36 誰のための争い?
魔王の飼い犬であるケルベロスはこのところ不機嫌で、とくに獰猛であった。。
その理由は、意外なるものであった。
これまでは魔王がポトフを口にすることを拒否していたので、すべてペットであるケルベロスに回されていた。
しかし弟のスノーバードが、魔王にポトフを食べるように勧めてしまったせいで……。
そう……!
ケルベロスは一切、ポトフを食べられなくなってしまったのだ……!
彼にはもちろん『地獄の番犬用』と銘打たれた魔界のエサが与えられている。
しかしそれは『メラ・ゾーマス』に匹敵するほどの味わいであった。
ペットですらそんな食事事情であるというのに、ポトフなど与えられてしまっては……。
魔族以上の禁断症状が出てしまうのは、無理もないことだろう。
ケルベロスはこのたび、ひさびさにポトフを食べることができた。
そして彼は理解する。
「このニンゲンがいれば、またあのおいしいものがたべられる……!」と。
もうケルベロスがリミリアを見る目は、人間に対してのそれではなかった。
飼い主である魔王と同じ『かみさまっ……!』の視線。
そう、リミリアはポトフによって、知らず知らずのうちにケルベロスを手なずけてしまっていたのだ。
リミリアはもともと動物好きだったので、ケルベロスが従順になったことをとても喜んだ。
「あなたもポトフが食べたかったんだね。よし、それじゃあ明日からはあなたの分も作ってきてあげる!」
「「「わうっ!」」」
「よーしよーし、こうして見ると普通の犬と同じでかわいいなぁ。そーれ、とってこーいっ!」
「「「わうっ!」」」
リミリアはとうとう、皿を使ってケルベロスと『取ってこい遊び』を初めてしまう。
その一部始終を、枯木の向こうで見ていたデモンブレインは、かつてないほどに震えていた。
「ば……ばかな……!
エーデル・ヴァイス様以外には、誰にもなつかないとされている、あのケルベロスが……!?
魔族ですら、近づいたら容赦なく食い殺す、あのケルベロスが……!?
まさか人間に、ああも飼い慣らされてしまうだなんて……!?
わ、わたくしは夢でも見ているのでしょうか……!?」
リミリアは「あははは」と笑いながら、ケルベロスと戯れている。
周囲は地獄絵図だというのに、そこだけはペットとピクニックに来た少女、みたいな場違いな光景が広がっていた。
しばらくして、魔王の城の入口から、人影が現れる。
それは、リミリアが遅いので様子を見に出たエーデル・ヴァイス様であった。
彼もまた、目の前に広がるほのぼのドッグランに目を剥いていた。
「ケルベロスが、人間に手懐けられている、だと……!?
代々、我が魔王一族の忠犬として仕え、億を超える人間を食い殺してきた、あのケルベロスが……!?」
エーデル・ヴァイスは重苦しい声で、ひとりと一匹に呼びかける。
「貴様、なにをしている……!?」
するとリミリアが「あっ、エーデル・ヴァイス様!」と振り返る。
ケルベロスは我に返り、サッとリミリアの影に隠れていた。
しかしケルベロスの体格はリミリアよりずっと大きいので、完全にはみ出している。
きっと叱られると思ったのだろう、リミリアもそのことを察し、ケルベロスをかばった。
「ごめんなさい、エーデル・ヴァイス様。この子と仲良くなるために、ポトフをあげちゃいました。
これから戻ってすぐにかわりを持ってきます。
ですので叱るのであれば、この子ではなくわたしにしてください」
リミリアの背後で「「「キューン」」」と鳴くケルベロス。
そこに、デモンブレインが駆けつける。
「大丈夫ですか、リミリアさん。
リミリアさんのことが気になって、説明会を早めに終えて来てみたのです。
いったい、何があったというのですか?」
魔王の怒りの矛先は、彼に向けられた。
「デモンブレインよ……! 貴様というものがありながら、なんだ、この体たらくは……!?
もしリミリアがケルベロスに食い殺されるようなことがあったら、どうするつもりだっ……!?」
それは思いもよらぬ一言だった。
魔王はケルベロスが人間の軍門に下ったことなどどうでもよく、リミリアのことを案じていたのだ。
リミリアは目を丸くする。
――えっ? エーデル・ヴァイス様はどうして、わたしの心配を……?
人質であるわたしが死んだところで、彼はなにも困りはしないというのに。
それに今のわたしは、ケルベロスという門番をダメにした、危険人物でもあるのに……。
デモンブレインは二の句が継げなくなるほどに驚愕する。
――かつてのエーデル・ヴァイス様であれば、ポトフを食べられなかった怒りで、リミリアさんとケルベロスに、まとめて処刑を言い渡していたはず。
今までであれば、わたくしがそれを止める役割にありました。
わたくしがいるからこそ、魔王の元でもリミリアさんは生きていられる、という図式であったのに……。
しかし、とうとうそれすらも無くなってしまいました。
エーデル・ヴァイス様はいま、リミリアさんの身が危険に晒されたことを、なによりも不快に思っている……!
やはりエーデル・ヴァイス様のなかで、リミリアさんの存在がどんどん大きなものになっていることは、間違いありません……!
かくなるうえは……!
しかし先手を打ったのはエーデル・ヴァイスであった。
「デモンブレインよ! これよりリミリアの送り迎えは、この俺が自ら行なう! いいな!」
――えっ……えええええええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?
リミリアは内心で絶叫していた。
――魔王がわたしを送り迎え!? なんでっ!?
魔王って、この世界で誰よりも人間に厳しい存在じゃないの!?
デモンブレインは人知れず、歯噛みをする。
――しまった……!
わたくしの妨害により、リミリアさんを私室に囲うことができなくなったエーデル・ヴァイス様は……。
今度はわたくしの不手際をたてに、わたくしを送迎役から外すだなんて……!
もはやこれは、間違いありません……!
わたくしがリミリアさんに近づくにあたり、エーデル・ヴァイス様のことを誰よりも邪魔だと思っているように……。
エーデル・ヴァイス様も、このわたくしを邪魔だと思っている……!
魔王と軍師の視線が激しくぶつかり、目に見えぬ火花がバチバチと散る。
そう。
この瞬間、ふたりの男はついに、認めたのだ。
お互いを『恋のライバル』として……!
情熱と冷静、タイプの違うイケメンに挟まれてしまった、我らがリミリア。
しかし彼女は、男たちがただならぬ闘気を醸し出した理由がわからず、キョトン顔。
ケルベロスといっしょに目をパチパチさせながら、キョトキョトと彼らの顔を見回していた。




