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十五

        十五


 宿の壁面に背中を預けて、明晩には満ちそうな月を見上げながら、若いシトア教僧は深く息を吐いた。

「さよなら、ジェドルさん……」

 手にした鳴鍵の、音の鳴らない鐘で、鎮魂の律動を奏でる。

 昼間の焼け付くような暑さが嘘のような、ひんやりとした夜風に乗って、辺りに広がっていく、想いの残像。

「いったのか、奴は」

 不意にすぐ右手の壁、木の戸で閉め切られていた窓が音を立てて開き、寝癖頭の男が欠伸をしながら顔を出した。眠ったのを確認してから出てきたつもりだったのだが、気付かれていたようだ。やはり、この先輩術師には敵わないと、ロークは肩を竦めて鳴鍵を下ろした。

「ええ、漸く彼の強い心残りも和らぎ、真世界(しんせかい)に溶けていったようです……もう、これで彼は、彼女の心の中にしかいなくなりました」

「そうか、良かったな」

「……良かった……でしょうか、僕は、素直にそうは思えません。消えなくてもいい人間達の世界が消えて、彼女は、独りになってしまったんですから……」

「そんな不条理、この世の中には溢れ返ってる。そん中で、お前みたいなお人好しの覚醒者が通り掛かったお陰で死んだ人間と最後の別れを成し遂げられたんだ、あの女は相当の幸運の持ち主だと俺は思うね」

「ユジフ先輩……」

「普通はそんな都合良くいかねえよ……死んだ奴とは、それっきりだ」

 ユジフのくぐもった低い声が、岩と砂だけの殺風景な庭に響く。

 ロークはそっと、ユジフの顔を窺った。

 月明かりに照らされた眼下の村を眺めるその目には、珍しく、憂いが含まれているように感じられた。

「先輩にも、最後に言葉を交わしたかった人、いたんですか?」

 そう尋ねると、ユジフは面倒臭そうに頭を掻きながら「あー」と肯定とも否定ともつかない一文字を発して、それきり、後には何も続けなかった。滅多に自分のことを話そうとしない、この、若くして誓律士(せいりつし)の階級を持つ優秀な先輩から、昔話の一つでも聞き出せるかと期待したのだが、どうやら、その問いに答える気はないらしい。ロークは諦めて伸びをした。

「あとは……ラタンを王都に連れて行けば、落着ですね」

「まあ、あの女の判断次第だけどな」

 飄々と言ってのけるユジフを、ロークは複雑な面持ちで振り返った。

「先輩は……彼女がもし復讐することを選んだら、黙って、遂げさせるつもりですか」

「ああ、そのつもりだが。お前は違うのか?」

「彼女の気持ちは分かります……だけど、罪人は、すべからく王の前で裁かれなければならない……国の掟に、背くことになります……」

 それに、ルヤが自ら復讐を望んでいるのならともかく、敢えてこちらから、血で手を汚すような道を突き付ける必要はないのではないか。ロークには、この誰よりも面倒事を嫌うユジフが、彼女に今回のような選択を迫る意図が分からなかった。

「掟なんてのは、決めた奴の都合の良いように出来てるのが相場だ……ただ馬鹿正直に守るだけが正しいとは限らないぜ?」

「どういうこと、ですか……?」

 含みを持たせた彼の言い方に、首を傾げる。

「分からないか? あのガキが何者かは知らないが、持ってる力は尋常なもんじゃない。しかもだ、どういうわけかその力には、一般的な現操術とは異質な匂いが感じられるときてる。引き渡しても、果たして国がただの罪人として扱うかどうか怪しいもんだな……」

 彼が何を言わんとしているのかが今ひとつ読みとれず、まだ分からないという顔をするロークに、ユジフは呆れたように口元を歪めて息を吐く。

「あの小僧は、王様の大切な手駒になるかもしれねえってことだよ」

「な……」

 頭を殴られたような衝撃だった。

 思いも寄らなかった見解を述べるその怠そうな顔を、信じられない思いで見詰める。

「馬鹿な……ジューディ王は、そんな御方ではありません」

 現在このアトラ王国を治めるジューディ十二世は、百年に一人の名君とまで謳われる才人として知られている。前王ジューディ十一世が十五年前まで破竹の勢いで繰り広げていた侵略戦争を王位継承後早々に終結させ、他国のみならず、軍事力に雲泥の差があると思われる新大陸の国々とも巧みな交渉術で友好な関係を保つことに成功している。希に見る卓越した指導力と聡明さを兼ね備えた人格者であるとして、民からは賢王と親しまれる存在だ。その好意的な印象は、ロークの中にも深く刻み込まれている。

 だが、そんな舌が空回ったようなロークの反論を、ユジフの落ち着き払った声が切り捨てる。

「ああ、確かに民を想う、優しくて賢い王様なんだろうよ……だが、だからこそだ、何処にも属さない、何のしがらみもない強大な力を持ったあいつをただ黙って処刑させるとは思えねえ。民を愛する賢王様は、目下大切な自国を脅かす新大陸の連中に対抗する手段を血眼になって探しているんだろうからな」

 まるで何でもないことのように王に対する皮肉の言葉をさらりと口にするユジフを、ロークは凍り付いたように見据えていた。この何に対しても投げやりな態度の先輩術師は、自分が思っている以上に冷めた目で世界を眺めているのだと、心の底から実感させられる。この国に暮らす民の多くが、あの穏やかな面差しで微笑む偉大な指導者に心酔する中で、ここまで冷静且つ辛辣に賢王を批評する人間も珍しい。当のローク自身も例に漏れず、国益のためとはいえ、あの賢王が陰で重罪人を利用するような不正を行うなどとは考えたくなかったし、湧き上がった反発心が勝手にその可能性を否定する材料を探している。だが、こうして自分の信頼する人間に真っ正面から説き伏せられて、逃げ切れずに改めて慎重に考え直してみれば、確かにそれが、政治を取り仕切る上では賢明な判断なのかもしれないと気付く。

「……ま、俺としては別にどちらでもいいんだが……恐らく国に渡したら最後、もうあの小僧に簡単に手出しはできなくなるだろう。奴が公正に裁かれないのなら、あの女に奴を殺す権利を与えてやってもいいんじゃないかと思ってな」

 ユジフがそこまで考えていると知り、ただ既成概念に囚われて法を守ることしか考えていなかった浅はかな自分が情けなくなる。

「まあ、確かにこれは俺の勝手な判断だ。ローク、お前はどう考える?」

「……すみません……僕には、わかりません……」

 自分たちには太刀打ちできない、大きな壁が、目の前に立ち塞がったような気分だった。ラタンという存在の重大さを、今頃になって思い知らされる。それでは、何処へ連れて行っても、彼はその力を持つが故に、常に政治的思惑に利用され続けるのかもしれない。そして不意に蘇る、静かな闇と、白い部屋、表情のない白い服の人間達。あれは、もしかしたら、かつて彼を保有していた何処かの勢力だったのかもしれない。そして、もしそうならば、ラタンが今その勢力の中ではなくこの地に一人でいるということが一体何を意味するのか。急に、寒気がした。殺人狂の彼を生んだのは、何処に行っても存在する、自分の中にさえ見付けることができそうな、身勝手な世界からの眺めではないのか。漠然とそんな思いが胸に絡みつき、世界中の塵のような人間達を一斉に殺したいと声をあげて笑っていた、彼の中に眠っているもう一人のラタンの顔が強烈に思い出されて、頭から離れなかった。

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