一
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乾燥したこの地方にしては珍しく、どんよりと曇った重い空を宿屋の窓から見上げながら、ルヤは今日になってもう十数度目になる深い溜め息を吐いた。
旅の仲間の三人が、滞在するこのコロイ村からの依頼で近隣に出没するというスナヒョウ退治に赴いてから、今日で丸六日が過ぎようとしていた。
特に凶暴ということもないが、商人が寄りつかなくなるからという理由で頼まれた、それ程難しくもないはずの依頼だった。出発時は三日で帰ると言っていたのに、その倍近くの日にちが経過してしまった今も、待ち焦がれるルヤの思いとは裏腹に、彼らの姿は荒野の彼方に気配すら見えてこない。敵のねぐらを探すのに手間取っているにしても、そろそろ食糧や水だって尽きている頃のはずだ。それに、あの三人は放浪者としてかなりの経験を積んだ実力者であり、無茶な深追いは絶対にしない。そのことを長い付き合いでよく知っているルヤは、嫌な胸騒ぎを振り払うことができずにいた。
宿賃として支払う資金にも、そろそろ余裕がなくなってきている。
六日間といえど、放浪暮らしが長いルヤにとって、これ程一所に長く寝泊まりしたのは本当に久し振りだった。愛着など湧く暇もなく次の目的地に旅立つのが日常だった身としては、見慣れ始めたこの部屋に落ち着かないような違和感を感じる。
日干し煉瓦を土で塗り固めた、くすんだ淡茶の色味をした内壁に据え付けられている古めかしいランプが、窓が小さく昼夜を問わず薄暗い室内を柔らかい光で照らし出している。四日目までは当たり前のようにこの宿で三人の帰りを待つつもりでいた。だが、昨日を経て今日になり、明日の行方も定かではないことを認識せざるを得なくなった今では、皆で苦労して少しずつ溜めてきた旅の資金が目に見えて減っていくのが急に寂しく感じられて、もう、そろそろ宿を出た方がいいのかもしれないと考え始めていた。
綺麗に整った室内をぼんやりと眺めながら、もう一度痛みを伴う息を吐く。
胸の奥が、鉛を沈めたように重い。
もうすっかり体調は回復したと、剣の鍛錬も普段通りにこなしているのだと、帰ってきた彼らに得意げに報告するつもりだった数日前の自分が、やけに懐かしく感じられた。
それから暫く木の椅子の上に蹲って目を閉じていたルヤは、やがて響いた優しいノックの音で我に返った。
皆が帰って来たのではないかという、もう何度目かの期待を抱いて顔を上げ、急いで木のドアに駆け寄る。
そして、その期待は再び虚しく空を切った。
「やぁ、気分はどうかと思ってね。今、下でハニーパイが焼けたんだけど、どうだい? 少し気晴らしに降りてきてみたら」
ドアの外、明かり取りの窓から入るほんのりとした光を受けて通路に立っていたのは、この宿の女将、メルーアだった。
ふくよかな中年の女性で、人の良さそうな笑顔と、柔らかい響きの声が、大雑把な口調の中にも、品の良さのようなものを滲ませている。色白の肌から、この地方の人間ではないことが見て取れた。
「ハニーパイ……ですか?」
女将の意外な誘いに、戸惑う。
開いたドアの向こうから染み込むように漂ってくる、甘く、香ばしい匂いは、確かにハニーパイの香り。脳裏に蘇る、あの、懐かしくもない遠い過去の景色。都会の匂いだと、ルヤは感じた。
「あんたの故郷が、私と同じサラニアだと聞いていたからね。久し振りに焼いてみたんだよ、懐かしいだろう?」
その軽い調子の口振りに、ルヤは驚きを隠しきれずに女将の顔を見返した。簡単に言ってのけるが、ハニーパイを作るのに必要な蜂蜜は、特産地であるルヤの故郷でさえ高価な品だった。確かこの辺りでは相当な贅沢品で、簡単には手に入らないと聞いたことがある。
「そんな暗い顔して部屋に閉じこもってたって、気が滅入るばかりだろう? お仲間さん達が帰ってきて今のあんたの顔見たら、きっと驚いちまうよ」
女将の、その曇りのない朗らかな笑顔に、形式的で他人行儀な返事を喉元で掻き消されたルヤは、代わりにそっと微笑みを返した。
「……そうですね、こんなにふさぎ込んでいたら、帰ってきたみんなに、きっと笑われてしまいますね」
階下に降りて、食堂で口にしたハニーパイは、想像していたよりも甘く、懐かしい味がした。もう、忘れてしまいたかった生まれ故郷の味。思い出すことを避け続けたあの頃の思い出。それも、もう自分にとっては本当に遠い過去になったのだと、胸の奥に空いた、暗く、深い穴は、もう大分小さく塞がったのだと自覚することになった。そしてそれは同時に、自分をここまで引っ張り上げてくれた、ジェドルと、サーナと、ビスラの三人が、どれほど自分にとって大切な存在だったのかを実感することにも繋がっていた。
神妙な面持ちで、まるで儀式かなにかのようにハニーパイを一口一口噛み締めて食べているルヤの様子に、女将のメルーアは不安げな目をして尋ねてきた。
「あの……もしかして、不味かったかい? 正直に言ってくれて構わないよ? 偉そうに誘っといて何だけれど、本当に久し振りに焼いたから、味の方は自信が無いんだ」
その声で我に返り、現実に焦点を戻したルヤは、いつの間にか酷く申し訳なさそうに項垂れている女将の様子を見て、思わず吹き出してしまいそうになりながら首を振った。
「いいえ、私が子供の頃に食べたものよりずっと、温かくて、優しい味がします」
「温かくて、優しい味、か……それは褒め言葉と受け取っても良いのかい?」
少し戸惑ったように首を傾げる女将に、ルヤは深く頷いて見せた。
「はい。こんな素敵なお菓子に、私は久し振りに出会いました」
零れるような笑顔でそう言うルヤを見て、女将も柔らかく笑った。
「あんたには、本当に笑顔が似合うね。こんなに可愛いお嬢さんを置いて、お仲間さん達は何処にも行けないよ。きっともうすぐ帰ってくるだろうから、その笑顔で迎えておやり」
女将はまるで娘を愛おしむようにルヤの頭を撫でると、空いた皿を下げて厨房に戻っていった。
思い掛けず投げ掛けられた優しい言葉と、頭に残る温かい手の平の感触に、何だか鼻の奥がつんと痛くなるのを感じて、「ありがとう」と女将の後ろ姿に声を追わせると、溢れてくるものを抑えるように立ち上がり、ルヤは食堂を出た。
そして独りきりのあの暗い部屋に戻る途中、エントランスの開け放たれた扉から吹き込んでくる渇いた砂の香りに誘われるように、村を見渡せる高台の庭に出てみる。
そこには、皆でいた時と同じ空気が漂い、皆で見た時と同じ景色が何処までも広がっていた。
風を胸一杯に吸い込んで、ゆっくりとその景色の中に足を踏み出す。
きっともうすぐ帰ってくるだろう、皆を迎えに行くようなつもりで。