高谷汐莉
「ふぁぁーーー着いたーーー!!」
「こ、ここですか?」
少し山を登ったところに、小さな公園のような場所があった。汐莉はそこにぽつんとたたづむ1本の木の下に鞄を放り投げて、手すりに寄りかかった。原野も同じように柵に寄りかかる。
そこから見える景色はなんとも言えないものだった。ただ、家が沢山建ち並び、あっちこっちに街灯の光が見えて、たまに犬の鳴き声がして、遠くの方に駅が見えた。
何の変哲もない住宅街の風景。なのに隣の汐莉は感傷にひたっているようだった。
「あんまりいい景色じゃないでしょ?」
「そうですね………。」
「でも、なんかここが好きなんだよね。私。1人になりたい時とか、よくここに来る。」
「へぇ。」
明るい汐莉にも悩み事があるのかと、原野は少々驚いた。それを感じとったようで、汐莉は苦笑する。
「考え事とか、泣きたい時とか結構いいんだよ?誰もいないし、叫んだって怒られないもの。」
汐莉は少し遠い目をして、駅の方向を眺めて指を指す。
「あっちに私の家があるんだ。」
「結構遠いですね。」
「そ。同級生が沢山いるから嫌なんだよね。」
「?」
汐莉の言った言葉を聞いて、原野は首を傾げた。汐莉の性格なら、同級生にあったって気まずくなったりもしないはずだ。きっと誰にでも話しかけるようなタイプなので、誰とでも仲良くなれそうに思える。
汐莉はまた苦笑して、原野に振り返る。
「見て分からないと思うけどね。私、いじめられてるの。」
「え………」
予想外の言葉に、原野は一瞬息を呑んだ。本当にそんな光景が想像できなかったからだ。
「まぁ、自業自得なんだけどね。前にいじめてた子から、今は標的が私になったってだけ。悪いのは私だし、当然の罰だよ。私は受け止めてる。そのことはね。」
汐莉は木の根元に座り込み、鞄を抱えて天を仰いだ。その隣に原野も座る。
「大丈夫なんですか?」
「平気だよ。もう慣れちゃったから。2年もそんな環境だとね。」
「2年も……!?」
「幸い、傷つけるタイプのいじめじゃないんだよ。集団無視とか、教科書盗まれるとか、そんな感じ。」
汐莉は鞄に突っ伏してそんなことを言い出した。原野は何故か反応せずに、ただじっと汐莉の放つ言葉を聞き続ける。
「たまに仕返しもできてさ。私って頭良くて、あいつらがすることを先読みして、色々こねくり回して矛先を変えたりとかしてたんだよ。それが成功した時は楽しいんだよ。」
「はい。」
「でもね。失敗したら最悪なの。先生に通報されて、放課後も残って説教されて、真白ちゃんに会える時間が減っちゃうの。あ、真白ちゃんっていうのは私のお母さんなんだけどね。」
「はい。」
「あの人と私の彼氏だけが、私を理解してくれていたの。今までは。でも、今になっては両方いないの。」
「え。」
「本当に嫌な話なんだけどね。私、妊娠しちゃったの。今もお腹の中に赤ちゃんがいるの。産む訳には行かないけど、殺すのもなんだし、爆弾抱えちゃったんだよね。」
「はい。」
「それをお母さんに話そうとしたら、お母さん、私の弟を産んだんだよ。再婚相手と。すごいと思わない?弟と私の年の差は12年。姉弟って思えないよね。こんなに年の差があったら。」
「…………。」
「それからお母さんは私に構ってくれなくなった。私はね、この世界に絶望してるの。ほら見て、この手。汚いでしょ?」
汐莉は顔を上げ、大きめの腕時計を外して原野にみせた。その手首には何本もの切り傷の跡が残っていた。リストカットをしていたようだ。カッターを持ち歩いていたのも腑に落ちる。
「なんで私ばっかりって思ってたんだ。だから死ぬことにしたの。私。」
「だ、ダメですよ、それは……」
「でも、生きる意味も価値も無くなったもん。これからやりたいことも、されてみたいものも、全部無理な話で………それでも生きる意味ってある?」
「でも、弟さんが………」
「まだ6歳だからね。さっさと死んであげた方が、ショックが少なくて済むかもね。」
「そういうことではなくて……」
「ふふ。花凜ちゃんは優しいねー。私を止めてくれたの、花凜ちゃんが初めてだよー。」
汐莉は立ち上がって遠くを見つめた。虚空を見つめて悲しそうな無表情。それをどこかで見たことがあるような気がして、原野は目を擦った。
汐莉の鞄を持ち上げ、原野はじっと汐莉の顔を眺める。誰かに似ているその顔立ちを、じっと見つめる。
「うっ………」
途端に頭痛が原野を襲う。耐えられないほどではないが、不快極まりないその頭痛に頭を抑えた。
『お……は、き……をき………じゃ……いよ。』
また聞こえた。誰かの声が、ノイズで遮られたが、この声は原野と同い年ぐらいの男の子の声だった。
『俺は、き……をきら…じゃ…いよ。』
今度はもっとはっきりと、言っている内容が少しずつ分かるぐらいまで聞こえるようになった。脳内に過ぎる誰かとの風景。そこで言われたのは分かるのだ。
だから、黒い霧でおおわれて見えないその、愛しい存在の顔が見たい。原野は魂でそれに抗った。
『俺は、君を嫌いじゃないよ。』
「は………」
声も形も性格も、何があったかも全て思い出した。胸にぽっかりと空いた穴が埋まっていくのを感じた。誰に会って、誰と話して、そして誰に救われたのかまで思い出した。
なのに、なぜだか顔だけが思い出せない。それをいったときにあどんな表情していたのかだけか、原野は全く思い出せなかった。
「花凜ちゃん?」
「あの、汐莉さん。」
「?」
「死ぬって、どうやって死ぬ気ですか?」
「うーん、そうだね………無難に首吊りかなー。でもあれって痛いって聞くし……でももう弟には別れを告げたし……」
「いつ死ぬ気なんですか。」
「明日だよ。首吊り用の縄まで用意したんだ。もう自分の部屋に結んである。ちょっと怖いけどね、準備万端だよ。」
原野は汐莉が嘘をついていると分かった。汐莉は怖いというよりかは、むしろ清々しい笑顔で言い放ったのだ。私は死ぬと。
きっと、辛くないように見せているだけで、というより、このような場所を知っている時点で辛かったに違いない。辛くないふりをするのだって簡単じゃない。
「現代は残酷だよね。力で殺し合うのとはまた違う辛さがある。」
汐莉はそう言った。原野はそれに同意しかねた。原野が体験した死の恐怖は原野の心を傷つけた。決して消えないトラウマになった。
暴力というものは、何よりも強い恐怖になり得る。しかしその傷は、時間が経てば治るのだ。
重要なのは治るかどうかだ。精神的ダメージは、治すのに個人差が大きく出る。簡単に受け入れられる者もいれば、なかなか受け止めきれずに崩壊してしまう者もいる。
精神とは体以上に複雑で、もしかしたら体よりも精神の方が脆いのかもしれない。
「私みたいにはなって欲しくないなぁ。」
汐莉は頬を掻きながらそう言った。きっとそれは、彼女雨の弟のことを言っているのだろう。
「………私、多分あなたの弟さんのこと知ってます。」
「?」
「なんとなく、知ってます。」
原野は祈るように手を合わせたあと、顔を上げて言った。
「弟さんは、あなたとは違う生き方をしています。みんなに慕われて、優しくて………でもあなたの事も尊敬している。」
「……なんで、そんなことが言えるの?」
汐莉は少し涙目で原野に問うた。原野はなんと説明すべきか迷ったが、率直に言うのもいいとも言えない。
「なんとなく、ですかね。」
「ふぅん。なんか、実際に会ったみたいな感じだったけどね。」
「そ、そうでしたか?」
「大抵人の考えてることなんて顔でわかるもんだよー。」
悟ったようなことを言う汐莉。汐莉は柵に寄りかかって街を見下ろしていたが、原野は汐莉が静かに涙を流したのを見逃さなかった。それが嬉し涙だったのか、悲しくて流したものなのか分からない。
「あの、私の話信じるんですか?」
「うん?」
「あんまり信じ難いって言うか、頭悪そうな話でしたけど………」
「大丈夫。私も頭悪いからよく分かる。」
汐莉は涙を袖で拭い、振り返って明るく笑った。
「なんか疑えないよ。花凜ちゃん。もっと教えてくれない?私の弟のこと。」
「わ、私が知っている限りなら。」
木の根に座る汐莉の隣に原野も座り、それから何時間と原野は汐莉の弟であろう人物の話をした。
皆のために粉骨砕身すること。他人の為に自らを犠牲にしてしまうこと。
車酔いしやすいこと。自分がその人に惚れたこと。少し不安げなところが可愛いこと。他にもいろいろと話しているうちに、原野に眠気が訪れる。
「あの、それから………」
「ふふ。眠くなっちゃったみたいだね。」
汐莉は原野の頭を優しく抱き寄せて、自らの膝の上に乗せた。原野が膝枕をされていると理解することにはもう瞼が上がらなくなっていた。
原野は汐莉が笑っているのを感じていた。が、それが次第に笑いではなく泣き声に変わっていくのが分かった。その顔を見上げようとするのに、何故だか抗い難い眠気に襲われて瞼を開けない。
「なか、ないで。」
だからせめて、原野は自身の頭が乗っている膝を優しく撫でた。汐莉の泣き声が止まり、その息が原野のすぐ耳の近くに近づいてきていた。そして、汐莉は原野の耳元で小さく呟いた。
「ありがとう。それと、弟はきっと私みたいになっちゃうと思うよ。」
汐莉は自嘲気味にそう答えた。
原野は意識が落ちる前にその言葉を聞き、そして脳内でその言葉の意味を必死に考えたが、やはり思考力が低い原野にはそれの答えにたどり着く前に眠気に負けてしまった。
意識が闇に落ちてゆく。まだまだ起きていたいのに、何故だか今の気分は最高に気持ちよくて、不思議な感覚を味わいながら、原野は意識を手放した。
「おやすみ。花凜ちゃん。」
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「ん……んん………」
「よし。こいつもみんなと同じだな。」
誰かの声が聞こえて、原野は目を覚ました。起き上がると、そこらかしこに原野と同じような人々が頭を抑えたり周りを見渡したりしている。
そんな中、真っ白な髪の毛がちょこちょこと動いていた。
「快斗、くん?」
「お、原野起きたな。悪ぃが手伝ってくれ。これ配り終えたらヒバリを助けに行くぞ。」
「わ、分かった。」
病み上がりでキツい仕事を押し付けられた原野。だが何故だか体が軽いような気がした。なのに、頭の中はぼんやりとしている。
少し長い夢を見ていたかのような、そんな感覚だった。
「?」
右手には、原野のものでは無い温もりがあった。まるで誰かに優しく握られたかのような、そんな感覚があった。
「今は……それどころじゃないよね!!」
原野は動く片腕を駆使して、何人かの兵士を治療するのだった。