十四
十四
白い輝きを降らす僅かに欠けた月が、小さな窓に切り取られた空に浮かんでいた。
日干し煉瓦で組まれた窓縁に頬杖を付き、その光に目を細めていたルヤは、ふと、眺め始めたときに比べ、ずいぶんと月が位置を変えていることに気付き室内を振り返った。
窓の外に、この微笑む空を見付けた頃に灯しておいた卓上のランプは油を切らして消え、隣室や廊下から仄かに染み込んできた低いざわめきも、いつの間にか静けさに取って代わられていた。
どのくらい、ここで、こうしていたのだろう。特に何かを考えていたわけでも、感傷に浸っていたわけでもない。ただ、月明かりを、その美しさを眺めていた。そうしている間は、嘘のように気持ちが楽だった。景色の中に身を委ねていると、自分がここにいて、息をしていることを忘れていられる。全ての重りをすり抜け、あの濃紺の空と同化していられる。けれど、その瞬間には必ず終わりがやって来て、心が、重りの沈み込むこの体の中に戻ってくると、やはり自分はあの空に浮かぶ月でも、降り注ぐ光でも、空でもなかったことを、思い出すのだった。
淡く照らし出された静かすぎる部屋の中で、思わず漏れた溜息を引きちぎるようにベッドに潜り込み目を閉じた。
あの後、谷から帰ってみると、村は大騒ぎになっていた。谷でラタンが起こした爆発の余波は離れたこの村にまで及んでいて、地響きで古い家屋が崩れるほどだったという。人々はこの世の終わりか、化け物の襲来かと、すっかり怯えきって、ルヤ達が谷の方にいたと知ると、村に入ってくるなと騒ぎ立て、乱闘に発展しかねない混乱ぶりだった。その場はロークとユジフが自分たちの身分を明かし、あれは自分たちが獣を追い払う為に放った現操術が起こした現象であり、この村に危害が及ぶことは一切ないと言って聞かせた為何とか収まったが、数日前のスナヒョウの一件もあり、皆一様に、どこか納得がいかないという顔をして、四人に向けられる異質なものを見るような視線が完全に消えることはなかった。宿に帰ると、夫妻に真剣な面差しで本当のことを言えと問いつめられ、内密にという条件付きでロークたちが彼らにだけは真実を話した。全てを知らされてからも、主人も女将も、持ち前の明るさでこれまでと何ら変わりない態度で接してくれたが、それはきっと気を遣ってくれているだけなのだろうと、ルヤには感じられた。実際、ふとした瞬間、ラタンを見る彼らの目は、明らかに恐怖のそれに変わっていた。それはそうだろう。いつまたこの少年が狂気に囚われ、周囲の人間を無差別に殺戮するという行為に及ばないとも限らないのだから。事実、もし目覚めてしまえば彼は何の躊躇いもなくそれを行うだろう。
そう長くは、ここに留まっていられない。二人の僧侶は、自分たちの目的地に向かう前にラタンを王都に連れて行き、彼の身を国に引き渡して判断を任せるつもりらしい。ラタンも、それに同意していると言っていた。話し合いの最後、それでいいかとユジフに尋ねられて、ルヤは、答えられなかった。仲間を奪った憎き敵であるラタン。出来ることならこの手で討ちたい。だが、自分には出来なかった。全くの無抵抗だったラタンに、あの、狂った子供を重ねて殺すことが出来なかった。それなら、彼らに任せて、国に重罰を下してもらう方がいいのかもしれない。話し合いの場に存在しながら、自ら言葉を発することなくぼんやりと座っている、透けてしまいそうななラタンを見ていると、怒りと、憎しみと、それを否定しようとする愛着のような感情が一斉に押し寄せて、気がおかしくなりそうだった。
結局、彼らの問い掛けに対する明確な答えが浮かんでくることのないまま、昨夜の会議は解散となったが、あんたがはっきりしなければ、それだけ周囲の人間が危険に晒されるということを忘れるなと、そう、ユジフに釘を刺された。
自室に戻り、明日の朝までには答えを出さなければと、窓の外を眺めているうちに、いつの間にか、その穏やかな景色に意識を吸い込まれていた。
あのまま、本当に空に吸い込まれて、いなくなってしまえたらよかった。
虚しい空想に苦笑して、疲れきった頭を何とか働かせようと努める。
自分はどうしたいのだろう。
ラタンをこの手で殺すことも、殺せず、手放して、断罪を他人の手に委ねることも、どちらも、張り裂けそうな苦痛だった。
どちらを選んだ先にも、希望も、安息も、見えない。
それでも、選ばなければならない。
何度目かの堂々巡りを経て、ふと、我に返る。
こんな、世界が終わるような心持ちで迷い悩んでいるのは、人を殺すか、別の何かに殺させるか。
滑稽だった。
自分は、何をしているのだろう。
疾うに皆と旅立っているはずだった、この場所で。
「……ビスラ……サーナ……」
いつの間にか、頬に力が入っている。
何もかもが、狂ってしまった。
彼らがいなくなる前と同じようにそこにあるはずの世界は、以前とは比べものにならないくらいに閑散とし、寂れ、漂う空気には毒が含まれているように息苦しい。
絞り出される涙だけが、自分の中に残った温かなもののようだった。
「ジェドル……帰ってきてよ……お願いだから……!」
強く、強く、目を閉じて、そう、望んだ。
願わずにはいられなかった。
気が済むまで、空に手を伸ばさなければ、諦めきれなかった。
あと何回、自分はこうして、願わなければならないのだろう。
あと何回、失望を繰り返せば、自分は願うことをやめるんだろう。
誰かの手が、頭に乗せられる感覚。
錯覚だと分かっていても、薄く、瞼を開いてみる。
そこに、ジェドルがいてくれることを、心から切望して。
「いつまでガキみたいに泣きべそかいてんだ、バカ」
呆れたような顔が、自分を見下ろしていた。
息が止まって、声にならない声が、零れた。
ぱくぱくと口だけを動かす自分を見て、眉を寄せる、彼。
ベッドに足を組んで腰掛け、目の前で手の平をひらひらと舞わせている、その姿は――
「……ジェ、ドル……」
「おう」
にっと笑う、その、笑顔。
何を引き替えにしてもいいと、望んでいた、笑顔。
どうして、ここに、いるのか。
本当に、いるのか。
それとも、これは、夢なのか。
幻なのか。
どんな疑問を投げ掛けるより先に、ルヤは、その懐かしい体に抱きついて、泣き叫んだ。
夢なら覚めてしまう前に。
幻なら、消えてしまう前に。
ジェドルは、しっかりと抱き締め返してくれた。
なかなか泣き止まないルヤの頭を、強く抱きかかえてくれた。
「ルヤ……もう泣くな」
「……よかった、帰ってきた……ジェドルが帰ってきた……私、怖かった……独りぼっちになったと思ってた」
「ルヤ……」
「生きてたんだね……あの二人は、ジェドルの生死をしっかり確認してなかっただけだったんだ」
ジェドルの体に傷が一つもないことも、長旅に疲れた様子がないことも、ルヤには、見えなかった。敢えて、視界の中に入れないようにしていたのかもしれない。
「ルヤ……違うんだ」
「ジェドル……?」
ジェドルは小さく息を吐くと、一瞬迷うように伏せていた目を、静かに、不安そうなルヤに向けた。
「奴らの、言う通りなんだ……」
「…………」
「思い出したんだよ、全部。俺を、最後まで生かそうとしてくれたあの術師の力で、今は、ここにいるんだ」
「……嘘」
「お前に、言いたいことあって」
「嘘!」
やはり、自分は、独りだというのか。
これは、最後の別れだと。
そう、言うのか。
「嫌だ、もう私の前からいなくならないでジェドル! 私、ジェドルがいないと、ビスラと、サーナと一緒じゃないとダメなの……!」
「ルヤ、俺達だって、出来るならお前と一緒にいたい、あの術師の中にいるときは必死にそう願ってた……だが、仕方ないんだ……俺達はもう、お前と同じところには戻れない」
「じゃあ、私もそこに行く、みんながいるところに……そこに行けば、またみんなに会えるんでしょう? ロークが言ってたことは、私を励ます為の嘘だったんだよね?」
「……あいつの言ってることは、本当だ……」
重苦しいジェドルの声が、ルヤの中に僅かに灯っていた最後の希望を摘み取る。
「……何で……嘘でも、会えるって言ってよ……死んだら、みんなのところに行けるって、待ってるから早く来いって……言ってよ……お願い……苦しいの……独りでいるのは、苦しくて、苦しすぎて……おかしくなりそうなの……」
ジェドルを見詰める見開いた瞳から、次々に、滴が溢れては落ちる。
ジェドルは、今までに見たことのない厳めしい顔をして何かを堪えるように強く唇を噛んでいた。そして、それでも、ルヤから視線を逸らすことなく、言葉を返す。
「お前が生きて、俺達のことを、時々、思い出してくれることしか、もう、俺達が全員集まれる方法がないんだ……一緒にいるには、もう、それしかないんだ……ルヤ」
どうして、そんな言い方をするのだ。
それは、もう二度と会えないということではないのか。
手で顔を覆い、ルヤは、泣き声を上げた。
そんな方法ではなく、自分は、新しい彼らを見たいのだ。
未来に突き進む彼らを見たいのだ。
自分の隣を、笑いながら歩いて欲しいのだ。
喉元まで湧き上がった我が儘は、全て、言葉ではない咆吼に変わる。
「ルヤ、お前は生きろ、俺達がなくしたもの、簡単に捨てるな」
「……ジェドル……だけど、だけど私は、みんながいて初めて、生きる意味を見付けたの……それを失った……これから生きていても、もう、私にはなにもないんだよ……」
「いい加減にしろ、ルヤ!」
強い語調で、ジェドルが、涙混じりのルヤの訴えを断ち切った。
「お前がこの旅についてくるって言い出したのは、そうやって俺達に甘えるためか? 違うだろうが……! 空っぽのまま自分を終わらせねえためだろうが! 死ぬ気で生きて、最後に振り返ったときに残る何かを見付けるためだろうが……! 今のお前は、あの時、何も掴もうとせず泣いてた、空っぽのガキのまま変わっちゃいねえよ」
「ジェドル……」
それは、出会った頃、自分の送る一生には何もない、空っぽなのだと自暴自棄になっていたルヤに、まだ少年だったジェドルが掛けてくれた言葉。
死ぬ気になって生きて、望むものに手を伸ばせば、どんな一生も空っぽにはならない、何かが、必ず残る、そう、言ってくれた。
もう一度、最初から生きてみようと、思わせてくれた言葉。
「覚えてて、くれたんだね……」
「バーカ、忘れるわけねえだろ、俺様の名言なんだからな」
照れ隠しのようにそう言いながら鼻の頭を掻く、いつも通りのひねくれたジェドル。
まるで、いなくなるなんて、何かの冗談みたいに。
「ねえ、あなたにはあった……? 振り返って、残るもの」
こんなことを聞くのは残酷だと、分かっていて、ルヤは尋ねた。
彼は、きっと志半ばで命を落とした。
だが、彼が、もし何もないと答えたら、自分にも見付けられないと言い張って、後を追う口実を作れるのではないか。そんな、弱く愚かな思惑があることに気付く様子もなく、ジェドルは一拍の間を置いて、ルヤに笑い掛け頷いた。
「……ああ、あったな」
その清々しげな表情が、意外だった。
突然命を奪われた彼の中に、残ったものとは、一体何なのか。
首を傾げている自分に、ジェドルの指が向けられた。
「お前だよ」
「え……」
「……お前に会えた。お前と出会う前は、俺は、目に見えない何かを探してる気持ちが強かった。だが、お前と会って、一緒に旅してるうちに、もう、生きる意味とか、自分がどうしたいとか、そんなに貪欲には探さなくなってたんだよ……それは、ビスラも、サーナも、多分同じだ」
「ジェドル」
「じゃあな、ルヤ……会いたかったら、思い出せ、俺達はそこにいる……それで、生きて、自分だけの最後に残るもの、探し出せ」
「待ってジェドル!」
薄らいでいくジェドルに触れようとして、手が、空を掴んだ。
最後に、伝えたかった。
「ジェドル、私、あなたのこと……」
言い終わらないうちに、ジェドルは、少しだけ笑って、見えなくなった。
彼の立っていた暗闇を抱き締める。
目を閉じると、たくさんの思い出が溢れた。
その思い出の分だけ、涙が、止まらなかった。
これだけたくさん覚えてれば、いつでも、会えるんだ。
そう、心の中で、何度も、何度も、呟いて。
寂しくないのだと、悲しくないのだと、自分に思い込ませようとした。
そうしなければ、今すぐに、ジェドルとの約束を破って、瓦礫のように変わり果てたこの世界を捨て、彼を追い掛けてしまいそうだった――