第九章 アイヴァンの師匠
「夕食までは自由時間にしますので、ナナミ様はゆっくりしていてください」
洗い物が終わったのか、アイヴァンさんがそう声をかけて、部屋を出ていこうとしたので呼び止めた。
「何か質問でしょうか?」
日記を読んでいた私を見て、彼は首をかしげた。
「いえ。違います。いや、質問があるといえばあるんですけど。アイヴァンさんの師匠さんの話を聞きたいなと思いまして」
「ああ。そういえば、後でお話すると約束しましたね」
アイヴァンさんは少し考えた後、私を手招いた。
「私の部屋に来てください。師匠の写真があります。見ながら話をした方が分かりやすいでしょう」
「分かりました」
私はアイヴァンさんについて、ダイニングを出た。
搭の真ん中にある螺旋階段を初めて上り、二階に向かう。
二階全部がアイヴァンさんの部屋らしく、扉が一つしかなかった。
「こちらへどうぞ」
扉を開けて、アイヴァンさんは部屋の中に手招いた。
中に入ると、奥にぎっしり本が入った本棚と、そこに立て掛けてあるくるくると纏めてある紙以外は何も置いてなかった。
奥には左右に扉があったので、そちらに別の部屋があるのだろうと思う。
「さっぱりした部屋ですね」
部屋を見渡した私が感想を漏らすと、アイヴァンさんは微笑んだ。
「こちらは、あちこちにある結界に移動するための部屋ですから。魔法陣が床にあるので、あまり物を置けないのですよ」
アイヴァンさんの言葉に、床に視線を向けた。
確かに、床には大きく複雑な魔法陣が描かれていた。
「この魔法陣は、床に直接描かれているんですか?」
「いえ。違います。師匠に教えてもらって、自分で大きな紙に描くんです。それを床に敷いているんですよ」
「え? 自分で描くんですか? 元々床に描いておけばいいんじゃないんですか?」
「修行の一環みたいですね。それに師匠と弟子で部屋が分かれますから、床に描いていると一々引き継ぐ際に部屋を移動する必要があります。その面倒も省く意味もあるようです」
「ということは、アイヴァンさんの師匠さんの部屋はまだ残っているんですか?」
「えぇ。三階は師匠の部屋がそのまま残ってますよ」
「じゃあ、この搭は三階建てですか?」
すごく高そうに見えたこの搭も、そこまで高くないのだろうか。
「いえ。最低でも五階までありますよ」
「最低でも?」
「四階は私の師匠の更に師匠の方の部屋です。五階は弟子の召喚士の修行場です。しかし、そこから上には私は上ったことはありませんので」
不思議そうに首をかしげた私に、アイヴァンさんはそう答えた。
どうやら見た目通り高い搭らしい。
「上ったことないんですか?」
「えぇ。子供の頃に探検してみたいと思ってましたが。学校と召喚士の修行で、その暇がなかったので」
「召喚士の修行だけじゃなかったんですね」
「はい。師匠は私が神子様を召喚すると思っていたようで。神子様をあちこちに連れて行くなら、搭にこもっていたら世間知らずになるからと、学校に行かされました。実際、ナナミ様を召喚することになったので結果的に良かったと思いますよ」
「アイヴァンさんの師匠は勘が鋭い人なんですね」
そこで、アイヴァンさんの師匠の話を聞こうとしていたのに、いつの間にか話が脱線していたことに気づいた。
「すいません。話が脱線しましたね。アイヴァンさんの師匠さんの話を聞こうとしていたんでした」
「いえ、構いません。私の師匠でしたね。写真はそこの壁に掛かってます」
アイヴァンさんの手の示す方を見ると、さっきは気づかなかったが、左の壁に写真が額縁に入れられて掛かっていた。
写真では、今より少し若い笑ったアイヴァンさんが椅子に座っていて、その彼の肩に手をのせて、もう片方の手は彼の頭にのせている金髪の美人がいた。
長い金髪を三つ編みで纏めて、肩に流していて、紫の瞳が印象的だった。
とても綺麗な人だけど、とても不敵な笑みを浮かべていて、女性か男性か分からなかった。
写真の端に、7月11日、アイヴァンとセレス、と書かれていた。
「綺麗な人ですね」
「えぇ。そうですね。ただ、師匠は写真が嫌いらしく、この一枚しかないんです。それに本当は師匠が椅子に座るはずだったんです」
アイヴァンさんは懐かしそうに写真を見た後、苦笑した。
アイヴァンさんにしては、もっと師匠さんの写真が欲しかったのかもしれない。
これはアイヴァンさんで師匠さんの体が隠れているから、たとえば全身が写っている写真などが。
「じゃあ、どうしてアイヴァンさんが椅子に座っているんですか?」
「師匠が私より背が低かったので、椅子に座ると更に身長差が目立つのが嫌だったみたいですね」
「アイヴァンさんの師匠って、身長はどれくらいですか?」
写真ではかがんでいるので、分かりにくい。
「ナナミ様より、少し高いぐらいでしょうか」
「そうですか」
今、私の身長は162㎝だ。
アイヴァンさんは背が高いので、顔を見る時は見上げてしまう。
アイヴァンさんは170㎝は絶対あると思う。
その私より少し高いぐらいということは、165、6㎝ぐらいか。
身長差を気にすることを考えて、高く見積もっても167か168㎝だ。
男性にしては小さい方だろうが、女性にしては高い方に入ると思う。
だが、女性は身長差を気にするだろうか。
相手が弟子であれば気にするかもしれない。
「この写真の端に書いてある、セレスが師匠さんの名前ですか?」
男性か女性か判断材料を増やさそうと、また質問してみた。
「ナナミ様は目が良いんですね。そうです。セレスが師匠の名前です。最初はセレスさんと呼んでいたんですが、師匠と呼べと言われましたので。今では師匠呼びが普通になってしまいました」
少し感心したように私を見た後、アイヴァンさんは写真に視線を戻した。
「口調が荒い人なんですね」
「えぇ。口調が荒くて、面倒くさがりで。でも面倒見は良かったので、私は色々面倒見てもらいました。あちこちに連れて行ってもらいましたし、食事も作ってもらいましたし。掃除も洗濯もしてもらいました」
そういう所は女性らしいが、口調が荒い所は男性らしい。
男性でも子供を預かればそれぐらいの世話はすると思うし、セレスさんの性別は不明だ。
「ただ、私が成長するにつれて、家事はやり方を教えたものは自分でしろと言ってましたが。実際、大人になると今度は私が料理も掃除も洗濯もするようになりました。それに、連れて行ってもらうのはいいんですが、その先で変な人に絡まれても放置されてましたし。変わった人でしたよ」
「え? 放置って! 子供の時ですか!?」
私は驚いて、写真からアイヴァンさんに視線を移した。
「えぇ。この写真の笑顔でただ見ているだけでした」
しかし、アイヴァンさんは平然とそう答えた。
「それ、大変じゃないですか! 連れ去られたりしません?」
「流石にそこまで行くと、師匠も助けてくれましたからね。連れ去られたことはありません」
苦笑しながら答えたアイヴァンさんの言葉に、私は呆然とした。
よくあることだったのか、アイヴァンさんは平然としているが、私には衝撃的だ。
可愛い子には旅をさせろ、みたいな教育方針だったのだろうか。
あくまで、アイヴァンさんは召喚士の弟子だから。
いや、でも、召喚には関係ない気がする。
「召喚士って、体を鍛える必要があったりします?」
セレスさんの教育方針に疑問を持った私が問いかけると、アイヴァンさんは首を横に振った。
「いえ、ありませんよ。人並みの体力があれば問題ありません。さっきも言ったように師匠は私が神子様を召喚すると思っていたから。これぐらい簡単に追い払えるようになれ、ということのようです」
「厳しい人ですね」
「そうですね。私も誉めてもらえることは珍しいことでした。その分誉めてもらえた時は嬉しかったですよ」
クスクスとアイヴァンさんは懐かしそうに笑った。
綺麗な人だけど、口調は荒くて、面倒見はいいけど実際は面倒くさがりで、厳しい人。
話を聞けば聞くほど、アイヴァンさんの師匠、セレスさんの性別が分からない。
表情や普段の言動は男の人みたいだけど、女の人みたいに綺麗な人だ。
名前も女性っぽいけど、男性が使っていてもそうおかしくない。
失礼とは承知で、思い切って聞いてみた。
「その、失礼とは思うんですけど。セレスさんって女性ですか? 男性ですか?」
「それが分からないんですよね」
アイヴァンさんは困ったように笑った。
「え!? 分からないんですか!?」
「はい。聞いたことはあるんです」
アイヴァンさんは写真から私に視線を移して、始めた。
「学校の友人が師匠を見て、綺麗な人だけど乱暴な口調が飛び出したのに驚いたらしく。あの人は女性なのかって私に聞いてきたんです。私は最初は女性だと思っていたけど、口調が荒いことや、王宮では男性のような扱いを受けていることも含めて、その友人に話しました。そうしたら、友達も師匠のことを女性だと思うから、直接本人に確かめてくれと頼んできたんです」
「それで、答えはなかったんですか?」
「あるにはあったんですよ。私も師匠に失礼だと思っていたので、恐る恐る聞いてみたら。師匠は、お前達は私を女性だと思うのか、と。笑ってはいたんですが、それが関心しているのか、呆れているからなのか。よく分からなかったので」
「それ以外、返事はなかったんですか?」
「はい。それが怖くなって、私は再度質問しました。すみません、違うんですか、と。すると師匠は、秘密、としか答えてくれませんでした」
「え、秘密、ですか」
「はい。私もそれ以上聞けなかったので、それで終わりです。その友人も納得できなかったみたいで、師匠に聞いてましたが、同じ答えでしたね」
結局、セレスさんの性別は謎のままということか。
どうして、秘密にしたんだろう。
ちょっとした子供の疑問だと思うのだけれど。
ショックだったのか、何か理由があったのか。
気になるけど、本人はもういないから、聞きようがない。
「変わった人ですね」
私はそう結論付けて、セレスさんの性別は気にしないことにした。
「はい。変わった人でしたよ。私は、師匠の性別は気にしないことにしました。男性だろうと女性だろうと、師匠は師匠ですから」
アイヴァンさんはそう言って、微笑んだ。
「そうですね。その方がいいかもしれません。アイヴァンさんって、セレスさんのことを尊敬しているんですね」
そうでなければ、そんな言葉が出てこないと思う。
「えぇ。召喚士としての力も凄かったですし、召喚のことだけでなく、色々教えてもらいましたから」
アイヴァンさんは、また写真に視線を移した。
その様子はまだ師匠を求めているような、寂しそうでどこか力強いような視線を感じた。
――師匠と弟子か。
親子とは違うこの関係は、私にはよく分からないけれど、なんとなくうらやましい。
もう一人の親がいるような、でも、親子より強い絆で結ばれているような、そんな関係は私にはなかった。
欲しかったような、別に欲しくなかったような、複雑に絡み合った感情を、セレスさんとアイヴァンさんの写真を見ることで整理しようとした。