07 魔王の壁ボコ
厨房で初めてのコックの仕事を終えたわたしは、デモンブレイン様とともに廊下を歩いていた。
デモンブレイン様は軍師という立場で忙しいであろうに、わたしの仕事っぷりを最後まで見届けてくれるばかりか、部屋まで送ってくれている。
その途中、デモンブレイン様は通りがかりにあった、両開きの扉を示しながらわたしに言った。
「リミリアさん、この部屋には入ってはいけませんよ。
この部屋にいる人物と関わったら、わたくしでもフォローできるかどうかわかりませんので」
わたしは思わず「えっ」と漏らす。
部屋のネームプレートには『スノーバード』とあった。
デモンブレイン様は、魔王エーデル・ヴァイス様や、狂気のコックであるヴェノメノンさんですら説き伏せて、わたしを助けてくれた。
そんな彼が、フォローできないって……。
スノーバードさんって、どんなとんでもない人なんだろう?
背筋が寒くなったが、同時にとても気になってしまった。
しかし命の恩人が『関わるな』と言ってくれているのだから、ここは大人しく従っておこう。
そんなことがありつつも、わたしは自分の部屋の前までたどり着く。
するとなぜかわたしの部屋の前に、エーデル・ヴァイス様が立っていた。
部屋の扉に向かって、なにやらブツブツ言っている。
その形相は相変わらず恐ろしく、扉の向こうの人物を呪殺しかねない雰囲気だ。
まさか、このわたしを……!?
と思っておそるおそる近づいてみると、こんなセリフが聞こえてきた。
「……リミリアよ、俺のために、ポトフを作れ」
思いも寄らぬ一言に、わたしはまたしても「えっ」と漏らしてしまう。
エーデル・ヴァイス様は一瞬、石のように固まっていたけど、やがて石膏で固められた人みたいに、ぎこちなくわたしのほうを見る。
「貴様ぁ……なぜここにっ……!?」
血の海に沈んだような赤い瞳が、ぎらりと輝いた。
顔は燃えあがるように赤熱している。
まるで親の敵を前にしたようなリアクション。
わたしはショック死しそうになるほど驚いたが、寸前で感情を殺した。
「えっと、ポトフをお作りすればいいんですか?」
「貴様、なにを言っている……!?」
「いえ、エーデル・ヴァイス様が、さっき……」
「それよりも答えろ!
貴様は囚われの身のはず……! それなのになぜ、ここにいるのだ!?」
これにはわたしの隣のいたデモンブレイン様が答えてくれた。
「お待ちください、エーデル・ヴァイス様。
リミリアさんをわたくしの部隊専属のコックにしたのですが、部屋のキッチンでは手狭なので城の厨房を使わせていたのです。
このことは、すでにご報告さしあげているはずなのですが……?」
エーデル・ヴァイス様の顔の赤みが増し、耳まで赤くなったように見えた。
わたしは彼を追いつめるつもりなど毛頭なかったのだが、気になったので尋ねる。
「あの……それで、ポトフをお作りすればいいんですか?」
「くどい! 俺はそんなことは言ってはおらんっ!」
話はこれで終わりだとばかりに、バッ! とマントを翻して背を向けるエーデル・ヴァイス様。
わたしは追い討ちをかけるつもりなど毛頭なかったのだが、もしかしたらこうしたほうがいいのかなと思い、提案する。
「あの、今日の献立もポトフにしようと思っています。
たくさん作ったほうが美味しくできるので、エーデル・ヴァイス様も召し上がっていただけませんか?
見張りの兵士に頼めば、届けてもらえると思いますので……」
しかし、これは良くなかったようだ。
立ち去ろうとしたエーデル・ヴァイス様はピタリと足を止めると、肩を振るわせはじめる。
とうとう、うなじまで真っ赤っか。
これはもしかして、ヤバいんじゃ……!?
と思った瞬間、エーデル・ヴァイス様は魔界の百獣の王が、振り向きざまに獲物を襲うかのように身体を捻っていた。
……グォォォォーーーーーーーーーーーーーーッ!!
人とも獣ともつかぬ唸りとともに、わたしに飛びかかってくる。
突風が起こり、窓ガラスが弾け飛び、わたしは部屋側の壁に叩きつけられていた。
……ドゴォォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンッ!!!!
わたしの耳をかすめるように拳が突きたてられ、壁に大穴を開く。
月の消えたような暗黒の影がわたしを覆い、凶星のようなふたつの赤い星が見下ろしている。
とうとう、魔王の逆鱗に触れてしまった……!
わたしはいつも心がけている冷静さを保つことができなくなり、爪先の震えも止められなくなっていた。
冷や汗が、背中にどっと溢れる。
もはやなにを言えば許してもらえるのかすらわからない。
空気の足りない鯉みたいに、口をぱくぱくさせていると、不意に魔王はわたしから離れていった。
「好きにしろ」とだけつぶやいて、廊下の向こうへと去っていく。
わたしは「た、助かったぁ……!」と内心、胸をなで下ろしていた。
こんなときはいつも助けてくれるはずのデモンブレイン様も、すっかり言葉を失っている。
魔王の激怒っぷりにさすがの彼も……と思っていたのだが、ぜんぜん違った。
「……驚きました、あんなに喜ばれているエーデル・ヴァイス様を見たのは初めてです」
えっ……えええええええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?
わたしは内心だけで絶叫する。
声に出していたら、アゴが外れていたに違いないほどに。
「あれで喜んでたっていうんですか? メチャクチャ怒ってるようにしか見えませんでしたけど……?」
「言ったでしょう、エーデル・ヴァイス様は不器用だと。
あれはエーデル・ヴァイス様なりの『壁ドン』なんですよ」
あれが『壁ドン』!? 完全に『壁ボコ』でしたけどっ!?
『壁ドン』はゴールドブレイブ帝国の乙女たちの憧れとされている。
わたしはもちろん憧れも経験もなかったのだが、まさかこんな形で体験するだなんて。
しかも女子垂涎のイケメンにされたというのに、ときめくどころか寿命が縮まるとは思わなかった。
わたしはにわかには信じられなかったので、「それって本当ですか?」とデモンブレイン様に尋ねる。
「ええ、それを証拠に、壁の穴を見てみてください」
壁の穴……?
見てみると、クレーターのようにへこんだ中心部には、黒い花のブローチみたいなのが突き刺さっていた。
「それは、シルヴァーゴースト帝国に貢献した女性に贈られる『落命花章』と呼ばれるものです。
1000年にひとり出るか出ないかの名誉ある勲章で、エーデル・ヴァイス様が贈られたのは初めてです。
人間に贈られたのは、この帝国の歴史から見ても初めてのことでしょう。
実をいうと、わたくしはかなり驚いているのですよ。
あのエーデル・ヴァイス様が、女性を評価するだなんて……しかも、人間の……」
デモンブレイン様は『驚いた』と言っているけど、顔や表情はいつもの穏やかなまま。
だからわたしはそれほどたいしたことじゃないんだろうと誤解していた。
でも、この勲章が……。
後になってとんでもない事態を引き起こすことになるだなんて、この時のわたしは夢にも思っていなかった。