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十六

         十六


 辺りを包む宿泊客のざわめき、笑い声、食器が触れあう微かな金属音、食堂の中を歩き回る使用人達の忙しそうな靴音。全てが、戸を隔てた向こう側のように遠くに聞こえる中で、ルヤは朝食の配膳を終えて厨房に戻り、他に手伝える仕事はないかと調理場を見渡していた。

 洗い場に汚れた食器が残っているのを見付けて一歩踏み出そうとしたとき、目の前に、透明な黄褐色をした液体がつがれた陶器の器が差し出される。

 その、水仕事に荒れた色白の手の主を視線で辿ると、ここ数日で少しやつれただろうか、怒ったような、真面目な顔をした女将がルヤを見詰めていた。

「え、女将さん、これ……」

「蜂蜜と果物の汁を混ぜて作った特性ジュースだよ。朝早くから動き通しだろう? これでも飲んで一息入れな」

「蜂蜜と果物って……女将さんすぐこういうのくれますけど、お客さんにも滅多に出さない高級品ですよね? ……お願いですから、もうこんなことはやめてください。私、これ以上この宿にご迷惑を掛けたくないんです……」

「やめて欲しいんなら、そんな死人みたいな顔色で走り回ってるんじゃないよ。みんな言ってるよ、あんたのこと具合が悪そうだけど大丈夫なのかって……そんな無理して働かれたって、余計な心配事が増えるだけでそれこそ迷惑だよ」

 女将に言われて、思わず自分の頬に手を当てる。冷たく、強張った感触が伝わってきた。自分は今、そんなに酷い顔をしているのだろうか。こうして動き回っている間は、何も考えなくて済む分、一人でいるときよりは明るく振る舞えていると、何でもない顔をしていられると思っていたのに。

「……ごめんなさい……」

 確かに病人のような顔をした使用人がうろついていたら、宿の印象も悪くなる。しょげて、申し訳なさそうに項垂れるルヤに、女将は表情を和らげて首を振った。

「あんなことがあった昨日の今日だろう? 休んでろって言ってるのに聞かないで、朝から何も食べずに他人の倍は働いて……私を心配で倒れさせたくなかったら、そんなつまんない気を遣ってないでほら、飲みな」

 唇を噛んで頷き、そっと器の液体を口に含むと、控えめな甘さと、柑橘系の果実の程良い酸味が心地良く舌の上に広がっていく。この丁度良い甘さになるまで蜂蜜の加減に気を遣ったであろう、女将そのもののような優しい味に、ルヤは涙が出そうになった。

 朝起きたとき、自分は本当に独りになったのだと、強く感じた。ジェドルとの別れは、眠りから覚めると、まるで太陽の眩しさに身を潜めた月のように淡く胸に漂って、夢だったのではないかとさえ感じられた。そして、その代わりに、曖昧さを許さない強い光は全ての輪郭を濃く浮かび上がらせ、もう、自分を気に掛けてくれる人間も、心から大切に思えるものも、誰も何もなくなった、その現実まで、くっきりとルヤの心に影を落して過ぎ去っていく。遙か向こうまで続いていく、空白に塗り潰された明日が、もう、皆の帰りを待つ必要も、旅を続ける理由さえ、ないのだと、教えてくれた。

 胸に空いた、暗く、深い穴を覗き込むのを怖れるように、自分がこの世界に一人きりではないことを確かめようとするように、発作的に、宿の手伝いに打ち込んだ。使用人達は皆気の良い面々で、自分に声を掛けてくれた、仕事を与えてくれた。そうしている間は、やはり一人ではないと確認できた。だから、笑えていると思っていた、皆と居た頃の自分と同じ顔ができていると、思っていた。だが、違っていた。そう思い込みたかっただけだったのだと、指摘されて気付いた。使用人達と冗談を言い合っていても、こんなにも温かな女将の優しさに触れても、皆がいたときのようには笑えない。やはり、胸の穴は空いたままだった。自分は世界に、たった独りだった。

「ルヤ、聞いてるかい?」

 宙を見詰めて、時が止まったように動かないでいたルヤを、女将が顔を曇らせて覗き込んでいた。

「あ、ごめんなさい……何ですか?」

「……だからね、暫くここにいたらどうだいって言ってるんだよ」

「え?」

「気持ちが落ち着くまで、何だったら、元気になってからも、ずっとここで働いて暮らしたっていいんだ、一人くらいなら、使用人を増やす余裕はあるんだからね」

 言って、女将はおどけて胸を突き出し、拳で叩く真似をした。

 だが、ルヤは笑わなかった。予想だにしなかった申し出に、呆然と女将の笑顔を見返す。

 先のことをどうするか、具体的に決めていたわけではなかったが、どちらにしても早いうちにここを出るつもりだった。まさか、こんな都合良く、幸運な話が舞い込むなどとは、考えてもみなかったのだ。

「ここに……」

「今回のことは簡単に割り切れることじゃないし、悔しいかもしれないけど……ゆっくり時間を掛けて、また、一から始めたらいいじゃないか……そうすれば、いつか、元のように穏やかな気持ちになれる日が、きっとやってくるよ」

 柔らかな微笑みを湛えた女将の言葉を聞いていると、本当に、いつか、そんな安息が訪れるのかもしれないと、そう、思えた。母親のように優しく、心強い彼女の懐に飛び込んで、全てを預けて、この宿で、皮肉屋の主人と口喧嘩しながら、面倒見の良い使用人達と力を合わせて働きながら、一日一日を紡いでいけば、いつか、ここが、仲間と旅をしていたときと同じ大切な場所に、掛け替えのない家に、なっていくのかもしれない。

 そんな自分を、思い描いた。

 そういう自分も、あるのかもしれない。

 そして、その先に、ジェドルの言う、振り返ったとき残る何かだって、あるのかもしれない。

 思い浮かべるこの宿での穏やかな暮らしは、もう、二度と手に入らないと諦めていた幸せの世界に余りにも似ていて、他の全てを投げ打ってでも、今すぐに頷いて、女将の手を握って、その胸で泣き出してしまいたかった。

 そうすることが出来たなら、どんなに楽だろうと、どんなに、救われるだろうと思った。

 だが、その衝動を寸前のところで相殺する、投げ出せずに最後まで残った感情に気付いて、ルヤは、その、家族にもなれそうな、大好きな人の手を握ることが出来なかった。

 優しい明日を遮るように過ぎったのは、黒いローブの少年の、白い顔。

 仲間を――出会った出来事ひとつひとつに怒り、悲しみ、喜び、泣き、笑い、夢を語っていた彼らの生命を、何の痛みもなく踏み躙った、湧き上がる殺意の対象。そして、無表情で、生きることにすら執着しない、空虚の中を彷徨う、けれどその中で、誰かを、何かを探している、心を失った迷子。その二つの顔を同居させる、一人の少年の姿が、自分と、幸せな世界との狭間に、立ち塞がっていた。

 彼がいる限り、その存在を覚えている限り、もう自分は、心から穏やかになど、本当に幸せになど、生きられない気がした。そしてきっと、二人の僧に連れて行かれる少年の後ろ姿を黙って見送ったとしても、たとえこの手で迷子の子供を殺したとしても、以前のように、自分の心が完全に満たされる日は、もう、やってこないのだろう。

 だが、それでも、考えなければならなかった。

 自分の生き方を決める前に、その先の幸せを夢見る前に、世界から色を消し、唯一の色として残ったその存在に取るべき対応を。血まみれになっても、叫び狂いそうでも、目を逸らさずに見詰めて、選び取らなければ、視界を奪われて、何処へも、歩き出せないのだから。

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