は置いて、イワシラの具合をはっきりさせねばならない。
「さっきはヒントをありがとう」
「元はといえば僕のせいだよ。助けてくれてありがとう」
イワシラは、手足に力を入れてふらつきながらもどうにかたった。
「無理をするな、落ちるぞ」
「平気だよ。あの鳥、食べられないかな」
「こんなときに食事の話か」
「こんなときこそじゃないか。食べないと力がつかないし」
正論ではある。難点は、いささかたくまし過ぎる。
「それはそれとして、まだ思うように動けないんじゃないのか?」
「……うん」
邪魔が入ったにせよ、とにかく身体の具合を点検せねばならない。
「座ってろ」
アジカンは谷底を覗いた。目測でも数十メートルか。さすがに、そんな梯子は使ったことがない。やるならロープだ。
ふと空を見上げ、スマホの時計と照らし合わせた。まだ正午にもなってはいない。
当面、イワシラの危険は去った。ならば、あとは本人の運命に任せて天野と合流するのが妥当ではないのか。そもそもこんな決戦場を用意したのは天使であってアジカンではない。
にも係わらず、アジカンはイワシラのために自分が仕留めた鳥を振る舞いたくなってきた。例えそのせいで失格になったとしても。
「イワシラ、じっとしていろよ。鳥肉を回収してくる」
「ううう……痛いしひもじいし……待ってるよ」
五本目のロープと大きめの石をだしたアジカンは、片方の端に石をくくりつけてから幹に巻きつくように投げた。うまい具合に二周して幹の上で石が止まる。
それをがっちり固定してからベルトに結んだままのロープを外し、新しい方を通し直した。その上で、少しずつ谷底を目指す。
いざ谷底を踏むと、日光は大して届かず岩肌には緑色の苔がへばりついていた。たった今まで死闘を演じたカラスの死体は釣糸を食い込ませたまま横たわっている。
釣糸や疑似餌は、消えろと願ったら即座に消えた。天使が約束した通りだ。それはそれとして、大して時間はかけられない。肉として比較的簡単に採取できる部分だけを手にして上がる必要がある。
まず、何はさておき羽根をむしらねばならない。このとき自分自身や鳥の肌に土がつかないように意識する必要がある。それで、ピクニック用のビニールシートを広げた。
それから、相当に大きいので適当な大きさに区切らねばならない。胸肉を、羽根がついたまま四分の一ほどナイフで切り取った。それでもかなりな大きさがあった。それこそエバンテ達も含めて六人がかりでなら各自の一食で終わるくらいだ。
シートに靴を脱いで上がってから、座ってひたすら羽根をむしり始めた。手で引っ張れば抜けるものの、少し力を入れねばならない。
無心に作業しているつもりが、イワシラの打ちひしがれた姿を思いだしてしまう。助けを求める黄土色の瞳に吊り込まれそうな気がして軽く首を振った。
そこで、不意に気づいた。天野も自分を探しているのは間違いない。そこで、ウグイドンと同行している可能性はゼロではない。ウミガメのスープを食べているときも仲が良かった。
ある意味、これは節目なのだろうか。しかし、イワシラもアジカンも互いに興味がないとはっきりさせている。
などと雑念にまみれながら羽根はむしり終えた。それから、肌に残った細かい毛を焼き払わねばならない。てっとり早く携帯用のガスバーナーと小さな金バサミをだして、焦げないよう丹念にあぶった。
口をケガしたのではないから、肉を柔らかくする必要はそれほど神経質にならなくても良かろう。
そうなると、残りをどうするかはしばらく迷った。このまま捨てるのはもったいない。とはいえ、全て解体していくと時間がかかり過ぎる。時刻は正午を回っていた。
山奥であるから放っておけば獣やら虫やらが始末するだろう。それに、ある意味では自然の摂理として襲いかかり、敗れて死んだのだ。ならば、死骸がどうなろうと自然の摂理の一部に過ぎない。
ビニールラップで処理した肉を包み、更に古新聞で丁寧に包んでからリュックの中に納めた。