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十三

        十三


 吐き気を催すような気味の悪い夢から目覚めると、もうそれがどんな夢だったのか忘れていた。頭を振りながら肘を突き上半身を起こそうとして、砂の匂いとその感触に飛び起きる。手の中にナイフがなくなっていることに気付き地面に目を這わせるルヤの頭上から、怠そうな男の声が降ってきた。

「これか」

 顔を上げると、痩せたローブの男、宿でユジフと名乗っていた態度の悪いシトア教僧が、離れた砂地に落ちているナイフを刃の部分を慎重に掴みながら、拾い上げていた。

 周囲に流れる空気がガラリと変貌していることに漸く気付き、呆然とする。

 確か、自分はラタンとここで、命のやりとりをしていたのではなかったか。

「あんた、あの小僧に気絶させられてたんだよ……まったく、とんでもないガキだぜ、あんだけの力を完全に制御してやがるんだからな」

 ナイフを持って近付いてきたユジフに、息をするのも忘れて詰め寄る。

「ラタンはどこ」

 あれだけ辺りに満ちていた、体に絡みついてくるような重く、暗く、死臭さえ漂っていた空気が、跡形もなく消えている。自分が気を失っている間に、彼らがラタンを始末したということだろうか。もしそうならば、仲間の敵を自分の手で取れなかったことはルヤにとって悔やむべきことだった。

「奴なら、あそこだ」

 ユジフの視線を素早く辿ると、少し遠い位置にある崩れかけた岩の前、丁度こちらを振り返ろうとしているロークの向こう側で、彼と向かい合う形で棒立ちになっている黒いローブの少年が、ルヤの方を真っ直ぐに見詰めていた。

 ロークに促されるようにしてゆっくりと歩き出し、こちらに近付いてくる少年の姿は、ルヤの良く知るものだった。

 そこにいるはずなのに、本当は遠くにいるような、透けてしまいそうな佇まい。

 悲しみも、喜びも、怒りも、何一つ映さない、白い顔。

 声をなくしているルヤを、ユジフがちらりと見やる。

「ロークとの核同調後、ぶっ倒れて、目覚めてからはあの通りだ……」

「どういうこと……何をしたの、ラタンに」

「さあな、色々と複雑らしいが、俺には覚醒者の才が無いからな、ロークの感覚的な話はいまいち実感として伝わってこねえ。今も小僧とロークのちんぷんかんぷんな話し合いから逃げてきたとこだ」

「また、全部、忘れたってこと……?」

 無感情な声が、勝手に口から漏れた。

 ビスラを殺したことも。

 サーナを殺したことも。

 ジェドルを殺したことも。

 自分を裏切ったことも。

 忘れて、こうして平然と目の前にやってくるのなら。

 なんて、幸せなんだろう、この存在は。

「彼の場合、ただ忘れているという単純な状態ではないようです」

 虚ろな目をしたラタンを連れて、すぐ傍まで歩いてきたロークが、ルヤの誰にともなく呟いた問いに応じる。

「彼の内的世界は、過去に受けた何らかの耐え難い苦痛によって深い損傷を負っています……世界をいくつにも分け、その衝撃を分散させることで崩壊を免れている……さっきの、凶暴性を前面に押し出した彼も、そして、ここにいる全てを忘れ去った彼も、恐らく、その分けられた世界の一つに過ぎないのではないかと、僕は感じました……」

「内的世界を分ける……そんなことが可能なのか……?」

「僕も、こんな例に出会ったのは初めてで、はっきりとしたことはわかりませんが……意図的に分けたと言うよりは、彼の深層意識が崩壊を怖れる余り、苦し紛れに引き裂いた……どちらかというと、そんな印象ですね」

 二人の専門的な会話は続いていく。

 彼の世界が分かれるきっかけとなった出来事とは何か。分かれた世界のどれが本来の彼なのか、どれもそうではないのか、また元の一つに戻ることはあり得るのか。そもそも、彼はどういった経歴の人物なのか、何故、ここにいるのか、保護すべき者は近くにいるのか。移り変わっていく疑問に対するロークの回答はどれもこれも抽象的、断片的なもので、ラタンという人物像の漠然とした輪郭しか伝わってこない。それでも、きっと昨日までの自分なら、理解できるまでしつこくロークに質問を重ねたのだろう。ラタンが、温かな場所に戻れる方法を必死に模索したのだろう。だが、今のルヤにとってそれら細かな御託を理解することに、大した意味は感じられなかった。全てを忘れた今のラタンと、さっきの狂った子供、そのどちらが本来の人格であろうと、なかろうと、たとえ彼が目を覆うような悲惨な過去を背負い、重大な秘密を抱えていようと、もう興味などなかった。問題なのは、自分がラタンと名付けた、この、たった一つの体を持った得体の知れない子供が、自分の生きる意味でもあった大切な人間の命を奪ったのか、そうでないのか、それだけなのだから。

「ラタン……もうすっかり、私のよく知ってるあなたに戻ったんだね」

 ロークの一歩後ろで大人しく話に耳を傾けている、さっきとは別人のようなラタンをぼんやりと眺めているうちに、続いていた二人の僧の会話を遮るような形で、そんな一本調子の声が口から零れていた。

 自分がどんな表情をしているのか、想像もつかない。微笑んでいるのか、醜く顔を歪めているのか。

 呼び掛けられると、ラタンは、ほとんど微動だにしないまま、音もなく視線を上げて、あの、何も映そうとしない漆黒の瞳にルヤを映した。

 太陽の輝く音が聞こえてきそうな静寂は、先程まで爆音と閃光入り乱れていた崖縁を、別の場所に変えていた。そこに佇む少年が、さっきの、何か、別の生き物のような禍々しさを垂れ流す、人型をした何かと同一の存在だということが、信じられない程に。

「……あなたが、待っていた人……殺したんだね、僕が」

 それは、紛れもなくこの十日間共にあった、あの、無表情のラタン。

「覚えているの?」

 感情を含まない自動的な声が、間髪入れずに問い掛ける。

 ラタンは、ルヤから瞳を逸らさないまま、首を横に振った。

「……昨日、寝台に入ったところまでは覚えている。気が付いたら、ここで寝ていた」

 言葉が、出なかった。

 頭が、白い靄で満たされ、はち切れそうになる。

「やはり、信じる価値など無い人間だった……僕は……」

 そう発する少年に、苛立ちに似た違和感を覚えた。

 どうして、こんな時でさえ彼は、声に感情を込めないのだろう。

 悲しそうな顔一つしないのだろう。

 すまなそうな顔一つしないのだろう。

 感じ取れるのは、ほんの微かな、寂しさの色だけ。

「……僕の中にあるのは、ただ、人を殺し……人を不幸にした過去と記憶……それだけ、だった」

 そう呟いて遠い目をするラタンを、見開いた眼球が視界に閉じ込めたまま、動こうとしなかった。この少年にとって、自分の仲間の命を奪ったことは、やはり、実感の湧かない、遠い世界の出来事なのだろうか。聞かされて、納得しただけの、覚えのない、自分ではない、別の誰かがやったことなのだろうか。

「なにを、他人事みたいに言ってるの……?」

 ユジフの手から乱暴にナイフをひったくり、勢い良くラタンとの距離を詰める。後退ろうともせず、ぼんやりと佇んだままの少年の胸ぐらを掴み、信じて、信じて、信じ続けた先に生まれた怒りを、やりようのない悲しみを、どこまでも続く絶望を、全て叩き付けるように激しく揺さぶった。

「あなたが殺したんだよ! 私の大切な、大切な、ずっと一緒で、これからも一緒にいるはずだった、ジェドルを、ビスラを、サーナを! 分かる? 殺したんだよ、あなたが、この手で! ただ、忘れてるだけで、大した意味もなくこの世界からみんなを消したんだよ! そのあなたが、なんで、そんな平気な顔で生きてるの? どうして、何も知りませんでしたみたいな顔してられるの? ずるいよ……! みんなを返して、返してよ!」

 このとき、初めて、ラタンが痛みに耐えるように目を細めた。

 だが、それが何だというのだ。

 痛むのなんか、当たり前だ。

 傷付くなんて、見当違いだ。

 殺された三人はそんな痛みどころじゃなかった。

 理由もなく未来を奪われ、生命をもぎ取られた痛みに比べたら、なんて、軽い。

「ラタン、私はあなたを許せない」

 漆黒の髪を掴み、白い首元に、ナイフを当てる。

 それでも、少年は抵抗する素振りすら見せない。

 ルヤの憎しみに満ちた眼光を受け取りながら、その向こうにある、別の何かを見ているような、ガラス玉のような、瞳。

「殺したらいい」

「…………」

 どこまでも感情を示さない彼にとって、殺されるということも、石ころを道端に投げ捨てるのと変わらない、取るに足らない出来事なのかもしれない。

 頭の隅でそんなことを思いながら、この、哀れで、許し難い子供に、最後の言葉を掛ける。

「死ぬ前に、言いたいことはないの? あるなら、聞いてあげる」

 互いの額が触れ合いそうなほど近くで、やはり無感情な目のままじっとこちらを見詰めるラタンを睨みながら、この少年に言い残すほどの何かがあるはずがないと、自分の言動を馬鹿らしく思った。

 空っぽなのだ、彼は。

 躊躇いなく、刃を滑らせようと力を込める――

「僕を生んだのはあなただ、ルヤ……死ぬときは、こうして、あなたに望まれて終わるのが、きっと僕には、一番相応しい……」

 込めたはずの力が、刃を動かさなかった。

 どうしてなのか分からず、思わず首を傾げる。

 だから、何だというのだ。

 自分が名前を付けたことで、言葉を掛けたことで、彼が生まれたからといって、それに、どんな意味があるというのだ。

 名前を気に入らないかと覗き込むと、照れたように逸らされた瞳。

 無理をして明るく振る舞うな、壊れてしまうと、自分を心配した表情。

 無機質の中の微かな笑顔。

 それが、何だというのだ。

 この少年はジェドルを殺した、ビスラを殺した、サーナを殺した。

 自分が今、この刃を引かない理由になどならない。

「早く」

 ラタンが、自分で刃に手を当て、強く押し付けて滑らせる。

 白い喉元を伝う、一筋の血。後を追うようにして、二筋――

 三筋目が、大きな川になって初めの二筋を呑み込んでいく。

「いやあぁぁっ!」

 地面に落ちたナイフが、岩の上で、虚しくくるくると回転していた。

 激しく息を切らして、数歩後退りながら、視線は少年の傷を確認する。血は止まっていなかったが、命に関わる深さではないようだった。

 それを見て、どこかで安心している自分に気付き、不意に、胃の中の物が逆流しそうになって口元を両手で押さえる。

 どうしてか、湧き上がってくる涙を止めようとして、喉の奥から低い呻きが漏れた。

 苦しかった。

 どんなに泣き叫んでも、もう、誰も救いに来てくれないこの世界が。

 胸の中で際限無く膨張していく、この、どす黒いうねりが。

 仲間を裏切る自分が。

 どうしてか、独りで生きている、この体が。

 自分の内側が、みしみしと音を立てて軋んでいく。

 ただ、立っていることさえ、伴う痛みでままならない。

 ぼやけて役に立たない視界に頼らず、風の鳴き声が聞こえる方向にゆっくりと歩き出す。

 何故、自分はそこに向かうのか。

 深く考えることも、もう、したくなかった。

 その力が、残っていなかった。

 ただ、この苦しみが終わる場所を求めて。

 何の覚悟も、思い切りもなく、ただ、足下が無くなるところを目指して歩く。

 後一歩というところで腕を掴まれたことに気付いたのは、いつまで歩を進めても目前にある闇に体が飛び込んでいかないことを認識したからだった。

「離して」

「本当に、いいんですか……これで」

 幼さの残る柔和な顔立ちに、怒っているような、泣きそうになっているようにも見える真剣な表情を浮かべてルヤの腕をしっかりと掴んでいたのは、ロークだった。

「もう、ジェドルともビスラとも、サーナとも会えなくて、私から、みんなから、全てを奪った敵を殺すことも出来ないなら、もう、この世界にいる意味なんてない! みんなと同じところに行くの、行かせて、お願い……!」

「ここから落ちても、同じところへは行けません」

「でたらめ言わないで、そんなこと、あなたに分かるわけない!」

「僕は覚醒者だから、少しだけ分かるんです。今ここで死んでも、あなたが仲間に会うことは出来ない……ただ、その苦しみが続くだけです」

「じゃあ、どうしたらいいの……? 何を支えにして、立ち上がったらいいの……? 何もないの……つかまれるものが、何も……立てないの……!」

 ロークの腕を振りほどこうとして、力が入らず、涙が落ちた。

この若い術師は、それでも自力で立ち上がれと言うのだろうか。

 立ち上がる力なんて、もう、入らないのに。

 ただ、倒れているだけで、こんなにも、苦しいのに。

「何も支えがないなんて、嘘です……」

 彼の声が紡いだ、一言。

 思わず、ロークの、包み込むような、光を浴びて藍に澄む瞳を見返した。

「それだけ彼らを大切に思えるのなら……その気持ちを――彼らとの思い出を、支えにしてみたら、いいんじゃないでしょうか」

「……おもい……で」

「楽しかった思い出、嬉しかった思い出、辛い思い出だっていいです、彼らが死んでしまっても、それは、あなたの中にしっかりと残っているんでしょう? それにつかまって、立ち上がることは出来ませんか?」

 皆との、思い出を支えに――

 そんなこと、思い付きも、しなかった。

 楽しい思い出も、嬉しい思い出も、仲間のことを思い出しただけで、悲しくなる気がしていた。けれどそれは、確かにルヤの中でたったひとつ、心から信じられる、優しく、美しく、温かな、決して色褪せないものだった。

「ここで死んでしまったら、その思い出まで失われてしまいます……どうか、手放さないであげてください……」

 涙が、崖の岩に幾粒も染み込んでいく。

 その様を、膝を突いて嗚咽に咽びながら、いつまでも見ていた。

 自分は、生きていくのだろうか。

 誰もいなくなった、この世界で。

 どんなに待ち続けても、もう、彼らに再び会える日はやって来ないのに。

 耐え難いこの痛みは変わることなく、きっと生きていく限りこの身を蝕み続けるのに。

 この術師の言葉を信じて、たったひとつ自分に残された、思い出の中にいる彼らを胸に抱き続けることを、選ぼうとしているのだろうか――

「僕も同じでした、今のあなたと……でも、今ではここまで生きてきて良かったと、そう思います……」

 気休めにしか聞こえない言葉だった。

 こんなに穏やかな表情をする彼に、自分ほど苦しんだ経験があるとは思えない。

 ただ、そう言ったときの彼の微笑みは、涙で乱反射した光に飾られて、眩いほどに綺麗だと、喉を引きつらせ、声をあげて泣きながら、それだけ、ルヤは感じていた。

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