11 檻の中の小鳥
――わたくしはこの歳になって、新しい感情をふたつ知りました。
ひとつは、『おいしい』。
これは厳密には感情ではないのですが、生きていくうえで辛いものでしかなかった食事が、このような喜びをもららしてくれるとは思いませんでした。
そしてもうひとつは、名状しがたきもの。
それを最初に感じたのは、エーデル・ヴァイス様がリミリアさんのポトフを召し上がったとき。
そのときはあまりにもかすかだったので、身体の不調だと思っていました。
それがたしかに感情だと確信したのは、エーデル・ヴァイス様が、リミリアさんに『落命花章』を贈ったときです。
幼き頃をより勉学を、そして苦楽をともにしてきた、エーデル・ヴァイス様。
わたくしはエーデル・ヴァイス様に認められるまでに、5年以上の時を費やしました。
そこから勲章をいただくまでに、さらに5年。
しかしリミリアさんは、それを1週間たらずでやってのけてしまった。
わたくしとご家族以外には誰にも心を開かなかった魔王、エーデル・ヴァイス様の心を、掴んでみせた……!
いまのわたくしはリミリアさんを見ると、胸が締め付けられるように苦しくなります。
この気持ちは、いったい……!?
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
わたしが厨房で働き始めてから、1週間が経過。
わたしの部屋から厨房への往復は、わたしが逃げ出さないようにと魔王軍の兵士が付き添っていた。
しかしそれも最初の数日だけで、付き添いの兵士たちは前線へと駆り出されていく。
どうやら、シルヴァーゴースト帝国の国境で、人間軍が次々と蜂起しており、その対応に追われているらしい。
付き添いの兵士もいなくなり、わたしはひとりで出歩けるようになった。
もう城のなかは自由に行き来できるのだが、わたしは逃げようとはしなかった。
なぜなら、わたしは本当はゴールドブレイブ帝国の人間なのに、つい『人間軍』なんて言っちゃうほどにこの生活になじんでしまっていたから。
そんなある日、わたしは耳にしてしまう。
デモンブレイン様から『決して関わってはいけない』と言われていた、『スノーバード』のネームプレートが掛かっている部屋の会話を。
それは厨房での仕事を終えて部屋に戻るとき、偶然漏れ聞こえてきた。
「スノーバードよ、今日もひと口も手を付けなかったのか?」
「食べたくない……」
「食事というのはマズいものなのだ。わがままを言っていると、いつまでも歩けるようにならぬぞ」
「いいんだ、もう歩けなくても。兄さんも一度も見舞いには来てくれないし……」
「やれやれ、ここに置いておくから、ちゃんと食べるのだぞ」
そこで扉が開いて黒衣の人影が出てきたので、わたしは慌ててその場から立ち去る。
しかし自室に戻っても、あの会話がずっと気になってしまった。
話の内容からするに、中には病気の誰かがいて、魔王軍のマズい料理を食べさせられているのだろう。
あんな料理を食べたところで、元気になれるわけがないのに……。
そして声は大人しそうな男の子のような感じだった。
デモンブレイン様が『関わってはいけない』と言っていたから、てっきりかなりの危険人物かと思っていたのに……。
もしかして、近づいたら伝染する病気なのかな?
そう考えると、ますます気になってくる。
結局……。
わたしは好奇心に勝てなくて、『スノーバード』に会ってみることにした。
次の日の厨房からの帰りに、自分の部屋で食べるからとよそったポトフをトレイに載せて、廊下を歩く。
『スノーバード』のネームプレートがある部屋の前で立ち止まると、周囲を確認してからノックをした。
「……はい」
と返事が返ってきたので、扉を開けて部屋の中に滑り込んだ。
部屋の中はわたしの部屋と大差なく、大きなベッドがあって、中学生くらいの男の子が寝ていた。
男の子はショートカットにパジャマ姿で、子鹿みたいに大人しそうな顔つきに透き通るような肌。
赤い瞳には精気がなく、目を離したとたんに消えてしまいそうな儚い美少年だった。
いきなり知らない人間が入ってきたので、少し驚いているようだ。
わたしは『メイドモード』に意識を切り替える。
「初めまして、スノーバード様。わたしはリミリアっていいます」
「リミリア、さん……?」と言葉を覚えたばかりの子供のように、繰り返すスノーバード様。
瞳はなおも不安げに揺れていて、それだけで抱きしめたくなるほどかわいい。
わたしは彼を怖がらせないように、つとめてやさしい声で言った。
「はい、ポトフをお持ちしました」
「ポトフ……?」
「とっても美味しくて、栄養があるスープなんですよ。
食べるときっと元気になりますから、召し上がってみてください」
「いいよ。どうせ臭くてマズい料理なんでしょ?」
「まあまあ、そうおっしゃらずに」と、わたしはトレイをベッドテーブルに置く。
小鍋のポトフにはフタがしてあったんだけど、それを取ったとたん、
……ほっこり。
と湯気がたちのぼり、スープのいい香りが部屋じゅうに広がった。
「うわぁ……!」
ずっと暗かったスノーバード様の瞳に、わずかに光が戻る。
「な、なにこれ!? こんな食べ物、初めて見た!
すっごくいい匂い……! これが、ポトフなの!?」
ぐぅ~とお腹が鳴って、はにかむスノーバード様。
わたしはキュンキュンしながら、木のスプーンを差し出した。
「はい、とってもおいしいですよ。
熱いから気をつけてくださいね」
「『おいしい』……?」
「あ、マズい、の反対の意味です。
召し上がってみれば、すぐにわかりますよ」
この国の大人たちはポトフを前にすると、最初は毒を前にしたみたいな反応をする。
しかしまだ幼い彼は疑うことを知らないのか、ドキドキワクワクが顔にあふれんばかりであった。
さっそく木のスプーンでニンジンとジャガイモをすくい、ふーふーと息を吹きかけてから、ぱくっと一口。
それでも熱かったのか、はふっ、ほふほふっ! と口の中で冷ましている。
ごくんと飲み込んだあと、一輪の大きな花が咲いた。
「うわああっ、すっ、すごぉぉぉぉぉーーーーいっ! こ、こんなの、初めて食べたよ!
それに本当だ、『マズい』の反対だ! おいしい! すっごくおいしいよ!」
それからスノーバード様は、わんぱく坊主になったみたいにガツガツとポトフを平らげ、鍋を持ち上げてまで残りのスープを全部飲み干してしまった。
「ぷはぁーっ! ご……ごちそうさまっ! なんだか、すっごく元気が出てきたよ!
ありがとう、リミリアさん!」
「よかった。それではこれからも、スープをお持ちしましょうか?」
「ほんとに!? いいの!?」
「もちろんです。厨房でたくさん作るので、それを少しだけもらってきます」
「やったぁ! 約束だよっ!」
「ええ。ただしひとつだけお願いがあります。
このことは誰にも内緒ですよ? ふたりだけの秘密です」
「うん! わかった! じゃあ、指切りしよっ!」
太陽のようなまぶしい笑顔で小指を差し出してくるスノーバード様。
わたしは子供に戻ったような気分で、彼と小指の約束を交わした。




