二
二
六日前に皆が出ていった村の東の入口を目指して歩きながら、ルヤは今更ながら、今滞在している宿がサーナの言った通り、村で一番上等な宿なのだということを実感することになった。荒野に呑み込まれそうな佇まいのこのコロイ村を構成するのは、自然と同化したような簡素な石積みの家屋がほとんどで、あの宿のようなしっかりとした建築の、格式のようなものが感じられる建物は他にないようだった。
(本当に、見るからに一番高級なところだったんだ……ジェドルってば、安宿だなんてわざとらしいこと言って……)
ルヤ達の旅は、そういった設備の行き届いた宿とは無縁だった。普段は野宿か、余裕がある時でもとことん粘って半壊したような安宿を探すのが常なのだ。それなのに今回は、大切な旅の資金を削ってまでルヤがゆっくり静養できる環境を用意し、自分たちは依頼をこなしに村を旅立っていったジェドル、ビスラ、サーナの三人。
ルヤにとって、確かな自分でいさせてくれる、有りのままに生きることを許してくれる、言葉では言い尽くせない存在。
皆に今回のような気遣いを二度とさせないためにも、これからはサーナに言われた通り、自分をもっとよく知り、出来ることと出来ないことをよく見極めて行動しよう。今度こそ、皆と同じ歩調で歩いて行けるように――
そう、きっと東門に行けば、皆、もうそこまで来ているに違いない。
自分が心配していたことを、何でもない顔で笑い飛ばしてくれる。そしてまた、何事もなかったように皆との旅が始まるのだ。
それは何の確証もない願いだった。
だが、ルヤはその未来を信じようと決めた。
途中、行き交う村人や行商人に声を掛けられ、立ち止まって世間話をしたりしながら漸く東門に辿り着いた頃、泣き出しそうだった曇り空からぽつぽつと雨粒が落ち始めていた。この地方では滅多に雨が降らないのだが、一度降り始めると豪雨になることが多いため、ルヤは急いで東門を出て、村の外を見回した。三人が、すぐそこまで歩いてきている光景を心に描きながら。
しかし、そこには雨を吸い込む渇ききった荒野が、視界に入りきらないくらい遠く遠く広がっているだけで、ルヤに笑い掛け、駆け寄ってくる人影など、何処にも見当たらなかった。
風と、雨音だけに包まれた、人が生きることを許さないような厳めしい死の大地。こうして佇んでいると、その虚無と静寂に押し潰されてしまいそうになる。
あの彼方にまだ、ジェドルも、ビスラもサーナも、生きていて、どこかで笑ったり、下らない話題で盛り上がったりしているのだろうか。
何だか信じられなくて、泣き出してしまいそうな自分を必死に奮い立たせようとするのだが、胸の痛みがしつこく残って払いきれない。まるで、自分の心情を映しているようだと、ルヤは皮肉な気持ちで大粒の涙を落とす空を見上げた。徐々に勢いを強めていく雨に打たれるまま、その後も暫く皆の帰りを待つようにその場を動かずにいたが、宿に戻らなければという思考を頭の片隅に見付け、のろのろと重い足取りで東門の方に引き返す。
門の中まで入ったところで、どうしても、このまま独りで帰らなければならないのが、またあの暗く静かな部屋で皆の帰りを待たなければならないのが寂しくて、悔しくて、最後にもう一度だけ、縋るような思いで飛沫に煙る荒野を振り返る。瞬間、何かが目の端に当たったような気がして、ルヤは飛びつくようにその影を視線で追った。豪雨で視界が悪く、はっきりとは確認できないが、それは東門を出た所からすぐ近くの岩場に立っている人間のようだった。さっきは遠くばかりに気を取られていた為か、それとも人の形に似た岩の群れにその人影が紛れてしまっていたからか、見逃してしまっていたようだ。
「ジェドル……?」
無意識に仲間の名前を呼んで、湿ってぬかるんだ砂に足を取られそうになりながら人影に走り寄る。
しかし、近付いていくうち、それが背の低い、まだ顔立ちに幼さの残る少年であることに気付いた。黒髪に黒い瞳、砂と埃で汚れた白い肌、見たこともない漆黒の分厚いローブに身を包み、被ったフードから雨を滴らせながら、目前まで近寄ってきているルヤを見ているようなのに、意識は何処か遠くにあるような惚けた目をして立ち尽くしている。
まるで薄い膜を隔てた向こうにいるような、何とも言い難い異様な空気を纏ったその少年に、一瞬どう声を掛けていいか分からず、対峙するように向かい合ったまま暫し無言の時を刻んだルヤだったが、少年の身体が、何も映さない表情とは裏腹に、微かに震えていることに気付くと、我に返ってその肩を掴み、大声で呼び掛けた。
「あなた、大丈夫? 一人でこんな所で雨に濡れて、一体どうしたの?」
強く揺さぶられて、少年は初めて目の前のルヤを認識したような顔になり瞬きした。
「この村の子? お父さんは? お母さんは?」
「……あなたは」
少年は、先程までとは打って変わってルヤの顔を真っ直ぐに見据えたまま、声変わり間近の響きを持つ声を発した。
「私はルヤ、この村に旅の途中で立ち寄ってる放浪者だよ。だから、村については余り詳しくないの」
「村……?」
少年はまた短く尋ね返すと、ルヤの後方にあるコロイ村に視線を移し、
「人の住む、ところ……」
口の中で消えてしまいそうな声で呟いて、それきり、黙り込んでしまう。
「あなたは、この村の子供じゃないの?」
少年は暫く間を置いて、首を振った。
違う、という意味だろうか。それ以上の反応を示す気配がないので、別の質問を投げ掛ける。
「じゃあ、何処から来たの? その服は、どこの民族衣装?」
そう言われて初めて気が付いたように、少年は自分の服装をまじまじと眺めた。
「着ていたんだ、僕は……」
その様子と、これまでの問い掛けに対する要領を得ない返答から、どうやら普通の状態ではないことを何となく悟ったルヤは、取り敢えず、このずぶ濡れの少年を宿に連れ帰ることにした。
「何処へ……」
無言で手を引かれ、少し戸惑ったように尋ねてくる少年に、ルヤは前を向き、早足のまま答えた。
「宿。このまま雨に濡れていたら、どっちも無事じゃ済みそうにないからね……あなた、宿代になりそうなお金持ってる?」
「やど、だい?」
「……持ってなさそうだね」
予想はしていたが、貨幣の意味すら分からないとでも言い出しそうな少年の反応に溜息が出る。一体、この子供はどういう境遇なのだろう。見たところ、手ぶらのようだが、やはり村に住む子供ではないのだろうか。残った旅の資金を考えても、少年を別室に泊まらせる余裕はありそうにない。今はとにかく宿に戻って、まずは女将にこの少年を知らないかきいてみよう。先のことはそれから考えればいい。そう、ルヤは判断したのだった。
天気の所為かいつもより日暮れが早く、空を埋め尽くす雨雲はいつの間にかくすんだ藍色の宵を村にもたらしていた。先程まで地面に敷物を敷いて商品を並べていた行商人達も、この雨を避けて何処かの屋根の下に引き揚げてしまったようだ。村の中を縫うように伸びる砂利道に人気は無く、古い石積みの家から漏れる火の光だけが朧気な雨景色を彩っていた。ある家からは楽しげな笑い声が、別の家からは母親に叱られて泣く子供の声が、村に一軒だけある素朴な酒場からは陽気な歌声と安らかなざわめきが奏でられる。
宿への道のりは、小さな村の煌めくような息吹で溢れていた。
今までなら、皆と一緒の時ならば心から素敵だと感じられたであろうその情景に、今は遠く、取り残されたような胸の痛みを覚えて、ルヤは強く唇を噛んだ。
また、あの頃と同じ気持ちになれる日々はやってくるのだろうか。
信じると決めたはずなのに、気が付くとその決意を手放しそうになっている自分から目を背けるように、ルヤはさっきから何一つ言葉を発していない少年を振り返った。
少年はルヤに手を引かれるまま、覚束ない足取りで歩きながら、通り過ぎていく家々の明かりを、珍しいものでも見るような目で、けれど、何かを探し求めているようにも見える目で追っていた。
ルヤは歩く速度を徐々に緩め、引いていた手をそっと離すと、少年の顔を覗き込むようにして立ち止まった。少し遅れてそれに気付き、少年も力のない瞳でルヤを見上げる。雨は、相変わらず地面を止めどなく叩いていて、少年が着ている分厚いローブはたっぷりと水を含んで重そうだ。それを見て、恐らく自分も相当酷い格好をしているのだろうと想像できたが、もう、ここまで全身水浸しになってしまうと、取り繕う気も起きなかった。
「この村の何処かに、あなたの家があるの?」
温かい光が漏れる家屋の集まりを仰ぎ見ながら、少年にもう一度、噛み砕くような調子で問い掛ける。
少年は何も言わず、さっきと同じように首を振ろうとしたが、ふと思い直したようにその動きを止めると、村の灯りの中に虚ろな視線を漂わせた。
「ここに、いたんだろうか……僕は」
そこに見える景色の、更に向こう、その奥まで見通そうとするような、少年の、遠すぎて、今にも音を立てて崩れてしまいそうな瞳の危うさに、ルヤは思わず息を呑んだ。
「……ずっと、あの赤い大地を歩いてきたように思うけど……分からない……でも、ここと……似た場所は何処かで、見た気がする……」
初めて少年が発した長い言葉の連なりには、所々、独特の発音が混じっていて、少なくともこの地方の出身ではないようであることが推察できた。
「そう……あなた、分からないの……本当に何も覚えていないの」
「覚えて……いない、そうか……僕は、覚えていないのか」
そのことにさえ今気付いたとでも言うように、けれど、別段驚く風でもなく、少年は一言一言確かめるように呟く。
「ねえ、その、ここに似た場所って、あなたにとって、どんなところだった?」
覚えていないと聞いたばかりなのに、僅かでもその瞳に光を宿して欲しくて、安心できる拠り所を胸の中に取り戻して欲しくて、何となくそう尋ねてしまったルヤの顔をぼんやりと眺めながら、少年は掴みきれない感覚をそのまま口から紡ぎ出すような調子で答えた。
「人と、明かりと、声……それは、嫌なものじゃなかった、ように思う……けれどそれは……もう遠くて、手が、とどかない……」
感情の籠もらない、抑揚のない声に乗せられた言葉だったのに、何故かルヤの胸には、その奥に閉じ込められた言いようのない重く激しい痛みが伝わってくるような気がした。気のせいなのかもしれない、けれど、思わず目を伏せ「そう」と短く返答すると、それ以上何も言わず黙って宙を見ている少年の手を強く握り直した。その手の感触に顔を上げた少年に、無言で微笑み掛けると、ひときわ大きく、明るい光を放っている建物を指差す。
「宿はあそこだよ、あの丘の上にある光。この道の一番奥にあるの」
少年は繋がれた手を無表情で見詰めてから、今度は先に行こうとしないルヤと並んで、示された光を目指し、ゆっくりと歩き出した。