六
六
ジェドルが村に戻り、少年に名前を送った日から、三日が過ぎようとしていた。
ビスラとサーナは未だ戻らず、一部屋分の宿泊費を支払う資金すら底を突いてきたこともあり、ルヤは頼み込んで宿で賄いの仕事をさせてもらうことにした。ジェドルはあの発作後、特に変わった様子もなく落ち着いているが、記憶についてはあれからルヤも深く聞き出そうとするような会話は避けている為、彼の中で今、あの日のことがどういう状態で受け止められているのか、推し量る程度にしかわからなかった。せめて、三人を襲ったのが退治を依頼された獣なのか、それとも別の得体の知れない何かだったのか、それだけでもわかれば、村を防衛する手も打てるのだが、彼の様子を外から見ている印象としては、思い出したような気配も、その兆候も感じられなかった。
名付けた日の翌日には、ラタンのことをジェドルにも紹介した。初めジェドルはラタンを見て、放心したような妙な顔をしていた。どうかしたのかと尋ねると、彼は首を傾げた後、多分この子供の外見が珍しかったのと、こんな幼い子供が記憶喪失だということに驚いたんだと思う、と、よくわからない、曖昧な答えを返してきた。だが、それ以後は特に変わった様子もなく、三人は宿の中で顔を合わせると立ち話をするような間柄になった。尤も、ジェドルは傷が塞がっているとはいえ、激しく動いたりすればいつまた開いてもおかしくない段階であり、油断はできないと後から聞かされた為、部屋からほとんど出られない生活だったが。
昼食の後片付けが終わり、女将から数時間の休憩と昼食のついでに焼いたというハニーパイを貰って、ルヤはラタンの部屋に向かった。あの日から、ラタンは寝苦しいとぼやきながらもルヤの言い付け通り部屋で眠るようになっていた。
今の時間だと恐らく昼寝をしているだろうが、この機を逃せばラタンの保護者探しは更に延期されてしまう。本当はジェドルが帰ってきた翌日にでも探しに行こうと思っていたのだが、思った以上に厳しかった賄いの仕事を朝から晩まで叩き込まれていて、この三日間はまとまった時間がとれなかった。漸く空いた夕食の準備が始まるまでの貴重な時間を一瞬でも無駄にするまいと、ルヤはノックしても返事のないラタンの部屋に乗り込み、案の定ベッドの上で眠り込んでいる彼を叩き起こした。
「ラタン、起きて! 余り時間がないの! あなたを連れてこの村に来た人、きっと今頃心配してるよ」
突然安眠を妨害されて不機嫌そうなラタンに、ハニーパイを与え、強引に手を引いて、ジェドルに外出の旨を伝えると、宿を出た。
ラタンのペースに付き合っていたら、休憩時間などすぐに終わってしまう。まだ半分寝ているラタンに活を入れながら、村にある家という家、道行く人という人に、彼を見掛けたことはないか、この村に彼を連れてきた人間について何か少しでも知らないかと、村中を尋ねて歩いた。
コロイにはせいぜい三十数軒しか家がなかったが、話好きの村人達に捕まって一軒一軒に時間が掛かってしまい、半分も回れないうちに休憩時間もあと僅かという頃合いが近付いてきてしまった。これまで聞き込んだ限りでは、ラタンの保護者どころか、彼本人に見覚えがあるという者にさえ出会うことが出来ず、手掛かりは無いままだった。
「悔しいなあ、もう少し時間があれば見付けられるかもしれないのに……あっ、ねえ今の人、違うかな?」
村で一番賑わっている通りを行き交う人々の中にそれらしき年齢の人物を見掛ける度、振り返っては追い掛けようとするルヤを見兼ねて、ラタンが服の裾を引っ張る。
「もう、帰らないと……」
「……でも、今の人、ラタンのお父さんかもしれない……今を逃したら、二度と会えなくなるかもしれないんだよ?」
真剣な眼差しで、必死に、正面から訴えかけてくるルヤを、ラタンは呆気にとられたように眺めて、溜息を吐いた。
「今のが親なら、どうして、何も言わずに通り過ぎるの……」
「あ……そうか、そうだね……でも待って、たまたまこっちに気付かなかったってことも考えられるよ」
いてもたってもいられないといった様子で人込みに紛れて見えなくなってしまった人間を再び探しに走ろうとするルヤを、ラタンは今度は強く手を引いて止めた。
「……あなた、少し、休んだ方がいい」
「何言ってるの? 商人や放浪者は一つの村にそんなに長居しないんだから、早く見付けないと出て行っちゃうよ? 会えなくなっちゃうんだよ?」
「置いていくような人間なら、別に会えなくても構わない。それに、僕を連れてきた、人……多分ここには、いない」
「覚えてないのに、どうしてそんなこと言えるの? もしいないなら、ラタンあなた、どうやってこの村に来たって言うの? この村は四方を荒野に囲まれてて、あなたの足じゃ少なくとも五日は歩かないと人の住めるところまで行けないんだよ? お父さんとお母さんを見付けなきゃ、あなた、これからどうやって生きていくの?」
捲し立てるうちに何故か語調が荒くなり、まるで八つ当たりのような調子になっていることに、泣きたくもないのに視界が鈍い熱に滲んでいることに気付き、ルヤは高ぶる感情を抑え込むように「ごめん」と口元に手を当てた。
「どうしたんだろう、ごめんね、私……こんな風に言うつもりじゃなかった……ただ、会えなくてもいいなんて言ったら絶対に駄目……思い出した時、後悔するよ……きっとラタンにとって、誰よりも大切な人なんだから……」
ラタンはその言葉に耳を傾けながら、握った手に目を落とした。
「このままでは、あなた……壊れてしまう」
意表を突いたその言葉に、咄嗟に反応できずにいるルヤに、ラタンは顔を見上げて、もう一度繰り返す。
「あなたの待ってる人、まだ帰らない……そんなに我慢して、元気にしてると……あなた、壊れてしまうよ」
漸くラタンの言わんとしていることを悟り、それによって初めて、ルヤは思っていた以上に自分の心が強張っていることを自覚することになった。確かに、自分はビスラとサーナが帰ってこないという事実から目を逸らそうと、無理に気分を上向けようとしている節があった。日が経てば経つほど、希望は、その何倍もの大きさの絶望に追い詰められていく。朝起きる度、二人がいないこと、現実的に考えれば考えるほど、彼らが生きている可能性が低いことを強く実感させられて、胸が押し潰されそうになった。賄いの仕事に打ち込んでいる間も、厳しいと感じることはあっても、辛いと思わなかったのは、二人のことを考えている方が余程辛いということに気付いていたからかもしれない。空いた時間にこうして一心不乱に何かに取り組もうとするのも、ビスラとサーナのことを思い出す隙を作らない為でもあったのだ。
その、自分自身でもはっきりと意識していなかった思考と行動を、他人に興味を示そうとしないこの少年が見抜いていたことに、そしてどうやら彼なりに心配してくれているらしいことに驚いたのと同時に、その気持ちが胸に染みた。こんなにも辛く寂しい日々の中にいても、自分は独りではないのだと、そう、思うことができた。
「ありがとう、ラタン……確かに、私は二人のこと考えないようにしてる……別のことで頭をいっぱいにしようとしてる……このまま逃げてたら、あなたの言う通り、いつか壊れてしまうのかもしれない……でもね、きっと、じっとして、そのことばかり考えていたとしても、私は、壊れてしまいそうな気がするの、自分でもどうしようもないんだ……」
ルヤは、今の気持ちを包み隠さず、この、自分より随分年下の少年に伝えて聞かせた。きっとこの少年には、都合の良い綺麗事や誤魔化しは通用しないだろうと思えたし、ルヤ自身もまた、何事にも真っ直ぐに臨む姿勢を崩すことを知らないラタンに、嘘はつきたくなかった。
その上で、ルヤの言葉を聞いて僅かに表情を曇らせているラタンに、
「でもね、ラタン、あなたが心配してくれてる、それだけで、今私は少し楽になったよ……壊れなくてすみそうだよ……ありがとう」
そう、笑い掛けて見せる。
この時、ほんの微かに、ルヤに応えるように、ラタンが、微笑んだように見えた。
ルヤが目を丸くすると、すぐに引っ込めたが、それは確かに、初めて見る少年の笑顔だった。
「明日も、探そうね……ラタンの、お父さんと、お母さん」
さっさと行ってしまおうとするラタンの横に追いついて、ルヤはしっかりと手を繋いだ。
宿へ戻る道すがら、反応の薄いラタンにあれこれと他愛もない話題を振りながら暫く歩いていた頃だった。不意に、背後の喧噪がこれまでの和気藹々とした賑わいから、不穏なざわめきのようなものに変わったのを感じて振り返ると、村人や、商人達、多くの人々がまるで何かに怯え、逃げ惑っているかのように、通りから散り散りになって駆けていくのが目に入った。
「何かあったんですか?」
丁度横を走り抜けようとしていた者の一人に声を掛けると、顔を引きつらせた中年の女が何度も後ろを振り向きながら、
「でっかい、化け物みたいなスナヒョウが東門のすぐ側をうろついてるって! 村に入って来そうだってさ!」
そう、裏返った早口で言うが早いか、もんどりうって家屋の並びに消えていった。
スナヒョウ――大きく跳ね上がった鼓動を聞きながら、ルヤは再び、今まで歩いてきた通りに視線を向けた。
耳の奥で脈打つ音が、徐々に速度を増していく。
それは、村で退治を依頼されたのと同じスナヒョウだろうか。そして、ジェドルを、ビスラと、サーナを襲ったのも、そのスナヒョウなのだろうか。現時点でははっきりとしたことは分からない、だが、今目の前で繰り広げられている状況を見ていると、他のどの推測よりも現実味を帯びているように感じられた。
ラタンが不思議そうに自分を見上げていることに気を配る余裕さえなく、ルヤは一言「宿に帰っていて」と彼に告げると、考えるよりも先に東門を目指して恐怖と混乱渦巻く雑踏の中を突き抜けるように走り出していた。
息を切らせて門に辿り着くと、客引きの呼び声が響き渡っていた先程までの賑やかさが嘘のように、誰もが逃げ去った後の不気味な静けさが低く唸る風の声を際立たせていた。
擦れ違う多くの放浪者らしき屈強な男達から、あれはあんたには無理だ、行くのはやめておけと何度も引き留められたが、ルヤの耳には入らなかった。途中、満足な武器を持っていないことを思い出し、店仕舞いしようとしていた武器商人から後払いでと強引に拝借してきた細身の剣を鞘から抜き放つ。
ずしりと手に馴染まない重みがあった。
実戦では、必ず扱い慣れた剣を使え。
遠い日のビスラの言葉が過ぎったのは、一瞬だった。
例え、扱い慣れていない武器であったとしても、その為に何倍も不利になったとしても、刺し違えてでも相手の息の根を止められる獲物さえあれば、それで十分だ。その覚悟を確認するように青銅の柄を固く握り締める。
息を殺し、周囲を窺っていると、不意に右手から地響きのような低い唸り声。はっとして振り向くと、目を血走らせた巨大な金色が足音を殺してすぐ傍まで迫っていた。狩猟本能を剥き出しにし、流れるようにしなやかな動きで飛び掛かってくる、体長が大人の男の背丈以上はあろうかというスナヒョウの爪を紙一重で後ろに飛んでかわす。着地し、食い入るような視線を相手から離さないまま、体勢を崩すことなく剣を構え直すルヤと、素早く身を翻して低い姿勢を取り威嚇の唸りを上げる黒い斑点模様の猛獣とは、対峙し、睨み合う格好となった。
大きい。これまで何度か目にしてきたスナヒョウと呼ばれていたものと、本当に同じ種なのかと疑うほどに、眼前にいる生物は見たこともないほどに巨大で、凶暴性までその体格に呼応しているかのようだった。
ジェドルが瀕死の重傷を負い、記憶を失ったのも、ビスラと、サーナが未だ帰らないのも、元凶はこの野獣なのだろうか。この爪が、牙が、唸り声が、やっと手に入れた掛け替えのないたくさんのものをバラバラに引き裂いたのだろうか。
「ビスラとサーナは、どこ……?」
恐怖より、怒りと、憎しみの方が勝っていることを幸運に思った。
「どこにやったの?」
音が鳴るほど歯を食い縛って、ルヤは今まさに飛び掛かってこようとする相手の額一点を狙い、体ごと、渾身の力で剣を突き出した。
硬いものに激しくぶつかる手応え。
捉えた、と、心の中で確信した。
だが――
敵の額を突き破ったと信じて疑わなかった切っ先は僅かに反れて、スナヒョウの耳を削ぎ落としていた。剣の特性の微妙な差異が、命運を分ける壁になる。真剣なビスラの顔が瞬きの間に浮かび、逆上した敵が勢い良く振り下ろしてきた前足への反応が一瞬遅れる。しまった、と舌打ちして身体をひねろうとした瞬間、その鋭く巨大な爪がルヤの左腕を深く切り裂いていた。
相手の目を睨みながら、一歩、二歩と距離を取る。剣を構えようとするが、利き腕をやられ、痛みで上手く力が入らない。そうこうしているうちに、耳を削がれて怒り狂い、血の臭いに興奮して更に獰猛さを増した金色の猛獣が、息つく間も与えず距離を詰めてくる。こちらも相手に攻撃の隙を与えまいと緩急を付けた動きで何とか牽制しているが、このままでは再度の接触は避けられないだろう。そうなれば、明らかに動きが鈍っている今の状態では敵の攻撃を一度は避けられたとしても、連続して至近距離から繰り出されるであろう次の一撃には無防備になってしまう。
手の届く距離から、身体を低くし、相手の喉笛に食らいつく機会を狙っている敵の額を凝視しながら、これが最後のチャンスだと、頭の奥で誰かが囁くのが聞こえた。
相手が砂を蹴るのと同時に、踏み出し、迎え撃つ。
力任せに額を狙ったはずの剣はしかし、気迫だけが先走ったものだった。
大きく的を外して胸の白い体毛の上を滑っていく剣と擦れ違うようにして飛び付いてきた猛獣の想像以上の体重に為す術もなく押し倒され、手から離れた剣が地面に転がる。
鋭い牙が鼻先まで迫って、死を、覚悟した。
目を固く閉じ、唇を噛んで、その瞬間を待つ。
だが、すぐに訪れるはずだった死が訪れないことに、自分の上に伸し掛かっていた重みがいつの間にか消えていることに気付き、無傷の右腕を支えに半身を起こして視線を地面に沿わせた。すると、今まさに足をばたつかせて起きあがろうとする右耳のないスナヒョウと自分との間に、白い布を服の裾からはみ出させて立った男が、背を向けたまま何かを怒鳴っていた。
「何やってんだ、このバカッ!」
それは、まだ、部屋から出ることを禁止されているはずのジェドルだった。どうやら、ルヤを組み伏せていたスナヒョウに体当たりを食らわせ引き剥がしたようで、肩の辺りを軽くはたきながら野獣と睨み合い、口だけを動かしている。
「お前一人でこんなのとやれる訳ないだろうが! 今すぐ村の奥に走れ! 俺も後から行く」
舌打ちをしながらそう叫ぶジェドルの格好を見て、ルヤはぞっとした。彼は手ぶらだった。短剣一つ持っていない。
「ジェドル! あなた、武器……!」
強張った声を上げながら、三日前傷だらけで戻った時、彼が愛用の剣を持ち帰って来なかったことを思い出す。何故かと尋ねた自分に、旅先でなくしてしまったようだと話していた。よく見れば、防具の類も何一つ身に付けておらず、薄手の布の服一枚であることに気付く。取るものも取り敢えず、周囲の制止を振り切ってここまで来たのであろうことが窺えた。
「いいから早く行け! 俺なら素手でも何とかなる、お前がいると足手まといなんだよ!」
嘘だ。何年も共に旅するルヤにはそれが嘘だとすぐにわかった。彼は剣術こそ人並み以上にできるが、格闘は不得手なのだ。ビスラに習得しておいた方がいいと勧められて基礎だけは身に付けたようだが、それ以上の訓練からは逃げ回ってばかりだった。しかもあの怪我が完治していない身体で、ここ数日は鍛錬もしていない。本調子の時でさえ彼一人では難しそうな相手に、素手で立ち向かうなど無謀に過ぎることは明らかだった。
「嫌だ! ジェドルが死んじゃう! 死んじゃうよ!」
今、自分が逃げ延びたとしても、残されたジェドルがただで済むはずがない。彼が一人でこの化け物と格闘する様を想像して、戦いの最中にはなかった震えが全身に湧き上がった。
「後から行くって言ってんだろうが! お前が行かないと俺も逃げられねえんだよ! どうでもいいからさっさと行け!」
「嫌だ!」
ジェドルは本気で逃げるつもりなどない、恐らく、逃げられないだろうことを覚悟している。それなのに、そんな風に自分を安心させる為に、いつもの調子で憎まれ口を叩くのだ。
と、その瞬間、こちらに気を取られているジェドルの隙をついて、死角から襲いかかろうとするスナヒョウの姿が視界に飛び込み、「後ろ!」と、悲鳴混じりの声をあげる。
その声に反応し、咄嗟に横に飛び退こうとするジェドルの動きはやはり普段とは比べものにならないほど鈍いものだった。避けきれずに飛び付かれて肩を牙に捕らえられたジェドルは短く呻き、痛みに耐えながら必死に地面に足を食らいつかせて敵の頭を掴み引き剥がそうとする。しかし、その、自分の身長以上はあろうかという体躯を支えきれず、ふらつき始める足下は、力尽きて倒れるのが時間の問題であることを物語っていた。
彼の思いと行動を無駄にしない為にも、この場は退くべきなのかもしれない、それが自分の目指すべき、一人前の、判断力のある大人の選択なのかもしれない。それを頭では理解しながら、ルヤは、もうひとつの選択肢に手を伸ばす自分を迷わず解き放った。
冷え切った唇を噛みしめて、駆け出す。
地面に落ちた剣を拾い、ただ、ジェドルの命が消えることだけを怖れて。
彼の死と引き替えに生き延びることができたとしても、その先にいる自分を想像できない。彼らのいない明日が想像できない。ジェドルのいる、みんなのいる未来に向かいたかった。例え辿り着けず、命尽きることになっても。
「何やってんだ! 早く逃げろ!」
肩にかじり付かれたまま、険しい顔で怒声をあげるジェドルに、今度は揺るぎない瞳で叫び返す。
「私は逃げない、あなたが先に逃げて!」
腕の激痛に構わず顔面目掛けて剣を突き出すと、案の定スナヒョウは一旦ジェドルから離れ、すぐに再び飛び掛かろうと低い姿勢を取る。こちらに一切の余裕を与えようとはしない。
「ここで二人とも無駄死にする気か!」
「無駄死にしたくなかったらあなたが逃げてジェドル……私には、できない」
「馬鹿言ってんじゃねえ! 俺が、何の為にここまで戻ってきたと思ってんだよ」
「我が儘言って、ごめん……でも、これが私の答えなの」
目をぎらつかせて、どちらに飛び掛かるべきか迷っているかのような仕草のスナヒョウに一歩近付き、血の伝う剣を構えながら、ルヤの胸にもう葛藤はなかった。後は冷静な判断力を持ったジェドルが、諦めてこの場を離れるのを待てばいい。
「……お前を一人にしたくねえからだろうが」
食い縛った歯から絞り出すような、悲痛な呻き。
「お前が死んだら、意味ねえだろうが……!」
ジェドルが動こうとしない。どんなときも感情に流されることなく、理に適った最善の策しかとろうとしないはずの彼が。
猛獣は、体の小さな、容易に噛み殺せそうな方を標的に決めたようだった。
「今のうちに逃げて! お願い!」
声を張り上げながら、これが、自分の発する最後の言葉になるかもしれないと思った。腕から滴る血で汚れた剣の柄を、身体中に残った力を全て集めて握り締め、踏み出す刹那を見計らう獣の目を睨み返す。その目が、狂気さえ宿しているように見えた金色に輝く体が、この時、何の前触れも無く眩い光の中に消えたのを、確かに視覚しながら、思考が捉えたのは少し遅れて鳴り響いた轟音が耳を劈いた後だった。
後ろからジェドルに強く手を引かれ、顔を上げる間もなく爆風から庇うように抱きかかえられる。そのまま、肩越しに見える暴れ狂うような強烈な光の渦を、徐々に弱まり静かに消えていくまで、息をするのも忘れて凝視していた。だが、それでも、入ってくる映像が一体何なのか、何が起こっているのか、わからなかった。
埃か、煙か、舞い上がる粉塵が漸く晴れて、ジェドルの腕から解放されても立ち尽くしていたルヤは、少し離れた地面の上に黒い塊のようなものを見付けてゆっくりと近付いた。見ると、足下に転がったそれは、たった今、その巨体と凶暴性で自分たちを追い詰め、命を脅かしていた、右耳の無いスナヒョウの、見る影もなく炭化した姿だった。
少し遅れて隣に歩いてきたジェドルも、その焼け焦げた肉塊を見下ろして、瞬き一つせず動かない。
一体何がどうなれば、この状況が生まれるのか。
自分が刺し違える覚悟で臨んだ猛獣は、背後からなだれ込んできた閃光と爆音に呑み込まれ、殺気もろとも灰となって、今、ここに散らばっている。あの光が、不死身の化け物にすら見えたスナヒョウをこんな姿に変えたのだろうか。だとすれば、それはどこから、どんな理由で。漸くそこまで思考が追い付いて、光が押し寄せてきたように思える方角に目をやったルヤは、煙った景色の中で見え隠れする黒い人影に視線を奪われた。
周囲の景色から浮かび上がるような漆黒の、けれど小さな人影。その頼りない姿には、確かに見覚えがあった。
「……ラタン?」
棒立ちでこちらを眺める、無表情を体現しているような彼を見詰めて、名前を呼ぶ。気味が悪いほどの静けさに満ちた、この村の入り口から四方を見渡してみても、他には誰も見当たらなかった。
喉の奥が乾いてしまうほどの時を要して、開いた口から漸く次の言葉を発する。
「今の、あなたが……?」
おかしいくらい一本調子な声で尋ねると、暫くぼんやりこちらを見返していた少年は、相変わらず感情が読みとれない表情で自分の両手を眺めてから、顔を上げ、頷いたようにも首を振ったようにも見える、曖昧な反応を浮かべるのだった。