第五章 神子としての生活開始
王の間を出て、しばらく歩くと、アイヴァンさんが深いため息をついた。
「はああー。なんとか無事に終わった……」
その様子は心の底から安堵しているようで、なんだかおかしくて笑ってしまった。
「あ、すいません。その、気にしないでください。ただのひとり言なので」
私の笑い声を聞いたアイヴァンさんは困ったように微笑みながら、私に言った。
「いえ、私こそ笑ってしまってすみません。――緊張していたんですか?」
私がそう答えると、アイヴァンさんは少し驚いたようにしながら返事した。
「神子様に謝っていただくことではありません。……はい。国王陛下の前に出ることも久々でしたし。神子様を召喚することも契約も、まさか私がするとは思ってなかったもので」
アイヴァンさんの話し方は身分が上の人と話すように恐縮している。
少し違和感がする話し方だが、今は別のことを聞くことにしよう。
「召喚するとは思ってなかったんですか? 他の人がする予定だったとかですか?」
召喚士はアイヴァンさん一人かと思っていたが、他にもいるのだろうか。
「あ、いえ、そうではありません。神子様を召喚できるのは私一人だけです。ただ、そうですね。色々と事情がありまして」
私の質問にアイヴァンさんは困ったように考え込んでしまった。
聞いてはいけない質問だったんだろうか。
彼が足を止めないので、私も大人しく付いていく。
「えーと、ですね。説明します。ただ、話が長くなりますので、先に用事を済ましてしまいましょう」
「用事、ですか?」
「はい。こちらです」
アイヴァンさんは足を止めて、部屋を指差した。
「とりあえず、王宮にいる間は身だしなみを整えていただきます。こちらで湯浴みをしていただき、用意する服に着替えていただきます」
そこまで言って彼は声を抑えた。
「私は気にしませんが、異世界の服装のままですと、神子様に対して、王宮ではうるさく言う方もいらっしゃいますので。すみませんが、整えていただきます」
律儀にも頭を下げて言うアイヴァンさんに、私は快くうなずいた。
「はい。分かりました。良いですよ。でも、この服を処分しないで欲しいんですけど」
「ああ。大丈夫です。中には身だしなみを整える女官達がいますので、彼女達に伝えていただければ、綺麗に洗って戻ってくると思います」
「そうですか」
私がホッとため息をついた。
「はい。あ、服をお出ししますね。少々、お待ちください」
アイヴァンさんはそう言って微笑んだが、どこから出すつもりなのだろう。
彼は巻いた魔方陣以外には、かばんらしきものすら持っていない。
魔方陣を壁に立て掛け、また両手の腕輪をぶつけた。
今度は金属音がしたが、あの神聖な空気は感じなかった。
アイヴァンさんは一度だけ鳴らした後、両手を床につけた。
そして、何やらつぶやいたかと思うと、床に魔方陣が出来て光り出した。
次の瞬間、弾けるような軽い音と煙ともに、白い服が出てきた。
どことなく宙に浮いている服をアイヴァンさんが受け取ると、魔方陣は消えた。
「え、すごい! 魔法ですか? 魔法使えるんですか!?」
私が驚きと興奮を口にすると、アイヴァンさんは優しく笑った。
「ふふ。驚きましたか? 魔法とは少し違いますね。これは召喚術です。魔力がなくても、色々なものを呼び出せるのが召喚術です。これも後で詳しく説明しますね」
「へえ。そうなんですか」
当たり前のように説明してくれるのを聞いて、やっぱり私は違う世界に来たんだなあとしみじみと思った。
「こちらに着替えてください。あ、それより先に、荷物をお預かりしますね。こちらも処分せず、大切にお預かりしますので、ご安心ください」
「あ、はい。お願いします」
アイヴァンさんが差し出してきた手に、私は肩に背負っていた通学かばんを渡した。
アイヴァンさんは片手で着替えを持ち、もう片方の手で私の荷物を受け取り、肩にかけると両手で着替えを差し出してきた。
仕草から言葉まで、恭しい。
なんだか偉い人扱いで、最初はなんだかくすぐったかったが、段々居心地の悪く感じる。
私はそんなに偉くないですよって言いたい。
いや、実際は世界を救う神子として身分は上なのだろうけれど。
見るからに年上のこの人が私に敬語を使い、動作まで丁寧だと、ただの学生だった私には、そこまでしないでくださいって言いたくなってきた。
しかも、この人、最初から優しかったし。
「どうかしました?」
服を見つめたまま固まっている私を見て、アイヴァンさんは不思議そうに声をかけてきた。
「あ、すいません。何でもないです。服、ありがとうございます」
私は慌てて服を受け取った。
彼の恭しい態度は後で言及することにしよう。
とりあえず、お風呂だ。お風呂。
「もしかして、服が気に入りませんでしたか?……申し訳ないのですが、それが神子の正装になりますので、変えられないんです。普段着の際はご要望をお聞きしますね」
「あ、いえ、違います。そうじゃないんです。服が気に入らなかったわけじゃないんです。その、ずっとアイヴァンさんが恭しい態度を私にとってくれるのが気になって」
私がそう言うと、アイヴァンさんは驚いたように目を見開いた。
「あ、別に、敬語が嫌ってわけじゃないんです。前の世界ではただの学生だったので、恭しく接してもらうのに慣れてないだけです。アイヴァンさんは私より年上なので、それで余計に気になって」
なんとなく言い訳めいた言葉が口をついた。
「その、できれば、そこまで恭しい態度ではなく、普通に接してほしいです。あと、名前を呼んでほしいです。皆に神子様と呼ばれていると自分の名前を忘れそうで」
驚いた表情で固まって話さないアイヴァンさんに、焦ってぐだぐたと私の願望を告げた。
それでも動かないアイヴァンさんに、私は謝ることにした。
「すみません。わがまま言ってしまって」
「……ああ。申し訳ありません。名前で呼ばれたのがとても久しぶりだったもので、驚いてしまって」
ようやくアイヴァンさんはハッと我に返ったように答えた。
「他の皆さんには名前呼ばれたことはないんですか? そういえば、国王には呼ばれてませんでしたね」
「ええ。どうやら名前負けしているみたいで。ひょろひょろしている私にはアイヴァンという名前は厳ついようですね。大体は召喚士と呼ばれています」
「名前負け、ですか?」
「ええ」
そう言うアイヴァンさんの顔はどこか寂しそうで悲しそうだった。
なんとなく見ていられなくて、私は口を開いた。
「えっと、私は良いと思います。格好いいと思いますよ。アイヴァンさんの名前! 名前負けなんてしてないと思います」
思い付くまま言葉にしたので、少したどたどしくなってしまった。
でも、アイヴァンさんは笑顔になってくれたので、私の気持ちは通じたと思う。
「ありがとうございます。神子様にそう言ってもらえて嬉しいです。いえ、ナナミ様に、ですね」
本当に嬉しそうに笑ったあと、アイヴァンさんはそう言い直した。
「あ、さっきのお願い聞いてくれたんですか」
「ええ。もちろん。私情で話の腰を折ってしまって申し訳ありませんでした。神子様であるのは変わらないので、敬語を使わない訳にはいきません。しかし、態度も口調も必要以上に丁寧にならないようにしますね」
「あ、お願いします」
思わず私が頭を下げると、アイヴァンさんはクスリと笑った。
「ナナミ様は、ずいぶん礼儀正しい世界で生きていたのですね」
「たぶん、国民性だと思います。日本人なので」
「ニホンジンとは、住んでいた国の名前ですか?」
「日本が国の名前で、人はその国の人という時につくんです。だから日本人は日本の人という意味です」
不思議そうに問いかけてきたアイヴァンさんに、私は丁寧に説明した。
「なるほど。ナナミ様はニホンという国に住んでいたのですね」
「はい。あ、気になるんだったら、後で話しますね」
興味深そうにうなずくアイヴァンに私がそう言うと、嬉しそうに笑った。
「そうですね。お願いします。異世界の文化を知ることなどそうそうありませんから。湯浴みが終わるまで待ってますので、ごゆっくりどうぞ」
笑顔のアイヴァンさんに見送られ、私は浴室に入っていった。
浴室に入ると、女性達が私を囲んだ。
私が持っていた着替えを取り上げ、近くにあった棚のかごに置いた。
違う女性が私のブレザーの上着を脱がし、先ほどとは違うかごに畳んで入れた。
そこまで流れるようにされたので、何も言えなかったが、シャツにまで手を伸ばされて、ようやく止めた。
「ちょっと待ってください。自分で服ぐらい脱げます。お風呂も自分で入ります!」
慌てて世話をしてくれる女官達から離れて、私はそう言ってはだけたシャツを元に戻した。
「神子様の手を煩わせる訳には参りません」
女官達がまた手を伸ばしてきたので、私は逃げながら言った。
「私の前の世界では、簡単に人に裸を見せないんです! 一人でお風呂入れますから! 出ていってください!」
思わず叫ぶと、ようやく彼女達は納得してくれたようだった。
「分かりました。では、頭だけは洗わせていただきますね。準備ができましたら、お呼びください。湯船に体を隠されたら、見ないように致しますので」
「はい。分かりました。あ、私の服は捨てずに返してほしいです」
「はい。分かりました。綺麗に洗ってお渡しします」
「よろしくお願いします」
私が頭を下げると、女官達は驚いたように言った。
「神子様が頭を下げなくても大丈夫です! 頭を上げてください!」
「あ、驚かせてしまってすみません。これも前の世界では当たり前だったので」
「神子様は礼儀正しい世界で生きてこられたのですね」
「それ、アイヴァンさんにも言われました」
クスクスと優しく笑うところも同じだと思う。
「まあ、召喚士様にも。仲良くなられたのですね」
「そうですね。アイヴァンさんは優しいですから」
意外そうに言う女官達に平然と答えると、彼女達は顔を見合わせた。
「あの、何か?」
「いえ、失礼しました。また、準備ができましたらお呼びください」
女官達は礼儀正しく、失礼しますと言って脱衣場を出ていった。
私は不思議に思って、首をかしげたが疑問が解決する訳もないので、後で機会があったらアイヴァンさんに聞くことにした。
とりあえずお風呂に入ろうと、制服を脱ぎ、お風呂に入った。
王宮のお風呂場だけあって、とても大きかった。
でも、しばらく誰も使ってなかったかのようにあちこちピカピカで、驚いた。
毎日、丁寧に掃除されているのだろうか。
体を洗い終わり、女官達を呼び、頭を洗われた。
少し恥ずかしいけれど、髪が長いと洗うのも大変なので、楽でいいとは思う。
髪が洗い終わると、女官達は私の髪が湯船に浸かないように素早く団子に纏めて出ていった。
私はしばらく広いお風呂を楽しんだ。
あまりにも広いので、泳いでしまったことは恥ずかしいので、誰にも秘密にしておく。
お風呂から上がり、丁寧に畳んで置いてあったタオルで体を拭き、アイヴァンさんから渡された服を着た。
不思議なことに、下着も用意してあり、それも上に着る白いローブもサイズぴったりだ。
靴もローファーではなく、茶色の革で出来ていた別の靴を用意されたので、それを履く。
靴もサイズぴったりだったし、柔らかくて履き心地がよかった。
彼が私の服や靴のサイズを知るはずもないと思うので、この世界の守り神が私用に用意したのだろうか。
なんだか思考が変態になった気がして、考えるのを止めた。
髪を洗い終わった時に言われていたように女官達を呼ぶと、鏡の前に座った私の髪を乾かしてくれた。
しかし、この世界にはドライヤーなどないようで、タオルでしっかりと拭いた後、瑠璃色の石のような道具を取り出した。
女官達が何やらつぶやくと、私の髪から蒸気が上がった。
それだけで私の髪は乾いたようで、彼女らは長い髪を整えるべく、ブラシで髪をとき始めた。
女官達は平然としているが、私は驚いて瑠璃色の石を見つめた。
魔法のアイテムみたいなものだろうか。
私がそれを呆然と見つめている間に、女官達は髪を整い終えたようで私の長い髪は三つ編みになっていた。
三つ編みとはとても久しぶりだ。
子供の頃、しかも、小学校低学年で母にしてもらって以来だ。
大体は母も面倒なのか、ひとつくくりで、たまにポニーテールになるくらいだった。
歳が上がり、私が髪をくくるようになってからは三つ編みなんてしたことがない。
友達の由衣は時々私の髪で遊んでいたけど。
「神子様、準備ができました。召喚士様がお待ちですので、外に出ましょうか」
「あ、はい」
女官達は満足そうに鏡の中の私を見て、にっこりと微笑んだ。
彼女達に促され、外に出るとアイヴァンさんが荷物を持って待っていた。
「お待たせしました」
「いえいえ。大丈夫ですよ。……よくお似合いです」
私の格好を眺めると、アイヴァンさんは優しく微笑んだ。
「あ、ありがとうございます」
なんとなく照れてしまった私は、顔を反らした。
「では、準備も整いましたし。お部屋に案内しますね」
「あ、はい。……ありがとうございました」
私は振り返って世話をしてくれた女官達にお礼を言った。
「いえいえ。神子様のお世話が私達の仕事ですので」
少し驚いたようだけど、女官達は優しく微笑んでくれた。
私はアイヴァンに連れられて、これからの自分の部屋へと向かった。