十八
十八
空を飾る満月が、すべての輪郭を淡く映し出す夜更け。
開け放たれた窓から差し込む金色を頬に受けながら、ロークは寝台の上で息を殺していた。
砂を踏み締めるふたつの足音が、静かに遠ざかっていく。
それを、ただ、強く唇を噛んで、聞いていた。
「行ったか……」
不意に、隣の寝台から呟かれた低い声に、はっと振り返ると、先程まで寝息を立てていたはずのユジフが、肘を突いて支えた顔をしかめていた。
「知ってたんですか? 彼女が、この道を選ぶこと」
尋ねると、彼は首を振った。
「いや、何も聞いちゃいねえ……お前は聞いてたのか?」
「僕も……何も……」
「……ったく、何もこんなコソコソ出て行くこたねえだろうに。俺達が一体誰の返事を待っていつまでもここに滞在してると思ってんだ」
「きっと、僕たちに言ったら、反対されると思ったんでしょうね……」
窓の外の暗闇に視線を戻し、黙り込むロークを、ユジフは意外そうに見上げた。
「大人しいもんだな、お前は、これでいいのか?」
「わかりません……でも、今の僕には、彼女が真剣に考えて出した答え以上の正しい道なんて、示すことが出来ませんから……」
歯切れ悪く言う苦しげなロークに、フーンと、大した感慨もなさそうに鼻を鳴らすと、ユジフは仰向けになって薄い布を体に掛け直す。
「しっかしわかんねえな……何でまた、わざわざ最初の二つより遙かに重圧のでかい、殺しも、別れもしないなんて最悪な第三の道を引っ張り出してくるんだか」
「夕食後、彼女に聞かれました……彼の、ラタンの中にいる、あの凶暴な少年が再び表面化することは有り得るのかと」
あの、死と隣り合わせの一戦を思い出したのだろう、ユジフは、顔色を変えてロークに目をやった。
「……へえ、なんて答えた」
「未知数だと、答えました……核同調による内的世界の操作は不安定なものだからと」
「確か、レギ、だったか……奴の本名を刻音としてあのイカレ野郎を封印したって言ってたが……そのことは教えてやったのか?」
「いえ、やはりそれだけは伏せておきました……教えればきっと彼女は躊躇うことなく彼の凶暴性を解放しようとするでしょうから……ただ、不安定だとだけ……実際、刻音を唱えなければ絶対に彼が目覚めないという保証もどこにもありませんしね……」
ユジフに語って聞かせながら、夕食を終えて部屋に戻ろうとする自分を呼び止めたルヤの顔が何かを覚悟したようなものだったことを思い出す。それが、何となく気になって、こうして真夜中まで眠らずにいた。
「なるほどな、お前のその返答が、あの女にとって小僧を連れてく最後の決め手になったわけか」
「……彼女は、あの狂気の少年が現れるのを待って復讐を遂げるつもりでしょうか」
美しいはずの満月の輝きを、妙に毒々しいものに感じながら、ロークは声を絞り出す。
同じことを考えているのだろうか、ユジフも胸が悪そうな顔をして、寝転がったまま窓の外を眺めていた。
「そんな方法を思いついちまった時点で、あの女が救われることは、もう二度となくなったんだろうな」
「そう、思いますか……」
「奴が出てくるのを待ってどうする? 出てきたところで、桁違いの力に一瞬で捻り潰されて終われるならまだいい、恐らくは死ぬことも許されず、奴の壮大な悪巧みの道具として利用されながら生き続けることになるんだろうよ。かといっていつまでも奴が目覚めなかったら? 家族同然の人間を殺した張本人が側で平然とうろついてるのを、殺意を抱えてひたすら見てなきゃならねえ。どのみち、そう長くは保たずに狂っちまうよ」
絶望と名付けるに相応しい、枝分かれした未来。それは、決して皮肉でも言い過ぎでもなく、彼女が歩んで行こうとしている道の先に、本当に待ち受けている出来事なのだろう。
床に落ちる月明かりを息を詰めて見下ろしていたロークは、暫くして思い立ったように寝台から立ち上がると、部屋の隅にまとめられた荷物に向かった。
何事かとその様を見守っていたユジフは、旅支度を調えているようにしか見えない後輩の名を、恐る恐るといった調子で呼び掛ける。
「ローク……?」
返事をする暇も惜しむように、瞬く間に旅装に身を包み終えたロークは、漸くユジフを振り返った。
「先輩、やっぱり僕、彼女たちを追い掛けます」
あんぐりと開いた口を無理矢理動かして、ユジフは制止を試みる。
「ちょっと待て! 追い掛けるってお前、まさか奴らについてくつもりか?」
「ええ、今追い掛けないと、後悔しそうな気がするんです。落ち着くまで話し相手になって、気を紛らわせてあげるくらいのことなら僕にも出来るでしょうし」
「待て待て……落ち着け、ローク……俺達には別の目的があるだろう? 大体、勝手に行方をくらましたら魔人扱いだぞ、わかってるのかお前」
「わかってます、だから先輩はこのこと、誤解のないよう院に帰って報告しておいてください。遠回りになるかもしれませんが、いずれはちゃんと儀式も果たして戻るつもりですから」
どうやら何を言ってもこの後輩に譲るつもりがないらしいことを悟り、ユジフは言葉を失った。そして、今度は鋭い目つきで、ロークの固い決意の表情を見据える。
「ローク、目を覚ませ、あの女に執着してるのはお前じゃない、あのジェドルって男だよ、長く奴と同調しすぎて、お前は混乱してるだけだ」
沈黙が、二人を包む。
ほんの少し、狼狽えたように泳いだロークの目は、瞼を閉じ、開いたときには既にユジフの尖った視線を受け止められる落ち着きを取り戻していた。
「先輩の言う通りなのかもしれません。でも、たとえそうだったとしても、きっとそのジェドルはもう僕の一部なんだと思います……これは、僕の意志なんですよ」
吹っ切ったように笑って、ロークは部屋を出て行った。
その迷いのない足音は、立ち止まることなくドアの向こうに消えていく。
「あの、バカ……!」
怒りに肩を震わせながら寝台を拳で殴りつけたユジフは、うんざりした顔で腰を上げると、部屋の片隅に残された自分の荷物に向かうのだった。