第3章
「気持ち悪い……」
ラカムは宿屋のベッドに体を沈めて、低く唸った。
箱馬車に揺られること一時間。めまいと吐き気に襲われた。
馬車酔いである。
先を急ぐ旅であるにもかかわらず、仕方なく昼食も兼ねて宿屋で休憩を取ることになったのだった。
「お前、もしかして馬車に乗ったのは初めてか?」
ファルグの問いに、ラカムは一瞬体を硬直させた。それを肯定と取ったファルグは頭をポリポリかくと、小さなため息を吐き出した。
「あの箱馬車は幌馬車とは比べ物にならないくらい最高の乗り心地だってのに。まったく、今までどうやって旅してきたんだ?」
「……きた」
「は?」
「歩いてきた……」
消え入りそうなか細い声でラカムが呟く。
「確かヴィルディアーノはドニエに住んでいたと思ったが」
ドニエはザッジュノ大陸の最北端にある小さな村だ。そこからコーバ王国に行くとなると幌馬車を乗り継いでも一週間はかかる。そんな距離をラカムは自分の足だけで旅してきたということになる。
剣を振るうには細すぎるラカムの両腕を見ながら、こんな小さな少女の体のどこにそんな力があるというのだろうかと、ファルグは感服する。それだけヴィルディアーノへの想いが強いということだろう。
(奴にはもったいないな)
ヴィルディアーノの人格を知っているだけに、ファルグはラカムに同情せずにはいられなかった。
「しばらくここで休んでろ」
ファルグが部屋を出て行こうとすると、上着の裾を引っ張られた。
「行かないで……」
「男は野獣じゃなかったのか?」
「こんなの初めてで……一人は怖い」
ラカムにはファルグの皮肉を返す元気も残っていなかった。馬車酔いとはいえ初めて味わう得体の知れない奇妙な感覚に襲われたことが不安でたまらないのだろう。
ファルグは裾を握りしめたラカムの手をゆっくりとほどくと、大きな手で包み込んだ。
「薬を買ってくるだけだ。すぐ戻ってくる」
そう言って、部屋を出た。
「気分爽快!」
ラカムは空と海の境界がない真っ青な光景を眺めながら、白い砂浜の上で大きく背伸びをした。その表情は晴々としていた。
ファルグが買ってきてくれた薬を飲んで、しばらく仮眠すると、酔いがうそのように消し飛んでいた。それからは馬車に酔うことはなく、旅は順調に進み、ヒチハ島に無事上陸した一行だった。
初めて訪れる南国の島に興奮を押さえることができなかったラカムは、箱馬車を停めてもらい、浜辺に下りて南の空気を全身に浴びていた。見たこともない植物や木々が、ラカムの双眸に艶やかな色を添えていた。
ラカムを半眼で見つめるファルグ。そんな痛い視線に気付いたラカムは、バツが悪そうに咳払いをして引きつった笑みを返した。
「あの薬よく効くのね。おかげですっかり元気になっちゃった」
「何が元気になっちゃった、だ。この世の終わりみたいな顔していたくせに」
「しょうがないでしょ! 寝込むような病気をしたのは初めてだったんだから!」
威勢よく反論してくるラカムに、ファルグはやれやれと肩とすくめた。
「眠っていた時の方が静かで可愛かったな」
「!」
その言葉で、ラカムは一瞬にして押し黙る。
心細かったラカムは寝ている時、ずっとファルグの手を握っていたのだった。
(なぜわたしはこんな男に……)
思い出すと羞恥心から顔がかーっと熱くなる。それはヒチハ島の陽気な気候のせいでないことは確かだった。できることなら、四日前に戻って愚かな行為を犯してしまった自分を叱責したかった。
「あのそろそろ出発したいのですが」
後ろの方から遠慮がちにイーズが言ってくる。これ幸いと言わんばかりにラカムはさっさと箱馬車に戻った。
「ねえ、イーズ。さっきから気になっていたんだけど、この島に来てから見かけるのは観光客ばかりのような気がするんだけど」
「そ、それは魔苦骸を恐れてみな外に出たがらないのですよ」
奥歯に物が挟まったような言い方に不審を抱くが、ラカムはあえて追求しなかった。
観光物産などを販売している繁華街を通り抜けて、箱馬車は石造りの塀に囲まれた白亜の館がある敷地内へと入っていった。
すると、待ちわびていたかのようにエントランスの扉が勢いよく開き、小太りで頭皮の薄い中年男性が転がるように飛び出してきた。
「待っていたぞ、剣輝のファルグ!」
男性は切羽詰まった形相で、箱馬車から下りたファルグの手を握りしめた。十本の指にはめられた指輪がいやらしいまでに豪華な輝きを放っている。生地は高級素材のようだが、南国をイメージしたカラフルなデザインのシャツは、浅黒く脂ぎった丸い顔には正直似合っているとは思えなかった。
生理的に合わない。
ラカムはそう直感した。
「ご無沙汰しております、ゼニキタ様。私のような若輩者にまたお声をかけていただき、光栄の極みです」
ファルグは愛想笑いで、大人の対応をしてみせた。
「今はあいさつなどどうでもいい。すぐに仕事にかかってくれ!」
「確かご子息が魔苦骸にさらわれたと聞きましたが」
「そうだ。早く息子を、オリーを助けてくれ!」
ゼニキタは懇願するような悲鳴を上げた。