第7章
薄闇の中、ラカムは後頭部に残る鈍痛を感じながら目を覚ました。
「いたたた……」
ラカムは後頭部をさすりながら、自分が置かれている状況を確認する。武器である槍はなく、エレメントの入った革の巾着袋もない。だが、ここは天国でも地獄でもなさそうである。思わず安堵の息をもらす。しかし、檻の中に入れられていては両手を上げて喜んでもいられない。
「この檻は何なの? かなり大きいけど」
大人が優に二十人くらいは寝転がれる広さがある。
「そういえば、さっきの男の子は?」
端の方に倒れている少年を見つける。おそらく彼はキイマの息子のはずである。なぜこんな檻の中に入れられていたのだろうか。しかも、衰弱しているようにも見えたが。
「キミ、大丈夫?」
ラカムは少年を抱き起こす。ゆっくりと開いた翡翠色の双眸には生気が感じられなかった。
「あなたは?」
「話は後。とにかくここから逃げることを考えよ」
格子に手をかけると、ざらっとした感触がした。おそらく錆だろう。かなり古いもののようだ。脱出しようとして檻をガタガタと揺すると、ぎぎぃと軋んだ音を立てるが、破壊できそうにはなかった。
「こんな所でモタモタしていたら、あいつにまた先越されちゃうじゃないの!」
ラカムはかかとで格子を蹴破ろうとしたが、素足だったことに気付いて諦念する。
「あー、もうわたしのバカ! 何でブーツを脱いだりしたのよ!」
自責の念にかられ、叫び散らす。
「騒がしいお嬢さんだこと。もう少し寝ていてくれた方が良かったわね」
薄闇に目が慣れた頃、キイマが近くで佇んでいたのが見えた。
「キイマさん、これってどういうことですか?」
「すいぶんと鈍いハンターさんね」
キイマは双眸を細めると、まるで小鳥がさえずるような可愛らしい声で笑った。
が、次の瞬間。カッと目を見開き、口角が大きく裂けて鋭い門歯が剥き出しになる。そして、全身の表面が爬虫類のように角質化した鱗で覆われていく。
魔苦骸を目の当たりにしたラカムは体を硬直させる。
「キイマさんが……魔苦骸? 人間に化けていたなんて……許せない!」
「勘違いしてもらっては困るわ。さっきのはわたしが人間だった時の姿よ。あの姿にだまされて何人もの男がわたしの餌食になったけどね」
「!」
ファルグの言葉がラカムの脳裏によみがえる。
「うそ言わないで!!」
「あなた、ハンターなのにそんなことも知らないの? そういえば、何も知らずにわたしに食べられた愚かなハンターもいたわね」
キイマはせせら笑う。
「まさかゼニキタの息子も殺したの?」
「オリーならそこにいるわよ」
キイマはラカムの背後に立っている少年を指差した。
「え?」
「本当に鈍い子ね。オリーはゼニキタとわたしの息子なのよ」
「えっ? えぇぇぇぇぇーっ?」
ラカムは場違いな素っ頓狂な声を上げた。何もかもが信じがたい事実だった。
「ゼニキタは領主の娘だったわたしに言葉巧みに言い寄り婿養子となった。それから数年後、父が死に領主となったあの男は本性を現した。租税を重くし、払えない島民からは娘を差し出させた。この家はゼニキタが女たちを囲うために作ったもの。そして、その檻は娘たちを閉じ込めておくためのものだった」
「……」
想像しただけで虫唾が走った。
「父が愛したヒチハの島民から笑顔を奪い、権力という欲に目が眩んだゼニキタが許せなかった! そして、自分の息子すらも出世の道具に使おうとしたあの男が!」
キイマは憎しみのこもった声で吐き出す。
憎悪や嫉妬といった負の感情が人間を魔苦骸に変えてしまうと言ったファルグの言葉が重くのしかかる。
「それが魔苦骸になった理由? だからって罪のない女の人たちまで殺すことはなかったんじゃ」
「勘違いしないで。女たちは殺してはいないわ。オリーが全員逃がしたわよ。でも、女を食い物にしようとする男たちは許せない! だから、わたしの容姿にだまされた男どもは皆殺してやった」
「ならば、なぜ最初にゼニキタを殺そうとしなかったの?」
「!」
キイマは一瞬言葉を失い、細長い舌をちらりと出す。
「あなた、ゼニキタに雇われてオリーを連れ戻し来たんでしょう? 選択させてあげる。わたしに殺されるか、それとも命乞いをして下山するか。さあ、どちらにする?」
「どっちも嫌! あなたを倒して報酬を手に入れなきゃ、ヴィルを探しに行けないのよ!」
「あなたも金の亡者なのね」
「世の中、愛があれば生きていける……なんてキレイ事は言わない! お金も必要なのよ!」
ラカムはきっぱりと言い切った。
「オリーの頼みだから生かしてあげているけど、あの男への見せしめとしてあなたを殺して、その無残な遺体を領主の館へ送り届けてやろうかしら」
「お母様、もうこんなことは止めましょう」
オリーが涙を流しながら懇願する。キイマが魔苦骸になってから、ずっと止め続けてきたのだろう。となると、オリーは魔苦骸に拉致されたのではなく、母親を説得するためにここに留まっていたということになる。ゼニキタは自分にとって都合の悪いことはすべて伏せていたのだろう。
「ダメよ! わたしはあの男には死以上の苦しみを与えてやらなければ気が済まないのよ!」
「そんなこと思っちゃダメ! 人を憎むことばかり考えていたらもう人間に戻れなくなる!」
誰かがラカムの頭の中に訴えかけてきた。これ以上、罪を重ねさせてはいけない、と。
「キイマさん、あなたはいつから魔苦骸になったんですか? 最近、人間の姿に戻りにくくなってないですか?」
「どうしてそれを……」
キイマは驚愕の表情を浮かべる。
ラカム自身、それを説明することはできなかった。しかし、確信はあった。このままだとキイマは人の姿に戻れず、理性を失い、本物の魔苦骸と化してしまう。そうなれば、誰彼なしに人間を襲うだろう。
(なぜわたしはこんなことを知っているの? 魔苦骸が人間だったことすら知らなかったのに……)
「お母様っ!」
ラカムが黙考していると、オリーが悲鳴に近い声を上げた。
キイマが頭を抱えて苦しみ悶えていた。
「オリー、なるべく檻の端っこに逃げて!」
苦痛から逃れるためなのか、キイマが鋭く伸びた爪を振り払うと、鉄製の格子がいともあっさりと切り落とされる。奇声を上げ、口角から唾液を垂らす。すでに人であった時の面影はまったく感じられない。
ラカムはすばやく檻から脱出すると、キイマに体当たりする。
「オリー、今のうちに早く逃げて!」
「でも、あなたが」
「キイマさんは理性を失いかけている。そうなれば、近くにいる人間は息子だろうと食い殺すわ! わたしのことはいいから。早く逃げて! これ以上、お母さんに罪を重ねさせたくはないでしょう!」
「わ、わかりました」
オリーは渋々承知すると、何度も後ろを振り返りながら走っていった。
「檻からは出られたけど。どうすれば……」
ラカムは足元に転がってきた格子の一本を手に取った。錆びた鉄の棒がキイマの爪を防ぐことができないのは実証済みだが、何もないよりはマシである。
正気を失ったキイマの双眸がぎらりとラカムを見据える。獲物を見つけた魔苦骸は、ためらうことなく一気に襲いかかってくる。
鉄棒はキイマの爪によって切り刻まれ、ラカムはまるで獰猛な野獣に押し倒されるように床に背中をしたたかに打ちつけた。
「くっ」
必死にもがくラカムに、キイマが牙をむく。
が。
「た……すけ……て……」
その口から絞り出すようなか細い声が聞こえた。
刹那、ラカムの脳裏に自分とよく似た少女の顔が浮かんだ。
(お姉ちゃん!)
物心ついた時には、もう両親はいなかった。いつもそばにいたのは、七歳年上の姉だけだった。姉は妹を守るために必死で働いた。しかし、貧困が姉の心を蝕んでいった。そして、社会への不満を募らせた姉は魔苦骸へと変貌していった。
理性を失いつつ、姉は叫んだ。
「ラカム、お姉ちゃんを殺しなさい! でないと、あんたが死ぬことになるのよ! お願い。お姉ちゃんのこと救えるのはあんただけなの。だから、早く!」
ラカムは二度と人に戻ることができなくなった姉を殺した。