ノイズ
まただ。また、深い深い闇の中に溺れていた。
どこに手を伸ばしても、どれだけもがいても、何も快斗の体に触れるものはなかった。
しかし、息苦しくはなかった。浮かぶと言うより水の中をゆったりと流れているような、そんな心地いい感覚だった。
そのまま寝てしまいそうなくらいに快適な場所だった。実際は快斗は目を閉じて流れに身を任せていた。
「起きろ。」
その声が聞こえるまでは。
「ぷは………!?」
喉が痛み、ガバッと体を起こして目を白黒させる快斗。ぼんやりとする眼で周りを見渡すと、先程まではどす黒い水の中で漂っていたように感じていたのに、今は真っ白な地平線が続く平らな世界にぽつんと座っていた。
「どこだ、ここは………」
頭を抑える。ズキンと痛む。なんとか立ち上がったが、歩みは千鳥足で上手く前に進まない。
「なにも、ねぇ………」
白い世界。そこには人も物も何も無かった。見渡しても見当たらない。白いので、物があればすぐに分かるはずなのだ。
上を見上げても、どこまで世界が続いているのか分からない。全方位が白いせいで、距離感を掴むのが難しい。
「マジで何もねぇんだな。ここは一体なんなんだ………高谷を止めなきゃならないってのに。」
今も現実で猛威を振るっているであろう従兄弟を思い出して拳をにぎりしめる。すると、頭痛がよりいっそう強くなった。
「つ…………」
唐突に強烈な痛みが襲ってきた。快斗はあまりの痛みにその場にしゃがみこむ。
視界がぼやけてきた。なんだか眠い。このままでは、またあの黒い水の中に逆戻りしてしまうのではないかと快斗は考えた。
なんだか分からないが、快斗はあそこにはあまり長くいたくない。焦燥感というか、不安が快斗の心を冷やかすように感じるからだ。
エレメロと再開したのもあの水の外の空間だった。一体あれはなんなのだろうと、快斗は首を傾げる。が、正直今はそれどころではなかった。
「クソ………ってぇ………」
冗談抜きで痛みが増してきた頭痛に苦しむ。やがて、快斗は目から何かが染み出そうとしているのを感じた。
血だ。
「ぐ………」
滴る血。それをすぐに拭ってなかったことにしようとする。が、拭っても拭っても血は溢れ出す。こんなことをしている場合ではないと焦るほどに、溢れ出す量も増えている気がした。
そんなことを繰り返していると、快斗に声が響いた。
「拭うな。流せ。」
「あ?」
聞いた事のある声だった。記憶の中にあるこの声は、ニグラネスらを倒す時に何度か出てきたルシファーという人物のものだ。
と、快斗はここで不思議に思った。何故自分は血を必死に拭っていたのだろうか。まるで、地面に血を落とさないようにしているかのように。
快斗は言われた通りに拭うのをやめて、血を落としてみた。
すると、真っ白だった世界が大きく歪んだ。赤い絵の具を落とした水面のように赤い波紋が広がり、歪み、ねじ曲がって快斗の周りに広がる。
そして、血が落ちた場所から何かが生えてきた。
「………なんだ?」
それは、真っ黒な小さな木だった。快斗の腰よりも低く、枝も幹もまだ細い。蹴飛ばせば簡単に折れそうだった。
そしてその木には、一つだけ小さな赤い実がなっていた。
手に取ってみると、それはどこにでもありそうな、きっと散歩でもしていればそこら中で見るであろう植物の実のようだった。
だか少し違うのは、その実には翼のような模様がついていたということだ。
不思議に思った。警戒もしたが、何故だか快斗はその実を見ていると気分が悪くなった。次第に手に持つのも嫌になり、捨てようと手を離しかけたその時、
「食べるんだ。」
と、響いた。快斗は本気で嫌だったが、ヤケクソだと言われるがままその実を口にした。
噛み砕いてみると意外と甘く、種も入っていなかった。が、少し血の味がしたような気がした。
すると、途端に気分が良くなった。
先程まで頭痛が酷かった快斗だが、今はスっと痛みが引いている。心做しか体も軽い。
体の感触を確かめている時、快斗はふと頭上になにか危機感のようなものを感じて上を見上げた。
快斗から滴り落ちた血で染まった真っ赤の空には、太陽のように爛々と光る白い球体があった。
「選べ。」
「あ?」
「お前が向かう、2つの道を。」
「2つ?」
「片方は希望、あるいは残酷な絶望。もう片方は、ここでその命を失うか。」
「意味がわからねぇな。お前は何が言いたい?」
「俺の続きをするのか、お前としての生を終えるのか。選ぶのはお前だ。」
「………エレメロが言ってたが、俺が最高神とやらを殺すことを期待してんのか?」
「選ぶのはお前だ。」
「あくまで自分の意思で選べ、と………。」
響く声の真意は定かではないが、快斗はそう捉えることにした。これ以上質問しても同じ言葉しか返ってこない。快斗はそんな気がしたのだ。
快斗は考える前に、真上に浮かぶ球体が気になった。
「それは?」
「答えを。」
「答えなきゃくれねぇのかよ。」
今気になっているのは海斗の存在だ。現れた従兄弟の奇行を止めるには、海斗をどうすればよいか分からなかった。
だが、今のままの力では勝てない。倒すどころか、傷を残すことすら出来なかった。海斗は「神になった」と言っていたが、『最高神』とは、それよりも強い神なのだろうか。
最高とつくのなら、新たに生まれた海斗も、簡単に捻り潰せるのだろうか。
そんなものを、エレメロ達は相手にしていたのかと思った。その瞬間、エレメロの最後の姿を思い出した。
死ぬことすら惜しまない。消えることすら恐れない彼女の姿に、それ相応の覚悟を感じた。
いや、覚悟なんてもんじゃないのかもしれない。
狂気。狂愛。歪んだ思想。エレメロだけでなくディオレスだってそうだった。彼らは一体何を経験して、何を願って、どうして死んだのか。
もう、快斗は分からなかった。この者達の存在意義が。彼らは何故自分に、ここまで望みをかけてくるのか。
その後を追いかけようか、快斗は迷った。しかし、心の中では既に答えは出ていた。出ていたのかもしれない。
『デ…………テ……………ッ………タ……………………???』
「あ?」
脳に響く、残響。誰の声か分からない。これはルシファーでも、他の誰でもない、知らない声だった。
『チガ……………エ………ブ…………ナ……!!オ…エ………ダ………サ…………レテ…………ル………ゥゥ…………!!』
うるさかった。ノイズのように響くその声がうるさかった。その声を聞く度、選びたい方向がどんどん大きくなっていった。
『ダ……ダ………!!スス………ナ………!!』
言っていることが分からなかった。だから、快斗は自身の想いに従って進むことにした。
とても少ない抵抗力を突き破って。
「進む。俺はお前の道を追ってやる。海斗のこともあるしな。なぁ、選んだら、その力をくれるんだろ。」
「………分かった。」
ルシファーの声はそこで終わった。ノイズのように響く声も消え去った。
真上の球体が目の前に降りてきた。それは球体かと思っていたが、目の前に来た時にそれが十字架だと気がついた。
光のせいで丸く見えていただけだったようだ。
十字架は快斗に矛先を向けるように傾き、快斗の心臓を貫くかのように飛び出し、快斗に突き刺さった。
心臓がドクンと大きく跳ねた。体が痙攣する。ビリビリと全身が痺れるように感じた。が、気分は悪くなかった。
足りなかったものが、かっぽりとハマったかのような、そんな感覚だった。
力が手に入ったのかは分からなかったが、あの力が使えるという確かな自信があった。
快斗は拳を握りしめ胸に当て、海斗のことを思う。
なんの恨みがあるのかは知らないが、快斗を殺すつもりである海斗を止めるには、血の効果がない快斗でしか倒せない。
そしてなにより、快斗は血の効果に苦しむ、ヒバリ達のことを救い出したかった。
「必ず助けてやるからな………」
口は自然と、その言葉を話していた。
「傷つくのは、俺だけでいい。」
最後はきっと、幸せなのだろう。
『………ァア……………。』