20.いあ! いあ! ふんぐるい! むぐるうなふ! くとぅるう! るるいえ! うがふなぐる! ふたぐん!
ごめん、遅れた!
それから、少しだけ歩くと、さすがに路地もなくなって大きな道へとたどり着いた。
「うぅ、やっぱり、路地だけじゃなかったか」
しかし、その道へとたどり着いても一向にその悪臭が途切れることはなく、ボクの鼻孔に向かって延々と機関銃を乱射されるような感覚が続いていた。
「や、やっぱこれって、やばい匂いなんじゃないの?」
今更ながらに、脳死したように愚直にその臭いの咆哮へと歩いて行っていたが、臭いをかぐ限り絶対に危険な薬物か何かがばらまかれているようにしか思えない悪臭に、懐疑的な考えが頭の中にほんわりと浮かび上がってきたのである。
……やっぱり、アバターの時もそうだけれど、ボクって相当トロい?
「あぁ~~、もう無理」
しかしながら、日本に住んでいて、精々食べ物が腐って発される臭いくらいしか、異臭というものになじみがない人種として、耐性を持っているわけもなく、その臭いから逃げるように近くの階段へと、へばり付くように倒れこむ。
「まず何の臭いなんだよこれ。おっさんの脂汗だったりしたら……ってあれ?」
ボクの脳裏に、一瞬だけ、脂汗をハンカチで何度も拭う、中性脂肪でタプタプなおなかと、AGAになりかかっている頭頂部など、もう視認するだけでほんの少し背筋が凍ってしまいそうになるそれが、走り抜け、もしかしたらその臭いが、という推測に、今すぐに鼻を洗いたくなる。
ただ、そんなとき、延々と消えずに続く、あの悪臭とともに呼吸をしたら、悪臭はなく、すがすがしいとさえ思える無臭の吸気を吸入することが出来たのだ。
「消えちゃった?」
本能的には、もうあんな臭いをかがなくても済む、と喚起してしまうが、エミィを探す唯一の手立てが消滅してしまった、という事に理性的には全く喚起できないどころか、悲壮すぎる。
途端に、ボクは立ち上がり路地へと向かおうとする。
「おわぇ!?」
そうして、ボクは立ち上がって一歩足を出し、もう一歩足を出した瞬間に、再びおぞましい悪臭がボクの鼻腔を襲う。
さらに言えば、ボクは悪臭がなくなっていたその清浄な空気を精一杯吸いながら歩いていて、油断しまくっていたせいで、瞬時に大量の刺激が鼻腔を襲い、強烈な吐き気を催しながら、すぐさま二歩下がって精神衛生を管理しようとする。
……SAN値が、SAN値が。
「――!?」
そんなとき、とっさに出てしまった、日本語では表記できない様な良く分からない叫びに、ボクのことをきっと変な目で見ていたであろう妖精さんが、驚き、すぐさまにボクの顔の目の前に飛んできてくれたのである。
「な、なんで急に」
やはり、二歩下がったらその悪臭は見事に消え去っており、やはり二歩進んだらその悪臭が見事に漂っているのだ。……なぜ臭いに、明確な境界線が出来ているのだろうか、とさらにこの悪臭に対して懐疑的になってしまう。
まあ、いくら何でも怪しすぎる臭いに、この臭いを生み出しやがったのは、きっとエミィをさらったやつの可能性が高いと、推測はできる。……さすがに偶発的にこんな臭いが発生したらたまらないだろう。
ゲーム側のバグって可能性はあるけど、それだったら、全力で暫定頭がおかしい運営にコールする。
「……うぅ、もしかしてこれって、臭いが足跡、とか言わないよね?」
最悪な状況を推測しながらも、その推測が当たらないように必死に天に祈りながら、ボクは冷静的にそれの匂いがどういった境界線なのかを探り始めたのである。
□ ■ □
結果から言おう。
マーフィーは当たっていた。
……この悪臭、やはりというべきか、明白に境界線が生まれており、その境界線からほんの少しでも外に出てしまえばあの悪臭は全く持って感じ取ることがなくなるのだ。しかも、まるでどこかにつながっているかの様に、その悪臭がある種の指向性をもって漂い続けているのだ。
わかりやすく言うのならば、地面にある足跡をたどるように、いまだに漂い続けている悪臭を辿っている。という事だ。
やっぱり、現実……まあ、ゲームだけど、ゲームもゲームでくそったれだ。
ただ、その悪臭を辿るにあたって、唯一の問題点が存在している。
「ちょ、ちょっと、休憩」
悪臭が、悪臭なのである。
いや、まあ、それは前からそうなのだが、ボクが今までに感じたこともないほどに悪臭であるそれを、幾らエミィを探すためだとしても、それの匂いを嗅ぎ続けて、歩き続けるという、苦行の一種と言っても間違いではない現状に、心が折れそうになるのだ。
別段、ボクは精神的に弱いとか、強いとか、そういう事のない一般的な日本人なのだ。それはまあ世界水準からすれば精神力は、日本に生まれた以上比較的ましになるかもしれないが、別に自衛官学校なんぞに行っているわけでもないし、スポーツ競技の選手でも、eスポーツの選手でもないボクは、大して精神力が強い訳ではない。
……まあ、家に引きこもって仕事も、勉強も、仕事に就く練習もしていない、NEETと呼ばれるような連中よりは確実に精神力はあると信じるけれど。
「――?」
ただ、前にも言った通り、妖精さんにはこの悪臭は全く持って認識できていないため、休憩するために心配そうな表情でこちらを眺めてくるその様相に、少し休憩するのが忍びなくなってしまうのである。
まあ、その特質が、種族的なものなのか、はたまた出身地的なそれなのか、わからないが、たぶん前者だ。……逆に後者だった場合どんな場所に住んでいたんだという話になる。
……九龍城砦?
「……いや、まあ、ホラー的な場所があるのだとしたら、それに近しい場所はあるかもしれないけどさ」
九龍城砦に住む妖精。
っていうのは、いくら何でも印象が違いすぎるし、『九龍の妖精』とかっていうのは何らかの隠喩とかと勘ぐってしまう。麻薬だとか、覚せい剤だとか、そういったやばい感じの奴の。
まあ、九龍城砦がくさそうってのは、ボクの個人的な印象なんだけどね。……ボクが生まれたころには九龍城砦なんてごく一部の物を除いて跡形もなく消え去っていたし。
「まあ、そんなことはどうでもいいよ」
本当に妖精さんがうらやましい。と今までボクがいた、きっと悪臭が漂っているであろう場所にいる妖精さんを眺めていた。
そう、さらにこの悪臭の悪いところは、無色であり、またその悪臭が漂っている場所から一メートルほど離れてしまえば、その匂いを認識できなくなってしまうという事にあって、つまり言えば、ずるして悪臭が漂っていない場所を歩いていると、本当に悪臭が漂っている場所がわからなくなってしまうという質の悪さ。
いくら何でもこの悪辣さは何なのだろうか、と思う。
「――?」
こくり、と首を横にかしげている妖精を見ながらも、そりゃ仲間への連絡手段として残しているのだったら、大衆が認識出来る様なものでは無意味だろう、と、ほんの少し脳内をその悪臭によって汚染されているせいか、自己自演で突っ込みとボケをしてしまう今日この頃。
……これで、探しているのがエミィではなく、エミィサイズの脂ぎったおっさんだったら、秒で見捨てていたことだろう。
「満天の星が見えているっていうのに、こんなに鬱屈になったのは初めてだ」
心底、視覚的情報以上に嗅覚的情報によって、というか強烈な刺激によって好感情は真っ先に淘汰されるものなのだと、今日ほど実感した日はたぶん昔も、今後も、ない気がする。
「しようもないこと言っても、無駄か」
そうして、あきらめある種の悟りを心の奥底で感じながら、ボクは立ち上がり、再び悪臭の中へと入り込んでゆく。
「……誰か癒しを与えてくれぇ」
悲痛なつぶやきが、その空間に悲しく残った。




