20 魔王の頬ガッ
わたしの部屋の前の廊下で、仁王立ちしているエーデル・ヴァイス様。
その眼光はすでに、穴を開けんばかりにわたしに向けられている。
わたしは、一歩間違えば顔面陥没だった『壁ボコ』と、絞め殺されかけた思い出が蘇ってきて、思わず心のなかで身構えてしまう。
おそるおそる近づいて、声をかけようとしたら、
「俺のために、ポトフを作れ」
思いも寄らぬ一言に、わたしは「えっ」と我ながらマヌケな声をあげてしまう。
「俺のために、ポトフを作れと言ったのだ」
どうやら聞き間違いではなかったようで、わたしは「ええっ」となった。
わたしはあの『壁ボコ』事件以来、エーデル・ヴァイス様とデモンブレイン様にもポトフを作っている。
2人前を、いつもデモンブレイン様が取りに来てくださるんだ。
普通、食事の配膳というのは使用人の仕事だけど、メニューがポトフになってからは、デモンブレイン様がエーデル・ヴァイス様が運ぶようになったそうだ。
忙しい軍師がそんな雑用をするのは珍しいので、疑問に思ってデモンブレイン様に尋ねてみた。
それは城の厨房でのやりとりで、横にはヴェノメノンさんもいたんだけど、
「あの、デモンブレイン様、なぜお忙しいあなたがわざわざポトフを取りに来られるのですか?」
ヴェノメノンさんは「そりゃお前に会う口実……」と口を挟もうとしたけど、それはデモンブレイン様によって遮られていた。
「わたくしは軍師だけではなく、エーデル・ヴァイス様の毒味役も仰せつかっています。
使用人に運ばせて、途中で毒でも入れられたら嫌なのですよ。
毒は平気なのですが、毒を入れられた料理というのはマズくなりますからね。
同じ毒味をするなら、おいしいままのポトフのほうがいいですから」
デモンブレイン様は、微笑みながらそんなことを言っていた。
でもエーデル・ヴァイス様が改めてポトフを要求するということは、もしかして届いていなかったんだろうか……?
わたしはそのことを、エーデル・ヴァイス様に伝えた。
「ポトフなら毎日お作りして、デモンブレイン様にお渡ししているのですか……?」
「俺は、食っていない」
ますます謎が深まる答えが帰ってきた。
エーデル・ヴァイス様の言葉は端的すぎるうえに、表情がいつも修羅のようなので意図を読み取るのに苦労する。
それでもわたしは諦めず、未知の魔王とコンタクトを続けた。
「お召し上がりになっていない? ということは、届いてはいるということですね。なぜですか?」
「すべて犬にくれてやった」
「な……なぜっ!?」と口をついて言葉が飛び出しそうになるのを、ぐっと飲み込む。
ポトフを持って行ってるのに、犬にあげているということは、それは最上級ともいえる『食べたくない』意思表示なのに!?
それなのになぜ改めて、ポトフの要求を……!?
「なぜ、犬にあげていたのですか?」
「最初は俺が食うつもりだったが、思い直した。俺には、食う資格がないと」
「資格?」
「俺は、病弱だからとスノーバードを部屋に閉じ込め、絶望を与え続けていた。
食事も取らずに痩せていく弟を見ながら、自分だけのうのうとポトフを食うことはできん」
魔王はわたしに遠い目を向けながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「この城の誰もが、病弱なスノーバードを見放していた。
衰弱して死んでいくことが、いちばん幸せなのだと誰もが思っていた。
しかしリミリア、お前は違った。
スノーバードに生きる希望を与えてくれたのだ。
しかも途中で大いなる絶望に変わる、なまなかな希望などではなく、本当の意味での生きる希望を。
あの病弱だったスノーバードをたったの3ヶ月で、魔人兵が倒せるほどに成長させてくれた。
スノーバードの特訓を、俺はずっと自室の窓から見ていた。
ずっと暗く沈んでいたスノーバードが、あんなに笑顔でいるのを見たのは本当に久しぶりだった。
俺は、兄として失格だ」
エーデル・ヴァイス様の目からは、いつもの厳しさが消えていた。
血塗られた刃のようだった瞳は、暖炉の焚火のような光が灯っている。
いまの彼は魔王ではなく、弟の身を案じ、悔いる兄であった。
「俺にはポトフを食う資格などない。
だがスノーバードは『魔王族の儀式』が終わったあと、俺に言ったんだ。
ポトフを食べてほしい、と。
そうすれば、俺はもっともっと強くなれる、と」
おそらく兄と弟の間には、多くのやりとりがあったのだろう。
しかし魔王は、ただこれだけ言った。
「だから俺は、ポトフを食うことにした。
それも、お前が作り、お前が運ぶポトフを」
するとわたしの背後にいたデモンブレイン様が、口を挟んできた。
「お待ちください。それはリミリアさんを、エーデル・ヴァイス様の前室に入れるということですか?
リミリアさんは本来、幽閉されるべき人間なのですよ?」
しかしエーデル・ヴァイス様が無言で睨み返すと、デモンブレイン様は引き下がった。
「わかりました。ただし、リミリアさんが食事を運ぶ際にはわたくしも同行します。
毒味もいままでのように、わたくしがやらせていただきます」
「同行も毒味も好きにしろ。
そしてリミリアには、俺の食事の世話もさせる」
「えっ、それは前室だけでなく、自室にまでリミリアさんを入れるということですか?
そんな、それはいくらなんでも……」
わたしはデモンブレイ様が狼狽する声を、初めて聞いた。
どんな表情をしているのか振り向きたい衝動にかられたが、ぐっとガマンする。
いつも穏やかなデモンブレイン様が慌てるのも無理はない。
だって、魔王が言っていることを人間軍に例えるなら、シューフライ様が「俺様の食事の世話は今日からモンスターにさせる」と言っているようなものだからだ。
デモンブレイン様はなおも反対していたが、「くどい!」と魔王から一喝され、黙らされてしまう。
人間が魔王の食事の世話をするという、あまりといえばあまりにも異常な人事が、今ここに決定する。
しかし、わたしとしては魔王の世話係に抜擢されたことよりも、もっと嬉しいことがあった。
それはエーデル・ヴァイス様が自分の言葉で、わたしのポトフが食べたいと伝えてくれたこと。
前回のは聞き間違いの可能性もあったけど、今回のは間違いない。
そしてエーデル・ヴァイス様が、弟君であるスノーバード様とも兄弟の絆を取り戻しつつあるということ。
わたしのポトフがその橋渡しをしたのであれば、こんなに喜ばしいことはない。
人質であるわたしには拒否権などないが、わたしはエーデル・ヴァイス様に向かって、つとめて明るい言葉を返した。
「はい、喜んで。それでは明日からさっそく、わたしがポトフをお持ちさせていただきますね」
自分なりの精一杯の笑顔を浮かべたつもりだったが、これが良くなかったようだ。
魔王はそれまでは比較的穏やかだったのに、突如として豹変した。
……ビキビキビキビキィィィィィィィーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!
大地がヒビ割れるような音とともに、身体じゅうにいくつもの血管が浮き出る。
それどころか、地獄の赤鬼かと思うほどに全身が深紅に染まっていた。
まるで、いちばんヤバい逆鱗に触れたみたいな最凶リアクション。
首を絞められるどころか首を捻じ切られそうな、歯ごたえギッシリの殺意を感じる。
……バッ!
手をかざす魔王。
するとその手に操られるかのように、そこから数メートル離れた場所にいた、わたしの身体が宙に浮き上がった。
「えっ……!?」と思う間もなく、魔王はかざした手の指に、ググググッ……! と力を込める。
それに呼応するかのように、わたしの両頬が爪立てられたようにへこんだ。
窓に映るわたしの顔は、手で乱暴にわし掴みにされているような変顔になっていた。
「にゃっ!? にゃんにゃんれすかっ!? にゃんにゃんれすかぁ!?」
わたしが首を絞められた時以上にジタバタと暴れていると、背後から息詰まる声が聞こえる。
「こっ、これはっ……!? まさか……!?
え……エーデル・ヴァイス様は、本気で……!?」
わたしはどうやら、デモンブレイン様にも初めての驚愕を感じさせてしまうほどに、魔王を怒らせてしまったようだ。
しかし不意に、頬を掴んでいた謎の力が弛み、わたしは床にどしゃりと尻もちを付いてしまう。
そのままなにも言わず、マントをふわりとさせて去っていく魔王。
首絞めの時だったらゴホゴホ言ってたけど、今回は赤くなった頬をさすさすするわたし。
「い……いまのはいったい何だったんですか?」
デモンブレイン様は、驚愕に打ちひしがれたような顔をして、呆然と立ち尽くしていた。
「い、いまのは、『顎クイ』です……!」
お……驚きました……!
まさかエーデル・ヴァイス様が、『顎クイ』をなさるだなんて……!」
えっ……えええええええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?
顎クイって、顎にするもんじゃないの!?
あれは完全に『頬ガッ』でしたけどぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?
「ほ……本当に、あれは『顎クイ』なんですか?」
「ええ。それを証拠に、首は絞められていなかったでしょう?」
その違い!?
「あ、あの……『壁ボコ』のときは、すぐそばまで近づいてきてくれたので、まだ友好的な行為ともいえなくもなかったんですけど……。
今回は触りたくもない敵に接するみたいに、完全に遠隔だったんですけど……」
するとデモンブレイン様は、さも意外そうな顔をした。
「照れていたのがわかりませんでしたか? 人間も、照れたら赤くなるでしょう?」
全身赤くなってたのって、怒りじゃなくて照れだったの!?
「しかし、わたくしも『フォース・顎クイ』には驚きました。
あのエーデル・ヴァイス様が女性に照れて、触ることも恥ずかしがるだなんて……」
えっ……ええ~っ。




