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禁断のトランザクション

 ここに登場する人物や団体名、並びに事件の記述は全てフィクションであり、実在の人物や団体、組織とは一切の関係はありません。本作品はノンフィクションではありませんが、ビットコインの仕組みや数量情報については、2021年の2月時点でインターネット上に公開されていた内容を脚色せずに紹介しています。

プロローグ


 唯一無二とは何か?


 屋外に出て近くの河川敷や海岸に足を運び、手ごろな大きさの石ころを手に取る時、あなたが手にした石は文字通り「唯一無二」の石と言えるだろうか?


 答えは「そりやそうだ」であろう。この世の誰であれ、地球上に転がる無限にある石ころの全ての種類、大きさ、形状、重さを記録してその中に自分が拾った石と同じものが無いことを事実として確認できるわけはない。しかし、我々は、その石が唯一無二であると直感的に感じることが出来る。自然界というのはそういうものであり、殆ど価値の無い石ころであっても、全く同じものを完全に複製することは出来ない。我々はそれを知っている。


 では、インターネット環境での電子データはどうか?例えば、今お読みになっている文章ははたして唯一無二だろうか?その内容や文体が、他人が書いたものの複製ではないと確信できるだろうか?


 実のところ、目の前の電子データが複製や模造でないという証拠は何もない。読者は文章を読むときに、その文章が「どこか別の場所に在るオリジナルの複製ではない」ことを暗黙の了解としているが、完全に信用し合っているわけではない。


 例えば、電子書店で夏目漱石の「吾輩は猫である」を購入して、スマートフォンで最初の数ページでも読んでみる。そして、「懐かしい。確かにこれは夏目漱石の作品だ」と思うところに何の根拠があるのだろうか?そこにあるのは書籍を電子出版している企業に対するひどく曖昧な一片の信頼だけである。


 悪意の出版社が居て、「吾輩は・・・」の作品を少しづつ改訂して世の中に流布しているとすれば、我々は知らぬうちに改竄された書籍を読まされることになるだろうし、夏目漱石の完全な原作は永遠に失われる事態にもなりかねない。おそらく「唯一無二の原本」として信頼できるのは、1900年代初頭の俳句雑誌「ホトトギス」の物理的な原本にある夏目の文章だけということになる。このように考えると、日常に使われているメッセージや合意文章や電子マネーの類がいかに不確実で曖昧なものであるか痛感せざるを得ない。


 米連邦捜査局(FBI)が2010年2月11日に発表したインターネット犯罪に関する年次レポート「2019インターネット・クライムレポート」によると、2019年にインターネットおよびサイバー犯罪に関する苦情が46万7361件寄せられ、その被害額はFBIの推計で35億ドル(約3850億円)を超えたという。


 インターネットという神的な技術革新の裏には、自然界の常識を寄せ付けない騙しと複製が横行するネットスペースが広がっている。ネット犯罪を防止するために全ての取引商品、支払い請求、支払われる現金、支払いを受ける人や企業が全て(河川敷の石ころのように)「唯一無二」であることが保証される仕組みが求められる時代になったのである。


 そしてそれを実現したのが他ならぬブロックチェーン技術だと言われている。


☆☆☆


ブロックゼロ


 神奈川県平塚市の古い木造アパートの一室で男の変死体が発見された。神奈川県警の柿崎は身元を確認すると同時に、あたふたと県警本部に報告メールを入れていた。


 男の免許証は机の上の財布に入っていたが、この男の名前や身なりについて詳しく話すのは後になる。ただこの変死体は他殺によるもと断定されていた。柿崎の報告メールは他殺説で半分以上埋められていた。


 遺体が発見されたのは男の書斎である。男は自分の机に頭からみぞおちまでを丸めて身を投げるようにもたれかかっていた。机の脇には医療施設で使われる点滴用のバッグスタンドが有り横文字の薬品名が印刷されたビニールパックから男の腕まで透明チューブが伸びていた。


 誰も争った形跡が無く、男の片腕に静脈カテーテルが挿入されたままで見つかったことは他殺説の強い根拠である。薬物投与に詳しい人物が男を死に至らしめたと思われたのだ。直接の死因は致死量を超える薬物投与によるショック死である。被害者の男ひとりではこの状況は作り得ないし、残された器具から男の指紋は全く検出されなかった。


 執務室に有ったであろう図書や文書はそっくり持ち去られていて、残ったのは若干の筆記用具だけであった。遺体を調べるうちに被害者が履いていたズボンのポケットから長さ6センチ・幅3センチの小さなメモ帳が出てきた。メモの最初の1枚に書かれた手書きの数字は電話番号には見えず、パスワードにしてはぶつ切れの書体で意味不明であったが、何かを伝えようとしたのか、目をやればはっきりと読みとれるメモであった。


9、170、50、181、182、183、187、248……


 手がかりになるもしれない。柿崎はメモ帳を鑑識用にビニールに収めた。


数字の意味がわかったのはそれから数日後だった。



ブロック1


 神奈川県警の一室で柿崎がラップトップのパソコンを相手に話し込んでいた。昨年から県内で多発している感染症の流行を抑えるため、都内の警視庁との打ち合わせもネット経由が原則であった。


 画面には本庁の女性刑務官の顔写真が表示されていて、恐らくは本人より美的に写っているんだろうが、如何にも公務員といった表情は凍って見える。


 「柿崎さん、こちらはネット犯罪の専門部から技官の島部と私、岡崎の2名です。昨日メールいただいた平塚事件の内容について確認させて下さい。」


 了解と答えるより先に柿崎は事前に打ったメールの内容を改めて説明し始めた。


 被害者の検死により体内から海外の死刑執行に用いられる全身麻痺剤、筋弛緩剤、塩化カリウムが検出された。直接の死因は静脈カテーテルからの塩化カリウムの致死量投与による心機能停止と判明した。専門的知識と経験を持つプロが潤沢な資金と特殊な薬物の調達ルートを確保して計画的に実行した犯行だ。アパートの管理人や他のテナントが不在のタイミングに、あたかも知人が訪ねるように被害者の部屋にすんなり入り、せいぜい20分程度の間に手際よく殺害されたものと推察された。設備が整った死刑執行では、薬物投与から心停止までの所要時間は10分以内である。犯人は単独でなく、数名の熟達したプロの犯行と思われた。設備や薬物が持ち去られずに現場に残されていることから、この殺人がなんらかの「見せしめ」である可能性もあった。


 柿崎は手がかりを追うために休日を返上して自宅で県警や平塚市の役所と電話連絡を続けていたのだが、何度かメモの数字を繰り返す内に、うっかりして長男の貞彦に会話の内容を聞かれてしまった。


 貞彦は某大工学部に通っていて最近のデジタル技術に詳しかったが、柿崎の口から出た9や170といった数字を耳にして、「心当たりがある」と言い出した。曰く、170というのはブロックチェーン技術の草分けであるビットコインを開発したSNなる発明家が知人のHFという人物に世界で初めて暗号通貨を送った記念すべきブロックの番号だと言う。


 170だけなら偶然の一致だろうから気にはならないが、その前の9という数と、つぎの50が特徴的なブロックナンバーだと言うことであったが、貞彦の複雑な説明を聞いた柿崎は半信半疑であった。そこで操作に参加出来ない貞彦には口止めした上で警視庁の専門家に問い合わせることとなった。


 「島部です。確かに170はビットコインを開発したサトシ・ナカモトが、知人のハル・フィニーに自分の暗号資産の一部を送った世界初のブロックチェーンの取引を登録したブロックの番号です。そして9はそのナカモトが送ったビットコインの原資をナカモト自信が採掘して稼いだ時点のブロック番号です。そのあとに続く数字も同じように2009年当時のビットコインの初期段階の実験的な取引に関連するブロック番号ですね。10年前の記録なので非常にマニアックな人でないと興味は持てないものです。」


 柿崎はブロックチェーンだの採掘だの意味不明の技術が平塚の事件の解決に繋がるかどうかの決め手をさがしていた。一方、岡崎にとって数字の意味よりも気になっていたのは捜査である。


 「柿崎さん、被害者はパソコンを持っていませんでしたか?それから、被害者の自宅の机以外にも、箪笥とか食器棚とか隈なく捜査してあるのでしょうか?」


 岡崎と島部が気にするのも無理はない。メモにあった数字が本当にブロックチェーンに関する専門的な情報なら、被害者のパソコンのハードディスクやアパートの机のそこかしこに数多の手掛かりが有って然るべきだ。特に島部は被害者と思しき男が執務机以外の何処かにペーパーウォレットを隠していないか知りたがった。ペーパーウォレットについては後述する。


 是非も無い。柿崎は鑑識に渡していた被害者のデスクトップのパソコン一式を本庁に搬送する手配と、くだんのアパートの捜査のやり直しを約束した。


ブロック2


 神奈川県警の記者クラブは平塚のアパート殺人事件の記者会見で時ならぬ賑わいを見せていたが、感染症対策のため記者たちは互いに距離を取りながら広報官の発表に聞き入っていた。


 「・・以上が現時点で判明している死因と手がかりの全てとなっており、アパート内は人が争った痕跡も無く、被害者の男性、阿部博さん32才を殺害したと見られる犯人は国際級のプロ集団と思われ・・・」


 前列に陣取る北浜新聞の傳田は、会見内容を打ち込んだパソコンの画面を見ながら説明が終わるのを待たずに手を挙げて質疑の意思を伝えていた。最初の発言権を得たのはテレビ局であったが、その内容は傳田が聞こうとしたものと大差ない。


 「みなとTVの鈴木です。被害者が持っていたメモの内容はご説明の内容で全部でしょうか?出来れば実物の写真を撮らせて下さい。」


 広報官は、そのメモは小さなものであり10枚程度であること、他の文書類は持ち去られたため、このメモが数少ない手がかりであるとして、会見後にコピーを配ることに同意した。配られたのはメモ帳の最初の1枚だった。


 日本の他殺率は世界水準から見るとかなり低いが、それでも平均1日ひとり殺されているという統計がある。中でも、被害者の衣服から謎解きのヒントのような手書きのメモが発見される例は少ないから、マスコミは争ってこのメモの映像を流すことになった。確かに小説に出てきそうな話ではある。


 しかし、この殺人事件とメモの報道が後になって世界中を巻き込む騒ぎになるとは、県警も記者クラブも全く予想できていなかった。


ブロック3


 柿崎は再び平塚のアパートに居た。同行している近隣の警官が捜査用のパソコンを両手で敬うように支えて柿崎の方向に向けている。画面には岡崎と島部の顔写真が小さく収まっていた。暖房の無い1月末のアパートの一室は寒く、柿崎はパソコンの中で温まった環境に居る本庁の2人を忌々(いまいま)しく思った。


 部屋の中では数名の係官が無言のままタンスの奥や引き出しを整然と捜索していた。そうするうちにパソコンからは岡崎の乾いた業務連絡が全員の耳に届いていた。


 「デスクトップの方は昨日メーカーとも連絡が取れましたので、今現在ハードディスクの中身と、ネット利用の履歴やクッキーを調べてます。被害者はかなりのマニアです。ハードディスクはせいぜい80ギガバイトで利用するのが一般的ですが、このデスクトップは600ギガを実装してます。」


 少し質の違う島部の声が、「それだけ容量があればビットコインのフルノードとしてブロックチェーンの共同管理に参加できる」と補足した。


 最近は仮想通貨とは言わず「暗号資産」という表記になったブロックチェーン。その中でも草分け的な存在が2009年の1月に動きだして、銀行や管理会社の保守管理を一切受けずに10年以上単独で稼働を続けているビットコインである。その時価総額はついに50兆円を超えようとしている。ビットコインのシステムそのものに参加すべく直接アクセスしている人間なり団体はせいぜい4万から5万である。これらの端末がいわゆるノードという単位で定義されている。ノードは個人も多いが、暗号資産の取引所や両替所などが関わるブロックチェーン の専門家レベルだ。中でもフルノードとはブロックチェーンの分散台帳のデータの全てを手もとのコンピュータに取り込んでいるユーザーである。


 取引所や両替をしているノードを頼りにビットコインを売り買いしたり送金したりしているのが一般のユーザー群であり、数千万人の企業やマニアックな個人が取引をしている。そして、このデジタル空間にはおよそ6000万件に及ぶ未決済のビットコインの電子登録が60万件を超えるブロックに詰め込まれて全ノードの手元のコンピュータに繋がったデジタル分散台帳を構成している。これらの無数の登録は未決済勘定登録(アンスペント・トランザクション・アウトプット)と呼ばれていて、様々な取引トランザクションに紐付けられ、暗号鍵でロックされたデジタルブロックに納められているのだ。読者がこの説明を目にする時節にはブロック数が百万を超え、未決済勘定登録は1億件になっていても不思議ではない。


 平塚で殺害された男(阿部博)もノードのひとりだったのだが、そのことは程なく本庁のネット犯罪の捜査課によるデスクトップ・パソコンのスペック(機械的な仕様)から判明する。しかし、このアパートの捜索の狙いは島部が言うように、ノードが暗号鍵の情報を隠すために作成する「ペーパーウォレット」をアパートの何処かから見つけだすことであった。


 島部が話し終わるタイミングで係官のひとりが寝室の箪笥の引き出しの奥にあった小箱を柿崎の前に差し出した。中に書類があると言う。早速、柿崎が箱から取り出した3枚のプリントアウトをパソコンに向かってかざした。数秒間それらをカメラごしに見た技官の島部の口調が一変した。


「柿崎さん、一見してウォレットだと解る書類です。プリントにある2つのQRコードが特徴です。すみませんが、スマホを使わずにデジカメで写真をとって捜査情報専用の機密ネットを使って私にメールしてください。こちらで調べることが沢山ありますので。それから、その3枚のペーパーウオレットは県警で誰かが24時間監視できる場所で鍵をかけて保管してください。絶対にコピーしたり人に見せたりしないでください。宜しくお願いします。このあいだの記者クラブのように公表すると大騒ぎになりますからね。」


 何故ペーパーウオレットがそれ程重要な書類なのか柿崎は知らない。だが、本庁の犯罪専門部の技官が普段より厳しい口調で指示してきたことには鋭敏に反応した。柿崎はその日の捜索を打ち切ると、書類を持って県警に帰還し、鑑識と共に捜査用の特殊な高解像度のデジカメでペーパーウオレットを撮影し、指示どおり機密ルートで島部に電送した。ウオレットはX線を通しにくい鉛の箱に納められて24時間監視員の目が届く保管庫に送られた。


 2014年にMTGOXというビットコインの大手取引所がハッカーに攻撃され、大量のビットコインが流出する事件が起きた。当時の責任者の説明は要領を得ず、流失したとされるビットコインがどこに流れたのは今もって明確ではない。そして同年3月に米スタンフォード大学や早稲田大学で教鞭と取る一つ橋大名誉教授の野口悠紀雄氏が日本記者クラブでビットコインに関する歴史的な会見を行った際、MTGOXでの流出の本質的な意味がようやく解き明かされている。


 野口教授によれば、MTGOXの事件はビットコインというブロックチェーンシステムに脆弱性があったことを示す事件ではなく、MTGOXという取引所のコンピューターのデータが盗まれて、その中にあった多くの「暗号鍵」情報が盗まれたことを意味しているはずだという。その暗号鍵はMTGOXのものではなく、ノードでもない一般のビットコインの利用者がMTGOXに預けていたものである。「預ける」こと自体、野口教授は「正気の沙汰ではない」と揶揄した。


 暗号鍵は通常は32バイトの電子データであり数値に換算することができる16進数の文字列として扱われている。数値として捉えるなら10進数の整数に換算して10の77乗(これは日本の単位でいえば億、兆、京、垓のレベルを遥かに超える那由多~不可思議を経た無量大数のレベル)という途方もない数の採番(番号の付与)が可能であり、地球上の全ての個人ひとりひとりに百万回繰り返して暗号鍵を割り振ったとしても全く枯渇しない底なしの暗号規格である。しかし、デジタルの世界なら、これらをネット環境で扱うのは簡単であり、小学生でも手軽に運用可能だ。従ってパソコンの中で扱うのは極めて危険。万一デジタル技術に詳しい悪意の第三者に渡れば、ビットコインとして電子的に登録している資産を全て手渡したことになる。


 そうならないための最善の方法は、自分の暗号鍵である32バイトの16進数(64桁)を紙に書くかプリントアウトしてタンスの奥にしまっておくか、近所の銀行の貸金庫に預けておくことだ、というのがブロックチェーン業界の定説になっており、野口名誉教授も異口同音に紙での保管を推奨している。これがペーパーウォレットなのである。ウォレット(財布)といっても書類の中に金銭が入っているのではない。大事なのはそこに記載されている暗号鍵なのだ。野口名誉教授は日本記者クラブの会見でビットコインは銀行を介さない「支払い」の手段として有効ではあるが、その価値評価は極めてボラタイルであるため、資産を貯蓄する手段としては推奨していない。野口教授の聡明かつ理知的な分析と判断は6年以上経過した今でも本質的で、極めて新鮮かつ比類のない発言であったといえよう。


 島部が柿崎にウオレットの公表を禁じた理由は、もちろんそこに記載された暗号鍵の所有者であろう阿部博本人の資産の保護だけではない。その暗号鍵が今回の殺人事件の犯人に繋がる重要な手がかりとなる可能性を秘めているからだ。ブロックチェーンによる情報処理は極めて透明性が高く、ビットコインの取引に紐づく人間や団体が特定できれば、その取引額や過去からの取引内容の全てが世界中どこでも何時でも検索できるのである。ネットにあふれているビットコインのエクスプローラー(検索サイト)を利用すれば、特定の暗号鍵に紐づいているビットコインの履歴と所在を精緻に確認できる。そしてそれらの情報は対改竄性に優れているから、犯罪行為の立証に役立つ証拠としては理想的な役割を果たすことになる。


ブロックチェーン暗号鍵は常に「秘密鍵」と「公開鍵」のペアであり、ペアではあるが別々に管理されている。公開鍵は文字通り公開されてビットコインのブロックチェーン上の住所を表すが、秘密鍵は絶対に他人に見せられないパスワード兼銀行印のような役割を持つ。このペアが1枚の紙に記載された書類をペーパーウォレットと呼んでいるのだ。


しかし、柿崎の脳裏にはこの3枚のウォレットがまるで柿崎を待っていたかのように箪笥から出てきたことに一抹の疑念を捨てきれずにいた。


 柿崎の勘が鋭いことは神奈川県警では定評がある。それが正しいことが何れ明らかになるのだった。



ブロック4


 平塚事件から2週間が経過した同年2月中旬、米国のダラスではブロックチェーンの国際フォーラムが開催され、大勢の暗号資産のファン、著名な電子工学の有識者、数多くのブロックチェーン開発団体が集結していた。しかし、このフォーラムは例年の技術の祭典とは打って変わり、ビットコインに関わる或る奇妙な出来事が人々やマスコミの耳目を集めていた。


ブロックチェーンの発明者であるサトシナカモトは、10年前にビットコインのシステムを立ち上げて間もなく姿を消しており、有識者の集まりにメールで連絡することも無くなっていた。ところが、そのサトシナカモトの資産とおぼしきビットコインの未決済勘定登録がブロックチェーン 内でアンロックされ、彼のビットコインが10年ぶりに取引され始めたのだ。


大会初日。フォーラムのキーノートスピーチが終わると司会者からスケジュール変更の連絡が発表され、ビットコイン新興協会をとりまとめている有識者の一人の登壇が優先されることとなった。その有識者の緊急会見の内容は以下の通りだ。


「皆さん、2009年1月3日にビットコインの最初のブロックが登録されたが、これは明らかにサトシナカモト自らがノードとして採掘した50ビットコイン(BTC)をサトシ本人が自分の指定アドレス(暗号鍵から派生したコインの所在を示す電子的な住所)に納めたものでした。そして、その月の19日あたりまでに1000件以上のブロックが登録されています。これらは少数の例外を除き、殆どすべてが新たに採掘されたコインベースのトランザクションであり、夫々50BTCが納まっていますが、2010年を過ぎても殆どは未決済勘定登録であるUTXOとして手付かずでした。我々はこれらの資産のほとんどはサトシの暗号鍵に紐づいたアドレスに保持されていると認識していました。」


注 UTXO(Unspent Transaction Output)


「ところが今年の1月3日以降、実に奇妙なことが起きました。サトシが管理しているアドレスにある多くの古いビットコインが次々に取引され始めたのです。これらのビットコインはブロックチェーン内の3つの特定のアドレスに集められていますがこのアドレスの所有者についてはまったく情報が無く、どの団体なり個人がサトシの資産を受け継いでいるのか確認できていません。もちろんコインを受け取っているアドレスの所有者が望まない限り我々にはその人物なり団体なりを知る術も権利もありません。」


「2009年1月に登録されたコインはサトシが採掘してサトシがアドレス指定したビットコインであるから、本来これらを別のアドレスに移動することが出来るのは、サトシ本人だけであることは皆さんもご理解のとおりであります。」


「ということは、あのサトシナカモトがノードとして活動を再開したのかもしれないし、あるいは、こういう考え方はしたくは無いが、何らかの理由でサトシの暗号鍵が盗まれ、悪意の第三者によって彼が採掘したビットコインが奪われているのかもしれません。」


「私たちはあらゆる取引所や両替サービス会社と連絡を取り、2009年に採掘されたサトシのコイン(便宜上これをサトシコインと呼んでいる)から現金への換金が為されていないか調査しているが、現在のところこれらのコインが換金された事実は判明していない。ブロックチェーンのデータだけではこれらのBTCの取引先が世界のどの地域のどの国に属するものなのか特定することは不可能です。はっきりしているのは32バイトの公開鍵情報とその公開鍵から派生したアドレス情報だけなのです。」


「サトシコインの採掘者であり所有者であったサトシは音信不通です。そして、サトシコインが移動した先のアドレスの持ち主は未だ判明していない。そしてそのアドレスから秘密鍵を複合することは不可能です。サトシからの声明も出ていない。この状況について我々は今何もすることは出来ないが、もし、皆さんの中に、この奇妙な取引の背景をご存知のかたが居れば、あるいは新たなアドレスの所有者をご存知の方が居れば、是非我々ビットコインの有識者協会にご連絡いただきたいのです。共にサトシの歴史的資産の保護のために協力したいのです。そしてそのために是非この事象を解明するための資金集めを行いたい。資金はBTCビットコインで集めることも致します。アドレスは・・・」


 大きな拍手とともに登壇者がスピーチを終え、質問を取り始めた。極めて初歩的な情報に関するものも含め、さながら記者会見のような数十分の質疑応答となった。以下に重要なポイントを列記する。


1 「何故サトシコインを特定できたのか」という質疑について、2009年1月時点のビットコインのシステム立ち上げにかかわった技術者がごく少数であり、その時点のサトシ本人にも連絡可能であったことから、どのブロックがサトシのものであるかは当時の通信記録や当事者の記憶からかなり正確に特定可能である。


2 当時、つまり2009年の1月に採掘されたブロックのコインが「殆ど50BTC単位で格納されているのは何故か」については、当初のBTC採掘作業の報酬が1ブロック当たり50BTCでプログラムされていたことが理由である。因みに、現在はブロックの採掘に関わる報酬額はブロック当たり6BTCあたりまでカットされている。採掘については専門書を参照願いたい。


3 ブロック番号で数百番を超えるものは、サトシ以外の採掘者のものである可能性が有る。「1月の後半のブロックについてどのブロックがサトシの採掘によるもので、どれが別の人物の採掘であるか判明しているのか」という疑問について、有識者の共通の理解は「今回10年ぶりに流通され始めたコインを含むブロックないしは取引は全てサトシのものであろう」と断定している。これら以外に10年も取引を止めている事例が殆ど見当たらないからでもある。


4 移動しているBTCの価値は、移動先のアドレスの保有BTCを参照すればわかることであるがそのBTCは現在5000BTCを超えており、採掘当初の価値はおよそ1300ドル程度であったが、現在の換算レートで評価すると1億6千万ドル(日本円で160億円強)に相当する!


5 公表された3か所の移動先アドレスから、その先へのビットコインの移動は無い。つまりこれらの3か所のアドレスにサトシコインが引き寄せられているというのが現状である。ただし、移動先アドレスにはサトシコイン以外にも、話題づくりや売名を目的として何がしかのコインを送っている人物やグループが暗躍しており、事態を複雑にしている。


 最後に、日本の神奈川の平塚アパート殺人事件の関係者にとって関係の深い発言があった。この事実を聞いて日本の警察庁ネット犯罪専門部局の島部技官は頭をかかえた。


 ダラスでの質問「私はビットコインのノードのひとりですが、2009年1月当初のブロックが全部手つかずというのは誤認です。その月にビットコインを支払いに使った事例も記録されています。その内容は把握しているのですか?」


 有識者の回答「ご指摘のとおりです。ブロックチェーンに詳しい皆さんなら容易にチェックできるが、以下の幾つかのブロック番号は2009年に取引されている。それらは、9、170、181~183、50、248、360、496、といったブロック番号だ。」


 国際フォーラムで確認されたこれらのブロック番号は1月に平塚のアパートで殺害された阿部博の衣服から出たメモ帳の数字だったのだ。


ブロック5


 話を東京に戻そう。ある大学のブロックチェーン研究ゼミ主催のウェブ会議で工学博士の予備軍たる学生達の意見交換が白熱していた。この会話に出てくる略語を予め説明しておく。ここでの説明は全てビットコインの話題に絞った内容である。


UT

ブロックチェーン内に電子的にロックされている未決済の暗号資産勘定。「アンスペント・トランザクション・アウトプット」をUTXOと略すが、これをさらに縮めるとUTになる。公的な略語ではない。


TX

ブロックチェーン内で電子的に記述された「取引」、「トランザクション」の略。この中に支払う側のビットコインがロックされている場所、支払う額(BTC)、そして受け取る側が新しく所有するUTXOの場所が書き込まれている。そして、これらの場所の情報をアドレスと呼んでいて、全てのアドレスは所有者の暗号鍵(公開鍵の部分のみ)と紐付いている。


ギット(Git)

2005年4月にプログラマーが分散管理でシステム開発を公開し合って開発履歴を可視化して盛況を極めているウェブサイトであり、ブロックチェーンに関する専門家が集まって情報公開を続けている。ここに集まるプログラマー達を指して「ギット」という場合がある。


この日は皆が自宅でパソコンに向かっていた。


 学生A「私は犯罪じゃ無いと思うのよね。10年前のUTだって何だってキチンとプロトコルに会ったTXなら違法性は無いし、出来心でノードになんか成れないはずよ」


 学生B「ノードにも色々いるんじやないの?金融庁の認可を取った取引所じゃなくても、個人のノードだって鍵さえ持てば取引が可能だし、金儲けで闇ルートで取り引きを請け負ってるノードも居るかもしれない」


 学生C「問題はサトシの動きだよな。10年ロックされてた彼のUTが解錠されたということは、サトシが生きていて自分で動いたということに違いないよ。それにビットコインの開発者のサトシが自分のUTを他人に触らせるハズないよね。僕なら絶対触らせない」


 B「そうかな?サトシが誰かに脅迫されて已む無く自分の暗号鍵情報を渡したのかもしれない。そうなれば自分のUTを諦めるぐらいのことはするんじゃない?」


 C「脅迫するならサトシの所持してる現金を出させる方が手っ取り早いよ。わざわざブロックチェーンの改竄できない世界で足が付くような取引をさせるかな?」


 A「お金じゃなくて、何かの復讐とか、怨恨とか、とにかく複雑で手の込んだやり方でサトシを攻撃したかったのかもしれないわね。だから表面上は合法的なBTCの取引でもブロックチェーンに詳しいギット関係者にショックを与える手段を取ったんじゃない?」


 B「かきちゃんはどう思う?」


 柿崎「うん、考えたんだが、これは取引されたコインが新しいアドレスからどう動くか見てみないと何とも言えないと思うんだ。」


 学生達はこの学生、柿崎貞彦が平塚アパート殺人事件の担当である柿崎刑事の長男であることを知らない。県警の厳しい規則で、家族は主人が殺人を扱う刑事であることは他言できないのだ。


 貞彦は内心穏やかではなかった。父親が話していた被害者のメモの数字から考えると、今回の平塚の事件がサトシコインと関係があるのかもしれない。


 事実、事態は誰もが想像だにしない展開をみせる。


ブロック6


 磐田虎雄いわたとらおは情報技術を扱う月刊誌「データ!」の記者で、コンピュータの関連技術にめっぽう明るい。とりわけブロックチェーン に関してはマスコミでも定評のある記者だ。


 神奈川県警の記者クラブに出入りする北浜新聞の傳田も情報技術については磐田を頼りにしていた。だからくだんの平塚アパート殺人とサトシコインの関係についての裏取りの取材でイの一番に電話連絡した宛先が磐田だった。


 「虎さん、忙しいところ悪いけど、サトシコインの流出の件知ってるよね? ちょっとネタがあるんで会えないかなあ」


 磐田は取り立て理由もなく馴れ馴れしい傳田からの携帯でんわに迷惑そうな口調を隠さずに答え。第一にサトシコインは流出などしていないこと、第二に、いい加減な話ならわざわざコロナ感染者がいる都内で会う気は無いし、何の話なのか今すぐ電話口でネタばらしをしないなら電話を切るといったきっぱりした態度だった。


 「相変わらずキビしいね、まぁこの話は神奈川県警記者クラブじゃ結構話題だから電話で話してもいいですよ。虎さんは1月の平塚事件の被害者のメモの件は知らないかな? あの9と50と170の話ですよ。それと、ダラスのサトシコインの流出の件・・・」


 傳田の話が終わる前に磐田は一方的に電話を切り、傳田の電話番号を着信拒否に設定してスマホを机に置いた。そして、両手の指を全部キーボードに戻して書きかけの記事に視点を戻した。


 磐田は今まさにこの国際級の特大スクープを何処よりも早く報道すべく、「月刊データ!」の電子版の号外記事を書いていたのだ。地元とは言え、神奈川県の北浜新聞なぞに先を越されてはならない。


★★電子版号外!サトシコインの謎解きの鍵は平塚アパート殺人事件に深いかかわりがある!★★


おなじみ「月刊データ!の虎さん」こと磐田虎雄が、今年のブロックチェーンと情報技術界の話題をさらった「サトシコイン」のゆくえに鋭く切り込みます!米CIAも知り得なかった大スクープを解説する!!


読者の皆様、この記事だけ読んで下さい。他の報道は間違いと誤解だらけになる可能性があります。


一月の平塚事件で神奈川県警が公表した被害者のメモはサトシナカモトが先陣を切って2009年1月に最初にBTCを取引したブロック番号だった。このことを既に把握していた月刊データ!は、2月某日のアメリカはテキサス州ダラスの国際フォーラムで話題になったサトシコインの10年ぶりの取引再開ニュースと質疑が報道された瞬間に平塚事件との関連性を察知。その日のうちに神奈川県警に連絡して関連情報を提供した。


月刊データ!の読者なら既にご存知かもしれない、サトシの相棒で暗号学の権威であるハル・フィニーが初めてサトシから10BTCを受け取った歴史的なTXが納められのが170番目のブロック(2009年1月12日の3時30分)であり、その原資である50BTCがノードとしてのサトシ本人の手により採掘されたのが9番目のブロック(同年1月9日の3時54分)だ。これらの情報が世界中で何時でも誰でもが正しいと確認できるのはブロックチェーンの透明性と対改竄性の成せる技に他ならない。その他の番号についてもビットコインの愛好者なら容易に検索できるが、忙しい読者の皆さんへの月刊データ!からのサービスとして、この電子版にサトシコインのブロック相関図を添付してあるのでぜひご覧いただきたい。


さて、殺害されたHAさんは取引されたサトシコインの暗号鍵に深く関与していた可能性がある。月刊データ!の独自調査で、被害者のアパートにあったデスクトップPCがビットコインのノードが使うグレードのスペックで購入されていたことが判明している。このデスクトップは現在神奈川県警に保管されており、県警はHAさんが殺害される前に何をしていたか詳しく調べている。何よりも注目すべきはHAさんが所持していた秘密鍵である。この鍵がもしもサトシ・ナカモトその人のアドレスに関係していた場合、これは時価総額50兆円を誇るパブリックチェーンであるビットコイン始まって以来の考古学的大発見だ!


私、磐田の見解として、このHAさんがサトシ本人である可能性は少ない。享年32歳だから、ビットコイン開発時点では12歳の小学六年生である。彼がビットコインをコーディング(プログラミング)出来たとは考え難い。更に、当時のサトシのメールの文書や電子掲示板への書き込みを見る限り、サトシがひとりの日本人であったとは考え難い。唯一考えられるのは、サトシが個人ではなく欧米の開発者グループであり、その中に日本人技師が含まれていたかもしれないこと、そして、これは私(磐田)の推理だが、被害者のHAさんは日本の開発者だったエンジニアの子孫であるかもしれないということだ。


HAさんが開発者グループであるサトシナカモトのおきてを破って父親がペーパーウォレットで持っていた秘密鍵を利用してサトシコインを勝手に取引したのだとしたら、それは考えようでは殺害されてもしかたのない暴挙なのもしれない。いや、これは我々月刊データ!の思いすごしであって欲しい。そして世界に名だたる法治国家の警視庁や神奈川県警がズバリと真相を解き明かして1日も早く殺人犯が逮捕されることを祈念する。合掌。


★★今月の発刊は◯日です。お楽しみに!


ブロック7


 ようやく被害者のデスクトップパソコンの調査報告が提出されてきた。今回は県警の強い要請で柿崎が本庁に出向いた上で関係者全員が同時に報告書を確認する段取りとなった。本庁の岡崎と島部は、配布されたネット犯罪専門部の極秘報告書を読み終わって声を失っていた。


報告書はA4サイズ3枚ほどの文章であったが、調査対象のデスクトップパソコンのメーカー情報や型式や寸法といったこと細かな記述が全体の8割を占めており、最後の一段落になってようやく肝心の情報が記載されていた。


以上の基礎調査を終えた上で、該当機器のハードディスクを取り外し、その内容を電子的に探査した結果は以下


有効容量:約600ギガバイト

使用量 :2%

未使用量:98%


保存されているデータの内訳


1. CPUないしはコンピューター本体とのインタフェースにあたるシステム機能

2. ハードディスクの型式、製造年月日


尚、当該HDは回収される前に殆ど全ての保存データを消去されていたと思われたため、記憶媒体を取り出して特殊な読み取り装置で直接スキャンした。結果として、検体は被害者が殺害される直前に購入された新品であることが判明・・・(以下略)


警察庁 ネット犯罪特捜班 


 被害者のパソコンは事件の前に何らかの方法で改造され、内臓されていた記憶媒体は新品に置き換えられていたようだった。


 一方、柿崎から送られてきたペーパーウオレットについて島別がそれらのアドレスでビットコインの分散台帳を検索した結果、該当するアドレスはヒットせず、サトシコインの取引はおろか、少額取引ひとつ登録された形跡すら無いことが確認されていた。


 「ひとつだけ確実なことがあります。」

 島部が押し殺した声で呟いた。

 「被害者は間違いなくプロックチェーンに詳しいはずです。彼はノードです。デスクトップのスペックはフルノードが使用するグレードです。」


 「やはりそうですか・・・」

 めったに声を出さない柿崎が沈黙を破ると、懐から新たな書類を出すと会議テーブルの上に整然と並んだ感染防止用スクリーンの足元のスリットを通して島部技官に差し出した。


 「?」

 いきなり目の前に出てきた新たな書類に訝しげな目を向ける本庁のふたりに柿崎が説明を始めた。


 「被害者宅のウォレットを回収した後に2度ほどアパートの調査に出ました。いや、捜査が不十分だったわけではないが、例の3枚のウォレットがあまりに簡単に出てきたので不信に思ったんです。」


 島部が身を乗り出して書類に触ると手品師のようにサッとテーブル上に広げた。広げた書類は紛れもなく3枚のペーパーウオレットだった。


 本庁のふたりの顔色が変わった。

 「あっ! まだ・・・あったんですか?」

 「はい・・・屋根裏です。約束を破ってしまいましたが、この3枚はコピーですから指紋の心配はありません。自由にチェックして下さい。」


 岡崎が大きなため息をついた。

 「どうして屋根裏に置いたんでしょうか? 柿崎さんは何故そこにあると・・・」


 柿崎の説明は理路整然としていた、コンピューターや情報技術とは無関係であるが、防犯のプロの見識としては熟達したものがある。


 県警は被害者のデスクトップを借り受ける際に、それらの電子機器を取り外す前と、取り外した後の机の表面の様子を解像度の高いデジカメで撮影していた。これは鑑識がテーブルや棚に在る証拠物件を押収する際の手順であり、物件が置いてあったテーブルや机の上の細かなほこりの状態をチェックするためのルーチンである。物件が長い間同じ場所にあったか、それとも事件の直前に移動されかによって、埃の付き方がまったく異なってくる。事件の前に移動した場合はごく微妙ではあるが埃が薄い部分と厚い部分にくっきりと分かれている。乱暴に扱えば移動した痕跡は極めて明確にわかる。そういう場合はたいていは所有者本人が移動した結果だ。また、相当手慣れた第三者が物件の移動を慎重に、見た目には解らないように静かに行ったとしても10分の1ミリ単位での埃の付き方の変化は残る。移動したのが本人ではない場合はこのパターンが多い。これをもって物件の移動があったことの証拠として提出するのだ。


 件のデスクトップは、極めて巧妙ではあるが、被害者が死亡した後に丁寧に取り去られたうえで、更に慎重に机の上に戻されていた。戻し方が一般の人の振る舞いとは全く違っていたことが写真の分析で判明したので、柿崎は当初からデスクトップを調べても何も出ないと確信していた。そして、この事件が周到に計画されたものであると再認識した。また、被害者は自分が殺害される可能性を知っていたかもしれないという仮説を持ったのだ。


 次に屋根裏だが、これは柿崎が2度3度と平塚のアパートを訪ね、被害者が住んでいたアパートの大家に頭を下げて被害者の普段の振る舞いや癖を聞き出した結果である。柿崎は県警を説得してアパートの大家に2カ月分の家賃を前払いしていた。


阿部博は掃除好きで、アパートの天井も通常よりも念入りに掃除する男だった、ホームセンターで購入した脚立を使って自室の電灯や天井板の不具合や雨漏りを上手に直していた。もとより大家が治すべき雨漏りをテナントが治したので大家はそのことに謝意があり、はっきり記憶していたのだ。そこで柿崎は、特殊な探査カメラと照明機材を持ち込んで天井や屋根裏を隈なく調べたのである。3枚のウオレットは簡単には見つからないように天井板の裏にぴったりとプラスチックのシートをかぶせて動かないように固定されていた。


 「柿崎さん、それじゃ最初に出てきた3枚のウオレットは?」


 「あれは引っ掛けです。被害者は自分が動かなくなったり殺傷されてウオレットを探されたり、脅迫されてウオレットの場所をしゃべらされた場合の準備をしていたんです。鑑識で指紋を取ってありますが被害者の指紋だけでした。」

 「犯人はウオレットを探さなかったんですね?だから私たちが引っ掛かった・・・」

 「犯人はおそらくデスクトップの情報を消すことに集中していたようです。」

 「秘密鍵の重要性について詳しく知らなかったのかもしれませんね?」


 岡崎はアッという表情をしたので柿崎がうなずいた。

 「恐らく、紙のウオレットを探さず、ハードディスクに情報があると確信していたはずです。だからハードディスクを新品と交換してデータが入っているものを持ち去ったはずです。彼らは被害者を下請けに使っていたのではなく、被害者から何かを取り上げたかったんです。」


 岡崎と柿崎が会話している間に自らのスマホに新しいウオレットのQRコードを読み込んで何やら検索していた島部が、またもや例の厳しい口調の技官に変身した。


「一致します。これらのアドレスは本物です。今調べましたが、3か所のアドレスに取引されているのは間違いなくサトシコインです。巨額です。ダラスで公表されたアドレスとも一致します。そうなると岡崎さん、柿崎さん、このことは門外不出にしないと。」


 事態の意外な展開にある種の興奮を抑えられない岡崎と島部をしり目に、今度は柿崎が声を失った。


 アドレスの所在が公表されれば大騒ぎになることは間違いない。はたして柿崎達はウオレットの存在を守り通せるのか?そして殺人犯を追いつめられるのか?



ブロック8


 ビットコインの研究者によれば、2009年にサトシナカモトが自ら生み出したビットコインの総数は推定112万5000BTCで、コインを納めたブロック番号はジェネシスブロックと呼ばれる0番から54316番迄の範囲に多数存在する。その時価総額は2010年7月の時点で 109億ドル、翌年1月には379億ドル(3兆9千億円)にもなった。これは2021年初頭に現存したビットコイン全数の5%である。


 サトシがコインを量産した目的は資産運用ではなく、ハッカーなどの悪意の第三者から開発されて間もないビットコインの分散台帳の健全性を守ることであったと言うのが定説である。事実、少数の例外を除き、当時のコインが納まったブロックは10年経過しても未だに手付かずだ。少数の例外の筆頭といえるブロックの番号が阿部博のメモの170なのである。


 手付かずとは言え、これらの膨大なサトシコインはサトシ本人の秘密鍵さえあればいつでも取引きできる状態にある。電子データだから劣化しないし、時間とともに失効する事も無い。


 「もしサトシが思いたってコインを大量に取引し始めたらビットコインのネットワークに何が起きるだろうか?」


 この命題について研究者やアナリストがネット上で盛んに議論して来た。そして、最も保守的で現実的な答えはひとつ。サトシがコインを動かす程の「重大な何かが起きている」気配にリスクを感じたユーザーが先を争ってビットコインを精算し始めるだろうとの憶測である。


 サトシコインがビットコイン全体の大勢を占めてはいないとは言え、創始者が保有する暗号資産である。此れが散財されて不特定多数の一般ユーザーにリリースされると、その後のサトシコインは特定し難くなり、価値が急落するだろう。そしてサトシが自分のコインをリリースしたという動きから、間もなくビットコインの分散台帳が破綻するかもしれないと考えるユーザーが増えるだろう。


 まさに銀行の取り付け騒ぎである。そうなれば、間違いなくビットコイン全体の評価が暴落して、最悪の場合は数万分の1まで時価が下がる。


 それが現実になろうとしていた。2月のダラスの国際フォーラムから半月でビットコインのドル評価は急落。サトシのコインは特定されている3つのアドレスに集められていて、それから先への拡散は見られない。


 サトシコインの突然の活性化は世界のメディアを巻き込む大変な話題となり、各国の政府は連絡を取り合って過剰な混乱を避けるための声明を発表しなければならなかった。詐欺集団はこぞってサトシコインのプレミアム付き前売り予約を宣伝した。水面下では米連邦捜査局(FBI)がサトシコインが集まった3つのアドレスの所有者の捜索を開始。有力な手がかりの提供には数万ドルの報償金が積まれた。


 不特定多数の情報屋が動き始めた。日本の神奈川県で発生した殺人事件の被害者から見つかったサトシコインの取引ブロックの情報。そして、被害者のデスクトップコンピューターに答えがある可能性が取り沙汰されはじめたのだ。そして、日本の警視庁は遂にFBIからの強い圧力を受ける事になる。


 当時、ビットコイン全体の時価総額は50兆円を超えていた。


 阿部博が屋根裏に隠していたペーパーウォレット。3枚のウォレットをめぐるFBIと警視庁の駆け引きが始まろうとしていた。そして被害者の阿部博が所持していたデスクトップの中にあった記憶媒体の行方がこの後、徐々に明らかになっていく。



「ブロックチェーン殺人」下巻につづく


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