三
三
「まあまあどうしたんだい!」
漸く宿まで辿り着いたものの、余りに水浸しで入るに入れず、扉の前で立ち尽くしていたルヤと少年を、たまたま玄関先から顔を出して見付けた女将は目を剥いて叫んだ。
「部屋にいないから何処に行ったのかと心配してれば、病み上がりだってのにこんなに雨に濡れて!」
良く磨き込まれた床の上を泥まみれで徘徊するのを躊躇ってたルヤの憂慮になど気付く様子もなく、女将は血相を変えて、水を滴らせた二人を一階奥の浴場まで引き擦るように連れて行った。
一つしかない浴場に二人同時に押し込まれそうになり、慌てて女将を押し止めたルヤは、例によって不思議そうに浴槽を眺めている少年にここで体を洗うよう告げると、自分は事情を説明する為に通路に戻った。
連れてきた少年について詳しく話したい旨を伝えると、女将は漸く少し落ち着きを取り戻した様子で頷くと、ルヤを別室に促した。
木目の美しいテーブルと椅子が並べられた来客用と思しき部屋に通されたルヤは、手渡された綿布で濡れた髪と身体を拭いながら、ここに至るまでの経緯を女将に話して聞かせた。東門の外で見慣れない外見をした少年と出会ったこと、その言動からして、彼はどうやら記憶を失っているらしいということ、帰る場所が無いようだったので、取り敢えずこの宿まで連れてきたこと等を、順序立てて出来るだけ詳細に語った。この村に見覚えがあるような言動があったことや、手ぶらでいたことから考えて、恐らくこの村の子供ではないかと予想していたルヤは、女将なら彼を知っているだろうと半ば確信のようなものを持っていた。だが、返ってきたのは、彼女にとってもあの少年は初めて見る顔であり、彼の着る衣装にも全く見覚えがないという意外な答えだった。
「さっきは少し動転してて、あの子が何者だとかまで考えなかったけど、この村の子供でないことは確かだよ。あんなに肌の白い子、村にいたら相当目立ちそうなもんだけど、見たことないからね」
「そう、ですか……それじゃあ一体あの子は……」
どうやって、水も食糧もなく、この荒野に囲まれた村にやってきたというのだろう。
考え込むルヤを見て、女将は励ますような調子で付け加えた。
「まぁ、ここコロイはこの辺りでは唯一、人が暮らせてる泉の湧く村だからね、旅の中継点としてあんた達のような放浪者や行商人がひっきりなしに立ち寄るんだ。そういう連中が連れてきた子供かもしれないよ」
女将に言われて初めてその線に気付き、ルヤは成る程と納得して深く頷いた。確かにそれなら、この国の住人らしからぬ少年の風貌や、発音の癖にも説明がつく。早速明日にでも村に滞在している旅人達の元を訪ね、少年の保護者がいないか捜してみようと頭の中で計画を練り始めたルヤだったが、はた、とその前に立ち塞がる別の問題に気付いた。簡単そうに思えて、現実的に考えると意外に厄介な問題に。
暫くその解決方法を模索してみたが、諦めたように肩を落とすとルヤは女将に向き直った。
「あの、ご相談なんですが女将さん、彼を私の部屋に泊まらせて、私は廊下か何処かで寝かせていただくという形で、その……宿代をまけていただく訳にはいかないでしょうか……?」
嬉しそうだったかと思えば、すぐに難しい顔をして唸りだしたルヤを何事かと眺めていた女将は、恐る恐るといった様子で切り出されたその申し出に、拍子抜けしたように笑い出した。
「どんな深刻なこと悩んでるのかと思えば、いいよ、あの子の部屋はタダで、別にあんたがあの子の保護者って訳じゃないだろう?」
「それは、そうですけど……でもあの子を連れて来たのは私で、この宿とは何の関係もない子ですし……無料にしていただくというのはあまりに申し訳ないですよ、そこまで甘えるわけにはいきません」
「別にこんな田舎の宿にそこまで気を遣う必要ないのにねぇ……まあ、わかった、あんたがそう言うならタダで客室は貸さないよ。けど、客室じゃなければ良いだろう?」
その言葉の意味するところを計りきれず、瞬きするルヤに女将は片目をつむって見せた。
教えられてやってきたその部屋は、内装こそ他の部屋よりいくらか簡素な造りではあるものの、設えられた古めかしい木の家具や、乗ると微かに軋む寝台、窓際にあるランプの乗った小さな机が、客室には無い、ほんのりとした温もりと、胸の奥をツンとさせるような懐かしい匂いを漂わせていた。
「ここは……」
少年は部屋を見回すと、やはり無感動な声で呟いた。
「ここは、この宿を経営するご夫妻の息子さんが来たとき泊まる為の部屋なんだって」
ルヤは、この綺麗に手入れされた、愛情の込められた室内を見て、少し複雑な気持になり深く息を吐いた。
両親の跡を継ぎ、王都で織物商を営んでいるという彼らの息子は、父親である主人の故郷、ここコロイで夫妻が宿屋を経営し始めてから五年間、仕事の忙しさを理由に一度もこちらに顔を出したことがないという。「どうせ、掃除だけして使ってない空き部屋みたいなもんだから」と、女将は苦笑混じりにそう言って、少年が寝泊まりするのに使うと良いと勧めてくれたのだが、いざここに来てみると、逆にこの部屋にだけは簡単に足を踏み入れてはいけなかったのではないかという思いに駆られた。そして同時に、蓋をしたはずの胸の奥から染み出してくる、遠い、自分自身の家族達の顔。彼らは、もう部屋など残してくれてはいないのだろうけれど。
室内と、そんなルヤの表情を交互に見比べていた少年は、しばらくぼんやりと佇んでいたが、前触れ無く部屋を出て行こうとした。
「どこへ行くの?」
その唐突な挙動にはっとして呼び止めたルヤは、ゆっくりと振り返る少年の顔を見て、改めて息を呑んだ。自分や西大陸の人間もこの周辺地域に暮らす人々に比べれば肌の色は白い方だが、こんなにも、透き通るように白い肌の人間を見たのは初めてだった。汚れを洗い落としたことによって、それがよりはっきりと際立っている。
「僕は、外で寝ればいい」
それだけぼそりと呟いて、またこちらに背を向け廊下を歩き去ろうとする少年を慌てて追い掛け、腕を掴む。
「何を言ってるの? 外は寒いし、今夜は土砂降りだよ? それになにより、あなたみたいな子供が一人で野宿なんて危ないでしょう」
「別にいい……これまで、そうしていた」
「今まで、あなたは野宿していたの?」
「……わからない……でも、そんな気がする……」
何を聞いても曖昧で、要領を得ない。
何一つ覚えていないというのは一体どんな気分なのだろう。ルヤには計りかねたが、きっと、とてつもなく怖いことなのではないかと、それだけは想像できる。目の前の少年は、その恐怖に今も耐えているのだろうか。この無表情は、心が崩れてしまわないように、押さえて、固めているからなのだろうか。そんな風に思えた。
「あなたは、今夜はここで寝るの。あんなに雨に濡れて、疲れているでしょう? ただ、明日起きたら、旦那さんと女将さんにお礼を言って。それだけは忘れないでね?」
少年の覚束ない瞳をしっかりと捕らえて、ルヤは静かに言い聞かせた。
闇も深まった窓の外を、遠くまで眺めて息を吐き、ルヤは室内に視線を戻した。
「もう、大きい方のランプは消すね」
ベッドに横になって、こちらを見ていた少年に声を掛け、返事を待たずに中央の小さなテーブルの上に乗った銀細工のランプの火を吹き消す。
壁に据え付けられたランプの微かな光が浮かぶだけになった室内は、どこかから取り残された場所のように頼りなく、寂しげなものに感じられた。
「明日は、あなたを連れてきた人がいないか村の中を探してみようね」
沈みそうになる気持ちを無理矢理浮上させようと、全く表情の変わらない少年に笑い掛ける。そんなルヤを、動くことさえ少ない瞳で見つめていた少年は、唐突に、その口から言葉を発した。
「あなたは――どうして、あそこにいたの」
「え?」
最初意味が分からなかったのと、初めてではないかと思える少年からのしっかりとした問い掛けに、ルヤは目を丸くした。
「あなたはどうして、あの雨の中に、一人でいたの……」
「…………」
言葉に、詰まった。
こちらを見詰める少年の瞳には、虚無の中に、無垢な一筋の光のようなものが感じられて、何だか、見返すのが辛いほどだった。
「仲間をね……待っていたの……」
何も言わず、頷きもしない少年に、ベッドに頬杖を突きながら、ルヤはひとつひとつ、自分の想いを確かめるようにして話して聞かせた。家族以上に大切に思う仲間が、依頼をこなしに村を旅立ったまま戻らず、一人残された自分はここで何日も帰りを待ち続けているということ。もうそこまで来ているんじゃないかと根拠もない期待をして、東門まで皆を迎えに行ったこと。そしてそこで、少年を見つけたことを。
「そう……それで、僕は、あなたに会った」
「そうだよ、びっくりしたよ……あんなところに立ち尽くしているんだもの」
小さく微笑むルヤに真っ直ぐな視線を向けたまま、少年は何の感情も含まない声で言った。
「それなら……あそこにいたのが、僕じゃなくて、その人たちなら、良かったのに」
一瞬、言葉を失うルヤに、少年はもう一度同じことを繰り返した。
「その人たちがいたなら、あなたは、もう悲しんでいなかった、どうして、僕が、あそこにいたんだろう、いなくても同じ、僕が」
本当に不思議そうな目をして、何でもないことのように言ってのける少年に、ルヤは尋ね返したい思いだった。
何故、そんなことを言うのか、と。
何も覚えていないということは、そんな風に考えてしまうものなのだろうか。そんなにも、自分の価値を見失ってしまうものなのだろうか。何処かに置き忘れただけで、必ず、あるはずの価値を。
自分でも意味が分からない涙が出そうになって、ルヤは少年の頭を強く掻き回した。
「あなたは、この世界に生まれて、ちゃんとここにも居るから、あそこにいたの。あなたは私の仲間にはなれないし、私の仲間も、あなたの代わりにはなれない……そんな風に考えるのは、もう、やめなさい」
それでも表情を変えようとしない少年にもどかしさを感じて、短く「おやすみ」とだけ告げると、ルヤは足早に部屋を出て行こうとした。ドアを閉めようとしたとき、小さく呼び止められた気がして部屋を覗く。少年が横になったまま、ルヤの姿を探すように顔を上げていた。
「僕は、いるの……? ここに――」
それは、無表情な、けれど、周囲を満たす不確かさから這い出そうとしているような、何かを掴もうとする眼差しだった。
「……いるよ」
ルヤは強く、はっきりと頷くと、もう一度、今度は笑っておやすみと声を掛けて、ゆっくりと扉を閉めた。
深夜――
階下から微かに響く人のざわめきらしき物音で、ルヤは浅い眠りから目覚めた。それとほぼ同時に、少し気忙しいノックが室内に響く。
頭に靄がかかったような状態で目を擦りながらドアを開けると、そこには血相を変えた女将が、落ち着かない様子で立っていた。
「あ、ルヤちゃん……今、下に……」
女将に耳打ちされて、息が止まった。
それは、待ち焦がれていた報せ。
そして同時に、聞きたくないと怖れていた言葉でもあった。
我を忘れ、女将の脇を抜けて駆け出す。
もつれる足で何度も転びそうになりながら薄暗い階段を降り、ざわめきの源へ。
呼吸が空回って声を出せずに、無言で人垣を掻き分けた。
その先に、
その先にいたのは――
「ジェドル!」
最初、彼だと分からないくらい、ジェドルは血と砂埃にまみれて、ロビーの床に仰向けに寝かされていた。
「ジェドル……ジェドル!」
涙の詰まる喉で、懸命に呼び掛ける。
次々と押し寄せる感情に呑まれ、目の前で何が起こっているのか、何を考え、何を言えばいいのか、一つとしてまとまらず、悪い夢の続きでも見ているような歪んだ視界の中で、傷だらけの体に縋り付いた。
「どうして……ジェドル、どうしたの? ねぇ、ビスラは? サーナは?」
取り囲む人垣はただならぬその光景を固唾を呑んで見守っているようだったが、自分に向けられる周囲の視線になど、今のルヤは構っていられなかった。
「今さっき、入り口近くに倒れているのを俺が見付けて中に運んだんだ……今、急いでうちの使用人に医者を呼びに行かせてる」
そう、低く声を漏らしたのはこの宿の主人、エルバ。
普段の不敵な態度は微塵も感じられず、その精悍な顔を険しく顰めてジェドルの傍らに付いていた。
「息は……息はあるんですか」
訊きたくない、口に出すのさえ苦痛な問い掛けを、張り裂けそうな思いで絞り出す。
「あぁ、安心しろ、息はある……」
その答えに、強張っていた全身の力が抜けた。
少しも動かない、自分が呼び掛けても全く反応しないジェドルは、もう、この世の者ではないように感じられたから。
「だが、一体この有様は……」
主人が、また何かを言い掛けた時、掠れて聞き逃してしまいそうな、しかしルヤが切実に待ち望んでいた声が発せられた。
「ル……ヤ……」
うまく働かない頭を必死で動かし、ルヤはジェドルの口元に耳を寄せた。
「ジェドル……?」
「……ルヤ、か……?」
「そうだよ、ルヤだよ、ジェドル……」
堪えていた涙が、一粒、零れる。
あの、子供みたいに意地っ張りで、いつも偉そうに自分を叱咤する彼とはまるで別人に思えるほど、衰弱して、やっと声を出しているジェドルの姿を見るのは辛く、今にも失いそうで怖かった。
「俺は、ここに戻って、こられたのか……」
「うん、待ってたよ……私ずっと、みんなが帰ってくるの、待ってた……」
「……ルヤ」
「心配してた、すごく……」
涙を拭おうともせず、砂と血で汚れた手を握り締めて必死に語り掛けてくるルヤの姿を、ジェドルは憔悴した、しかし、その奥に強い感情を閉じ込めているようにも見える黒い瞳で見詰め返していた。
「この傷はどうしたの……ビスラと、サーナは?」
「ルヤ……二人は、死んだ」
突然、耳に入ってきた、その、音。
ルヤの頭は、一瞬その意味を理解しようとしなかった。
ぼんやりと、ジェドルの顔をただ見返す。
尋ね返すことも出来ないでいるルヤから視線を外して、ジェドルは無理に感情を廃した声で、もう一度発した。
「……ビスラも、サーナも……死んだ……もうここには、帰ってこない」
ルヤは待っていた。
いつものように意地悪く、ジェドルが笑って冗談だと舌を出す瞬間を。狙いすましたように、ビスラとサーナがおどけて目の前に現れる瞬間を――