四
四
部屋の中に響き渡る、無機質な雨音。
ルヤは自室の寝台に腰掛け、無言のまま、卓の上のランプに呆けた視線を送っていた。
泣きもせず、喚きもせず。
ただ、何度も、同じ言葉を頭の中で繰り返す。
ビスラと、サーナが、死んだ。
刃のように重く鋭いはずのその言葉。悲しいはずなのに、辛いはずなのに、ルヤにはどうしても、それを、実感として捉えることが出来なかった。
不意に頭の中を過ぎる、ビスラの穏やかな笑顔、サーナの声をあげて笑う明るい仕草。
もう、どこにもいないなんて。
まるで、暗くて深い崖の縁に立っているような感覚。気を抜くと、吸い込まれそうなその谷底を見下ろしながら、今の自分を踏み止まらせているものは一体何なのか、どうして、こんなにもこの谷に落ちることに納得がいかないのか。
目の前に積み上げられた考えるべきことの中から、まず、それを足掛かりに、さっきから止まったままの思考を動かし始める。
本当にビスラ達は死んでしまったのか。
だとしたら、一体、どうして。
あの後、我を忘れて何度もジェドルにそう尋ねてみたが、彼は言葉少なで、なかなか二人の死の詳細を語ろうとしなかった。どうして教えてくれないのか、口を噤む彼の真意が解らず、大切な仲間を失ったかもしれないという強烈な恐怖と不安も相まって半ベソをかきはじめたルヤに、悲痛な面持ちを浮かべたジェドルの口から漸く告げられたのは、曖昧で、意外な事実だった。
「よく、覚えてねえんだ……」
息切れと聞き違えそうなその微かな発声を必死で拾い、ルヤはすぐに反復した。
「覚えてない……覚えてないって? どういうこと? ジェドル、今二人が……死んだって……そう、言ったんだよね? なのに、覚えてないって……」
そんな不確かな記憶で、どうして、彼らが死んだなどと言い切れるのだろう。訳が分からず、染み出す涙に気付くことさえも出来ない。
「……スナヒョウが出没するって聞いたポイントで待機してたら、横からぶん殴られるような、ものすごい衝撃がきて……何かが……何かが、そこにいた……ビスラとサーナは……そいつに向かってって……それで……何だかわからないうちに……弾き飛ばされて、倒れて……」
ジェドルはそこで言葉を切り、頭と脇腹を押さえ、苦しそうに顔を歪めた。見ると、脇腹には大量の血が塊になってこびり付いている。出血は止まっているようだが、酷い傷であることが容易に窺えた。
「ジェドル……この傷……その、何かって、なんなの……?」
「わからねえ……思い出せねえんだ……ただ、ビスラと、サーナ、あいつら倒れてて……起こして、揺さぶって……息が無いこと……確認した……それだけは覚えてるんだ……頭から、離れねえんだ……っ」
腕を顔の上に乗せ、声に詰まったようにジェドルはそれ以上何も言わなかった。そこへ、この村に一人しかいないという医者が宿に到着し、ロビーは俄に慌ただしくなった。主人と女将が、周りの野次馬達を力のありそうな男数人を残して散らせ、その男達にジェドルを運ばせながら、医者を案内して客室が並ぶ通路の奥へ消えていった。
その様を呆然と見送り、静まり返ったロビーに取り残されたルヤは、長い時間そこに佇んでいた。それからどうやって自室に戻ったのか、よく覚えていないが、次気付いた時には、ここで、こうやってベッドに腰掛けてランプの火を見ていた。六日間、悪い予感が、ただの取り越し苦労であることを願った部屋で、『二人が死んだ』という音の連なりを頭の中で、何度も、何度も、再生している。拒むことも、受け入れることも出来ず、ただ、宙に浮かんだそのフレーズを、離れた場所から眺めているような感覚で。
何を、どう理解して、どんな感情に身を任せたらいいのか。
ジェドルは、二人に息が無いのを確認したと言った。それだけは強く覚えていると。
その言葉を思い出す度、胸に、重く伸し掛かる痛みを感じる。だがそれでも、思い切り泣こうとは思えないのは何故なのだろうか。
呼吸を、深く、ゆっくり整え、何とか心を落ち着かせて、自分に問い掛ける。するとその問い掛けは、時間を掛けてもう一つの疑問に姿を変えた。
ジェドルはどうして、ここに帰ってこられたのだろう?
二人が殺されるほどの凶暴な何かの手から、ジェドルだけ逃れることが出来たのは、何故なのか。それを覚えていないと、ジェドルは言った。自分たちを襲ったものが何だったのか、どうして自分一人が生きて還ってこられたのか、覚えていないと。
だが、ジェドルは紛れもなく生きて、この村に還ってきた。それは、何らかの理由でジェドルが生かされたという証明だ。ただ覚えていないだけで、彼が命を落とさずに済んだ経緯が、確かに存在するはずなのだ。
そこで、ルヤは漸く悟った。自分は、ジェドルの失われた記憶の中に、希望を見いだしているのだということに。
彼があれだけはっきりと二人が死んだと言い切るからには、それは限りなく真実に近いのかもしれない。だからこそ、ルヤも全ての感覚が麻痺するくらいの衝撃を受けた。だが、心から悲しみに浸りきることに、涙を流すことに、こんなにも抵抗を覚えるのは、今は忘れてしまっているだけで、もしかしたら、どうにかして二人が生き延びたという記憶がジェドルの中に眠っているのではないか、そんな望みを、どうしても手放すことが出来ないからなのだと。
四人で旅する日々が再びやってくることを夢見る余地が、ほんの少しでもこの胸の中に残されている限り、自分は、二人がまだ生きていると信じたいのだ。それを、信じたっていいのだ。この目で全てを確かめるまでは。
それに気付いた途端、急に目の前が開けた気がした。
まず自分がすべきは、泣き喚くことではない。仲間の身に一体何が起こったのか、そして今自分の身に何が起こっているのか、状況をしっかりと把握することだ。泣くのは、探し出した真実が絶望的であってからでも遅くはない。
激しく渦を巻いていた様々な感情が漸く落ち着きを取り戻し始めると、すぐに思い浮かぶのはやはりジェドルの顔だった。彼だけでも帰ってきてくれたことは、ルヤにとって大きな救いだった。彼が戻らなければ、自分はこんな風に希望を持つことも、周囲を見渡そうと顔を上げることすらままならなかっただろう。
ある程度思考が整理されてきて、ルヤは無性に、先程の身体中に酷い傷を刻んだ、生気の無い目をしたジェドルのことが心配になってきた。あの、不器用であるが故にぶっきらぼうで子供のような物言いをする、威勢の良いジェドルの面影が、打ちひしがれたその姿からは感じられなかったことに、さっきは自分の感情の波に対処することに必死で、目に留めようとさえしなかった。それどころか、そんな憔悴しきった彼に、責め立てるように失った記憶の詳細を問い質し、感情をぶつけていたのだ。今頃になって、自分が如何に子供っぽい態度を取っていたかを思い知らされる。
何が、みんなに追いつきたいだ。
何が足手まといになりたくないだ。
他のどんな時より支える立場にいなければならないこんな状況でさえ、自分は、心身に傷を負い、誰よりも支えが必要であるはずのジェドルに縋りっぱなしではないか。
湧き上がる強烈な自己嫌悪に感じ入る暇も惜しむように、ルヤは立ち上がり、自室を出た。今度こそ、誰かの支えになれる、安心感を与えられる、そう、まるでビスラやサーナ、ジェドルのような、そんな自分に少しでも近付きたい一心で。
ランプの仄かな明かりの下、石を敷き詰めた造りの廊下で膝を抱えて蹲りながら、いつの間にか、雨音がしなくなっていることに気付いた。
ジェドルが運び込まれた客室から、医者が足音を忍ばせながら出てきたのは明け方になってからだった。顔に深い皺を刻んだ白髭の老医は、部屋を出るとすぐに駆け寄ってきたルヤに、安心させるように薄く笑って見せた。
「大丈夫だ、見た目ほど傷は酷くない、あれだけ出血したように見える割には、傷自体はほとんど塞がってるよ……こりゃあもしかすると現操術を施されたのかもしれんな」
「現、操術……」
心配していた怪我の容態がさほど悪くないとの知らせに心底胸を撫で下ろしたルヤだったが、同時に医者の口から飛び出した聞き覚えのある単語に、複雑な表情を浮かべた。
現世操術――通称、現操術。
このヘンディア東大陸で最も広く信仰されている教義であるシトア教の創始者が、千年以上前に編み出し、教団に所属する修行僧にのみ習得法を伝授、行使する権限を与えた、超自然の力。
「ん? あんた、もしかして西大陸の生まれか? あっちの人間は現操術にひどく過敏に反応するからな。耳にしただけで嫌な顔する奴も多い」
ルヤの反応に、医者は興味深そうな目を向けてくる。
なるべくこの地の住人に不快な思いをさせないようにと普段は気を付けていたのだが、つい、この非常事態で動転している為か、表情に出てしまっていたようだった。鋭い指摘に、ルヤは微かに苦笑を浮かべると、小さく首を振った。
「いえ、私が、というよりは、私の旅仲間が西大陸の人間で……その、嫌っているというわけではないんですが、やっぱり、どうしても良い印象を持てない様子だったものですから」
「そうか……まぁ、あっちでは現操術が大っぴらに戦争に使われてるって話だからな……嘆かわしいことだ」
ジェドルも、ビスラも、サーナも皆、戦争で家族を失ったという辛い過去を持つ。シトア教僧にしか知らされず、厳しい規則で漏洩を取り締まられているはずの現操術習得法が、裏で取引きされ、シトア教信仰国でもない西大陸の大国の手に渡り、厳禁とされている戦争での行使がなされるようになってから、彼の大陸では、もう何十年も血生臭い争いが慢性化して続いている。三人は幼い頃からその戦争の当事者として、それぞれ悲惨な体験を強いられてきた。
「まぁ、こっちじゃ戦争での使用禁止の規則が徹底的に守られてる。わしらにとっちゃ、困った時に頼れる有り難い力だよ」
「はい、こちらの大陸で使用される現操術は人々を守り、親しまれる力だと、長く旅をしていて、私も良く理解しているつもりです……それで、ジェドルの傷には現操術が施された形跡があると仰られていましたが……それは」
油断すると、すぐにざわめきそうになる心を押さえつけるように、ゆっくりと呼吸を整えながらルヤは医者を見上げ、先を促す。今は、ほんの少しでも、この訳の分からない状況を見極める為の材料が欲しかった。
「ああ、そうそう……まあ、わしにもはっきりそうだと分かるわけじゃない、形跡と言うより、あの傷の塞がり具合は現操術を掛けられた以外に考えられないんじゃないかと、そう思うだけだ」
「傷の、塞がり具合……」
「そうだ、あれだけの出血があったように見える傷が、なんの処置も無しに、しかもあの荒野を延々と歩くという無茶をしながら自然に塞がるとは、わしにはどうしても思えんのだよ……しかも現操術で治癒したのだとしても、あの傷を治しちまえるってのは相当の使い手によってってのが大前提だろうな」
「……それは、つまり……現操術の助けがなければ、命に関わった、ということですか」
その問い掛けに、雄弁だった医者は目に躊躇いの色を浮かべ口籠もったが、改めてルヤの顔を静かに見返しながら神妙に頷いた。
「そういうことだ。わしもあんな傷は初めて見る……あれは、本当に最近この辺りに出るっていう野獣の仕業なのか?」
「え? どういう、ことですか……?」
身を乗り出して詳細を尋ねるルヤに、医者は負傷当時の状態は自分も想像しか出来ないと前置きした上で、所々思索を挟みながら慎重に語ってくれた。その話によれば、どうやらジェドルの体に刻まれているのは、噛み付かれたとか、打ち付けられて出来た傷というより、重い刃物か何かで肉を抉り取られたり、激しく切り裂かれた傷跡に感じられ、更には火傷に似た跡も見られるという。そして不思議なことに、致命傷になっていてもおかしくないそれらの傷は、今診た限りではほとんど治療が必要ない程見事に塞がっているのだと、医者は首を捻り唸るのだった。
「一体、何があったんでしょう……ジェドルは、ビスラと、サーナは……どんな目に遭ったっていうんでしょうか」
自分を落ち着かせようと努力した結果だろう、不自然なほど抑揚のない声を出しながら、無意識に体を震わせているルヤを見て、医者は年輪を感じさせる顔の皺を更に深くし、腕を組みながら低い溜息を吐いた。
「お仲間さん、まだ二人帰らないんだってな……すまん、今回の仕事を依頼した村の住人の一人として申し訳なく思うよ……」
背中の曲がった、男性の体格としては幾分小さな身体を更に縮めて謝る医者に、ルヤは迷いのない姿勢で首を振り、その瞳は、更に言葉を継ごうとする医者の声を自然に止ませた。
「そんなこと、謝らないで下さい。仲間同士で十分話し合い、納得した上で引き受けると決めた依頼です。その結果何が起ころうともそれは己の実力を見誤った私達の責任……仕事を提供して下さったこの村の方々には感謝こそすれ、責める気持ちなんてありません」
いつも、ジェドルに、そしてビスラとサーナに言い聞かされた、放浪者として、一人前の人間として胸を張って生きていく為の条件。失敗を自分以外の誰の所為にもしないこと。どんな失敗とも真正面から向かい合うこと。強張った頬に涙が伝おうとするのを歯を食いしばって堪え、ルヤは微笑んだ。
その表情を見て、医者も何かを察したように小さな笑みを覗かせた。
「そうか……まあ、なんだ、まだ二人とも戻ってこないと決まった訳じゃない、もしあの兄さんを現操術師が救ったとするなら、あとの二人だってその御方に保護されている可能性もある。最後まで、望みを捨てんことだよ」
その励ましの言葉は、一瞬揺らぎそうになったルヤの決意を、改めて貫こうと、信じようと思わせてくれる、心強いものだった。だが、その一方で、ジェドルの不思議に思えるほど確信に満ちた表情での断言が、まだルヤの心に引っ掛かっているのも事実だった。二人が生きている可能性が少しでもあるのなら、彼はあんな言い方をするだろうか。
「何にせよ、あの兄さんの記憶が戻れば全てが分かるだろう……正直、獣にせよ何にせよ、問答無用であんな傷を負わせるような奴がこの辺りをうろついてるんだとしたら、この村にとっても脅威だ。すぐにでも真相を知りたいところだが、今はまだ無理に聞き出したりしない方がいいだろうな。身体の方はもう心配なさそうだが、どんなでかいショックを受けたんだか、さっきまで相当不安定になってる様子だった。無理に聞き出そうなんかしたら却って逆効果だ。内側の傷の治りが遅れちまう」
「そう、ですか……ジェドルが」
あのジェドルをそこまで不安定にさせる程の出来事とは、どれほどのものだろう。彼は自分の記憶を疑っていないようだったから、仲間を失ったという認識は確かに大きな衝撃に違いない。だが、普段の言動から、ルヤ以外の三人は、心の何処かで今回のような事がいつ起こってもおかしくないと覚悟しているような節があった。ルヤには、そんな覚悟は全く出来ていなかった、否、覚悟したくなくて、ずっと逃げ続けてきたのだが、少なくともジェドルには、全ての可能性を予測し、どんな状況にあっても自分を見失うことなく対応しようという気概があったように感じられた。そのジェドルが不安定になるほどの内面的打撃。やはり、どんなに覚悟していても、いざ仲間を失うという事態に陥ってみれば、とても落ち着いてはいられないということだろうか。
「あの兄さんがもう少し安定するまでは、村の者にも詳しいことは黙っておくよ。危険が迫っているかもしれないなんて知ったら、無理強いしてでも思い出させようとするような浅はかな連中が出てこないとも限らんからな」
ルヤは医者の冷静な配慮に深く感謝した。長く旅をしているとわかってくるが、自分の身内の為となると途端に感情的になり見境がなくなって、驚くほど余所者に冷たくなる人間が世間の多くを占める中で、この医者は理性的且つ大局的に物事を見極めようとする、信頼出来る人物であるようだった。
「お心遣い、ありがとうございます……私も、この村の安全の為にも、彼の記憶が少しでも早く戻るよう心を配ります」
真剣な瞳を医者に真っ直ぐに向けて笑うルヤに、医者も頷き、互いにそれ以上何も言わず、二人はその場で別れた。
ドアの前で立ち止まり、深呼吸して、普段の、皆で居た時と同じ、何でもないという表情を被せた顔を上げたルヤは、水の中の動きのようなぎこちない手付きでドアをノックし、ゆっくりとノブを回した。
息を呑むほどに静まり返った室内に足を踏み入れると、すぐにベッドに仰向けに寝ているジェドルが視界に入る。目を閉じたその顔は、いつもの彼とは別人ではないかと思えるほど、生気が無く、触れると音もなく消えてしまいそうに見えた。
「ジェドル……?」
眠っているのかもしれないと、聞こえないほど小さく呼び掛けると、その、宙に溶けてしまいそうな声に反応するように、ジェドルは薄く目を開けて首を動かし、ルヤを見上げた。
「ルヤか……」
その疲れきった表情には、僅かな安心の色が浮かんでいた。
「大丈夫か……ルヤ」
言われて、昨晩自分が彼の事情や気持ちなどお構いなしに強く問い質したこと、抑えきれない感情をぶつけるばかりだったことを思い出す。心身に傷を負い、自分自身のことで精一杯のはずのジェドルにこの期に及んで気遣われている自分に、どうしようもない情けなさを感じたルヤは思わず俯き首を振った。
「ごめんね、私、昨夜はどうかしてた……駄目だね、いつまで経っても半人前で……でも、もう大丈夫だから」
さっき隠した表情が表に出てこないように、笑顔をつくる。
その顔を見詰めながら、ジェドルは哀愁を帯びた苦笑を口元に浮かべた。
「無理、してるな」
「え……」
「平気なわけねえだろ……お前が」
言いながら半身を起こそうとするジェドルに、ルヤは慌てて駆け寄り肩を支えた。
「ビスラと、サーナが死んだ……あいつらが、死んだんだ……」
「ジェドル……」
「あのお人好しのビスラも、口うるせえサーナも、もう、いねえんだぞ」
呆然とした目をして、半笑いで呟くジェドルに、ルヤは耳を塞ぎたい衝動そのままの強い力で、必死にしがみつく。
「ジェドル……!」
「変な気遣ってねえで泣けばいいだろ……無理して平気な振りされたって、かえって鬱陶しいだけなんだよ」
見たこともないやつれた表情で窓の外に視線を逸らそうとするジェドルの両肩を、ルヤは強く掴んで、強引に向き直らせた。
「無理なんかしてないよ! ジェドルに比べたら、私全然無理なんかしてない……!」
驚いた様子で目を見張るジェドルに構わず、続ける。
「あなたこそ無理しないで……! そうやって、いつも憎まれ口叩く振りして私のこと気遣うのはやめてよ……私だって、もう出会った頃の子供じゃないんだよ? あなただけがそんなに頑張らなくていいの、全部抱えようとしなくたっていいの!」
言葉を失ったジェドルは、多くの感情が同居するような複雑な眼差しでルヤを見返していた。その、言いようのない、自分の主張をどう受け取ったのか計りかねる視線に、何となく居心地の悪さを感じながら、それでもジェドルから目を離さず、ルヤは更に言葉を継いだ。最も伝えなければならない、今の自分を形づくる思いを。
「それに私、ビスラとサーナの死体をこの目で見て、ちゃんと自分の手で弔うまでは、二人が死んだって認めない、そう決めたの」
「……ルヤ……」
「ジェドル、その時の記憶がはっきりしないって言ったよね? だったら二人が死んだっていうのも、もしかしたらただの思い違いで、ビスラもサーナもまだ生きてるかもしれない、今頃この村に向かってるかもしれないでしょ? だから、私は泣かないよ、泣いたら、二人がもういないって、認めることになるもの」
最後、声が上擦っていることに気付きながら、どうすることも出来なかった。
我に返ったように、強く掴みすぎていたジェドルの肩から、何となく彼の目を見られないまま手を離し、高揚を抑えるように深く息を吐く。
この考えを口に出すということは、ジェドルの記憶を否定することも意味する。不安定になっている今の彼の心を、更に動揺させ、傷付けてしまうのではないか。そう危惧する自分がいないわけではなかったが、この気持ちこそが、悲しみに崩れ落ちることなく、自分をここに立たせてくれている。この考えを話す以外に、今の心情を説明する手段がルヤには見付けられなかった。
「二人とも、あんなに強かったんだもん。私がどんなに真似しようとしても、サーナみたいに遠くの的にナイフ当てられなかった。寝る間も惜しんで鍛錬しても、一度だってビスラには剣で勝てなかった……そんな、強くて、かっこいい二人が、簡単に死ぬわけないよ」
強く言い切る口調とは裏腹に、ルヤもこの想いに絶対の自信があるわけではなかった。
それでも、後ろ向きな感情の流れに必死に逆らうように、強く、強く、願う。
目を閉じて、安定しない気持ちを一つの型に流し込もうとしていると、すぐ鼻先から小さく吹き出すような声が響いた。
驚いて瞼を開くと、ジェドルがいつもの不敵な調子で薄く笑みを零している。
「それは、ビスラ達が強いんじゃなくて、お前が鈍臭いだけじゃないのか?」
帰ってきてから初めて見る、以前と変わらぬ彼の皮肉な態度に何だか少し安心して、ルヤにも、微かに笑顔が滲む。
「なによ、ジェドルだってビスラに一回も勝てたことないくせに」
「ああ? 勝てそうだったことは何十回もあるんだよ、あと引き分けも五回ある!」
「勝てなきゃ同じだよ、言い訳っぽい」
無言で睨み合ってから、一瞬の間をおいて、互いに、歯を見せて笑う。
それはルヤにとって、恐らくジェドルにとっても、久し振りに心から笑った瞬間だった。
「そうだよな、二人とも、まだ生きてるかもしれないよな……」
言ってから、不意に遠い目をして、思いに耽るように黙り込むジェドルを見ていて、ルヤは先程医者から聞いた話を思い出した。見たところ、ジェドルの全身には一応白い布が巻かれているようだが、医者が言うには大掛かりな治療の必要はないほどに傷は塞がっているという。そして、その死に至ってもおかしくないはずの傷を治したのは――
「ねえ、ジェドル、身体、どこか痛いところある?」
「ん? ……あぁ、そういえば相当ひでえ怪我してたよな、俺」
やはり、もうほとんど痛みはないのかもしれない。言われて初めて怪我のことを思い出したという風に、ジェドルはきょとんとした反応をする。
相当不安定になっていると聞き、どれほどのものかと心配していたが、思ったより安定した様子の今のジェドルにならば、さっきの話をしても大丈夫かもしれない。暫く考えた末、ルヤは思い切って切り出すことにした。
「ジェドル、落ち着いて聞いてくれる? さっきあなたの手当てをした先生に聞いたんだけど、あなたの身体、もうほとんど治ってるんだって」
「治って……?」
身体に巻かれた白い布を眺めてから、不思議そうな視線を向けてくるジェドルに、ルヤは先程の医者との会話の中から、彼を刺激しそうな内容はなるべく省いて、重要と思える要点だけを抜き出して話して聞かせた。
「……つまり俺は、その現操術師に助けられたかもしれないっていうのか……」
現操術という単語に不快な顔をするかと思っていたが、ジェドルは特に何の感情も示さず、純粋に与えられた情報を分析しようとしているようだった。
「はっきりとはわからないけど、そうかもしれないって先生は言ってた……こっちの大陸では現操術はシトア教の僧侶しか使えないから……ジェドル、そんな人と会った覚えない?」
もし、そういった人物がジェドルを救ったのなら、ビスラとサーナも同じように助けられているかもしれない。死に至るほどの傷を綺麗に治してしまえるほどの使い手なら、例え二人が息を無くしていたとしても、蘇らせることが出来たのではないか。ルヤは祈るような気持ちでジェドルの答えを待った。
「僧侶……そうだ……俺たち以外の、誰かがいた……そいつは、確か…………」
必死に記憶の糸を手繰り寄せて、奥から何かを引き出そうとするかのようにぶつぶつと呟いていたジェドルは、急に、前触れなく額を手で押さえて呻き始めた。
「ジェドル? ジェドル、どうしたの?」
「う……ぐっ……ああ! あ……頭が……あ……たまが……!」
いくら呼んでも、揺さぶっても、ジェドルは何かに怯えるように一点を凝視したまま頭を抱え、ルヤの声にも反応しない。尋常ではないその苦しみ方に、ルヤは泣きそうな声で、何度も、何度もただ彼の名前を呼ぶことしかできなかった。暫くそんな状態が続いた後、漸く落ち着いてきたかと思うと、崩れるようにベッドに横になり、そのまま寝息をたてはじめたジェドルの横顔を、ルヤは胸が潰れそうな気持ちでいつまでも眺めていた。
記憶を失うほどの大きな衝撃を心身に受けながら、独り、何日も歩いて、ここまで還ってきたジェドル。
無理に聞き出そうとしてはいけない、医者の真剣な表情が、痛みを伴って鮮明に浮かんだ。
ジェドルは安定していたわけではない。ルヤの前では気を張り詰めて、心配させないようにと無理をしていただけなのだ。例えそれが無意識にだったとしても、ジェドルはそういう人間なのだとずっと前から知っていたはずなのに。だからこそ心から信頼し、尊敬してきた人物を、軽率な発言で苦しめた。自分の、早く真実を知りたいという身勝手な思惑を優先して、彼が内面に負った傷を軽視した為に。いつまでも甘えた考えから抜け出せないでいる自分。今度こそ激しい自己嫌悪から逃げ切れずに、肩まで浸かることになった。