37 兄と弟
シルヴァーゴースト帝国の魔王、エーデル・ヴァイス。
彼の私室の所在は魔王軍のなかでもトップシークレット中のトップシークレット、人間はもちろんのこと、魔族でも限られた者しか秘められた場所にある。
しかし彼が普段、執務を行う部屋は別にあった。
いわゆる『執務室』と呼ばれるものは魔王城の城内にあり、私室の廃墟っぷりとはうってかわって豪奢なつくりとなっている。
その部屋の主である魔王は今、黒光りする書斎机に向かい、本と向かいあっていた。
四角い鈍器のように分厚い本。
表紙は重厚なる革張りで、施錠がほどこされているうえに、鎖で縛られている。
その鈍色の金属から除く表紙、黄金のプレートにはこう彫り込まれていた。
『シャイな魔王のための恋愛指南』
魔王はそのタイトルを心の中でつぶやき、ごくりと喉を鳴らす。
そして、リミリアという名のイヴに、禁断の果実を差し出されたアダムのように、ゆっくりとその手を……。
……コンコン!
不意のノックの音に、魔王はとっさに眼光を部屋の扉に向ける。
……ビシュンッ!
深紅の瞳から閃光が迸り、レーザーのような光線が扉を横切った。
寸刻おかず、扉は熱せられたナイフを差し込まれたバターのように、きれいに真っ二つになり、
……ズズンッ!
と床に転がる。
光線は部屋の外にまで貫通していて、開け放たれた入口の向こうに見える廊下の壁は、ドラゴンの爪で引っかかれたように抉られていた。
ノックをした人物は当然のように生きていないかに思われた。
しかし扉の無くなった入口の横からひょっこりと、あどけない顔が覗いた。
「相変わらずの眼力だね、兄さん」
魔王はわずかに目を見開く。
「スノーバードか、危ないからここには来るなと言ってあっただろう。
しかし、よく避けられたな」
「これも、リミリアさんが鍛えてくれたおかげだよ。
昔の僕だったら今頃は、首がサッカーボールみたいに転がってただろうね」
スノーバードは一歩間違えば兄に斬首されていたかもしれないというのに、臆する様子もなく魔王の執務室に足を踏み入れる。
「そうそう、リミリアさんってサッカーも得意なんだよ。今度、教えてもらうんだ」
「お前は、口を開けばリミリアのことばかりだな」
「そうだよ、リミリアさんのことが大好きなんだ。僕は、彼女と結婚するつもりだ」
「結婚だと? 魔族と人間の結婚など、許されるわけがないだろう」
「でも兄さんも、それを望んでいるじゃないか」
「俺が……?」
「兄さんも、リミリアさんのことが好きなんでしょう?
それを証拠に、この魔王城につれてこれられた人間は、3日も生きたためしがない。
でもリミリアさんはもうずっとこの城にいる。
それどころか、家族の僕ですら入ったことのない、兄さんの私室にまで招き入れている」
批判めいた弟の言葉に、兄は理解する。
「なんだ、リミリアに嫉妬しているのか」
「勘違いしないで。兄さんをリミリアさんに取られたからって、僕は妬いたりはしない。
リミリアさんはいつも正々堂々としてるからね。
でも、兄さんは違う」
「なに?」
スノーバードはいつも、籠の中の小鳥のようなつぶらな瞳であった。
しかし今は大空を舞う鷹のような鋭い目つきを魔王に向けている。
「リミリアさんを兄さんに取られたら、僕は兄さんを許さない。
だっていまの兄さんは卑怯だから」
「この俺が、卑怯だと……?」
「だってそうじゃないか。兄さんは魔王の立場を利用して、リミリアさんを自分のものにしようとしている。
勲章を与え、ポトフを運ばせ、あまつさえ専属料理人にして、私室に住まわせようとしていたじゃないか。
人質であるリミリアさんは、何を命じられても拒否できない立場だって知ってるくせに……!」
魔王はぐっと眉根を寄せる。
「僕はずっと兄さんのことを尊敬してた。
強引だけど、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いだとはっきり明言して、行動していた兄さんが。
でも、今の兄さんはなんだ!
リミリアさんに対しては権力にものをいわせないと、ふたりでいる時間も作れないだなんて!」
魔王はなにも言い返さない。ただ机の下で、拳を握りしめていた。
爪が肌に食い込み、肉を貫き血を滴らせるほどに。
「そんな卑怯な兄さんに、リミリアさんは絶対に渡さない!
僕は今日、それを言いに来たんだ!」
そのまま背を向けるスノーバード。
去り際にチラリと兄を見やり、
「それが嫌なら、僕を殺してでもリミリアさんを奪い取ってみせてよ。
でも卑怯者になっちゃった兄さんは、きっと正面から僕を殺したりはしないんだろうね。
ヴェノメノンさんと共謀して毒殺?
それともさっきみたいに、不意討ちで僕の首を跳ねようとするのかな?」
「なっ……!? 違う、スノーバード!
先ほどの眼光は、とっさのことで……!」
「さぁ、どうだか」とわざと素っ気なく言い捨て、魔王の執務室をあとにするスノーバード。
肩で風を切るようにして廊下を進む彼の瞳には、兄への決別と、新たなる強い決意が宿っていた。
「僕は卑怯な兄さんなんかに、ぜったい負けたりなんかしない……!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
わたしはポトフに次ぐ魔王軍の新メニューを開発すべく、部屋を出て厨房へと向かう。
その途中、廊下の向こうからずんずんと歩いてくるスノーバード様を見つけた。
彼は何か嫌なことでもあったのか、難しい顔をしていたけど、わたしを見るなり、
「あっ! リミリアさん、こんにちは!」
まるで飼い主の帰宅を待ちわびていた犬みたいに、びゅんっ! とわたしの元へと飛んで来た。
「ごきげんよう、スノーバード様」
わたしはスカートの裾をつまんで膝を折り、挨拶する。
「ポトフを作りにいくの?」
「はい。それと、今日は新しいメニューを作ってみようかと思いまして」
「へぇ、それは楽しみだなぁ! できあがったら、僕にも味見させてよ!
それと、僕も新しい作戦を考えたんだ! あとで手合わせしてよ!」
「はい、かしこまりました。それでは後ほどお部屋にお伺いしますね」
「やったぁ、約束だよ!」
見えない尻尾をパタパタ振るみたいにして、手を振りながら去っていくスノーバード様。
最近すっかり男らしくなったと思ったのに、やっぱり、まだまだ子供だなぁ。
なんてほっこりした気持ちになりながら、わたしは厨房へと向かった。




