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十一

         十一


 頬に吹き上げる風に、ふと我に返ると、谷を見下ろしていた。

 底を隔てる闇が、まだ世界に色があったことを思い出させてくれる。

 中間地点に穴が空いた、強風に揺れる頼り無い吊り橋。

 鮮明に蘇るのは、あの旅の光景。

 へっぴり腰で恐る恐る橋を渡る、真っ青な顔をしたビスラと、情けないと文句を言いながらも彼を支えるサーナ。大人げのかけらもなく、わざと揺らすように駆け渡り、指さして笑いながらビスラを振り返っているうちに、あの腐り落ちた足場の穴に思い切り足を突っ込んだジェドル。あんなに切羽詰まった、余裕の無いジェドルの顔を見たのは初めてだったかもしれない。思い返して、零れた笑いが、風に攫われていく。

 あれが、最初で最後だったというのだろうか。

 彼らの新しい表情を見ることも、もう――

 日差しが、日除けを被っていない髪に直接当たり、こめかみが焼けるように熱かった。

 眩しさに、目が涙の膜を張る。

 明日になっても、明後日になっても、何年、何十年待っても、もう、彼らと過ごす日がやってくることはないのだろうか。ただ、こんな突き放すような眩しい朝と、誰もいない静かな夜更けが、数え切れないほど繰り返されるだけなのだろうか。

 それは、途方もない痛み。

 膜が目の中に収まりきらず、頬を伝って、地面に落ちる。その一粒を、容赦のない太陽が、瞬く間に空に溶かしていった。力が抜けて、膝をつき、手元の砂を掴む。強く、強く。さらさらと手応えのない感触を残して、指の隙間から広大な世界の一部に還っていく、何万の粒たち。それを見ていると、涙が、後から後から溢れてきた。自分は何を感じ、何をすればいいだろう。皆がいなくなった世界に、意味が見付けられない。嗚咽が喉を塞ぎ、内側に降る雨の断片が、乾いた砂の上に落ちては消える。この痛みの向こうに、一体何があるというのだろう。何もないところから、彼らに掬いあげられて、また、何もないところに放り出されて。改めて考えると、自分の生の中には、彼らという存在以外何もなかったことに気付く。奇跡的に自分の前に現れ、世界の意味をくれた彼ら。

 奇跡は、もう起こらない。

 唸る風が、そう耳打ちして去っていく。

 涙で汚れた顔を上げ、地面の終わる場所を見る。

 最初から、あの先が、自分のいるべきところだったのかもしれない。

 ただ、夢を見ていただけで。

 自分は生きられると、安息と、幸福を、手に入れられると。

 こんな風に、何もない自分だけが取り残される未来が、用意されているとも知らずに。

 崩れ落ちそうな崖の縁で立ち止まり、咆吼をあげる暗闇を見詰めた。

 何故、自分も彼らと一緒に終われなかったのだろう。

 それならば、きっと悔いなんてなかった。

 皆と共に死ねるなら、それだけでも幸せだったと言えたのに。

 どうして、独りで。

 彼らと共に生に幕を引くという些細な我が儘も、許されなかったのだろう。

 自嘲気味に笑って、空に踏み出そうとした、時――

 ぐいと、手を引かれ、後ろに引き戻される。

 尻餅を付きそうになりながら、何とか踏み止まり、もう、別れを告げたつもりだった世界を振り返る。そこに、色のない景色に、ルヤの手を握って立っていたのは、黒髪に、白い肌、漆黒のローブを纏った少年だった。

「ラタン」

 熱い風が吹き抜けて、向かい合った二人の髪が舞い上がる。

「ラタン……どうして、こんなところに……」

 彼を前にして、今更、居た堪れない思いに駆られる。

 闇の中、手探りで、失くした自分を探しているラタン。

 それでも、自分を不器用に励ましてくれたラタン。

 彼の目に、今の自分は、どう映っているのだろう。

 口ばかり偉そうな、情けない姉だろうか。

 弱く、滑稽な、蔑むべき大人だろうか。

 自分に向けられているであろう、あの真っ直ぐな瞳に、視線を向けることさえ出来ない。

 と、不意に、抑えきれずに漏れ出したような、喉を鳴らす笑いが、風に紛れて耳に届く。

 顔を上げながら、空耳だろうと、思った――

「困るなあ」

 嘲笑を含む、声。

 まるで別人のような薄笑いを浮かべ、顔を歪ませている、彼。

 その様を暫く眺めてから、さっきの笑い声が空耳ではなかったのだと認識する。

 そこに、無表情で、無垢な目をした、ルヤのよく知るラタンはいなかった。

「あんたにこんな簡単に死なれたら、計画が台無しだよ」

 得体の知れない、不穏な圧迫感を放つ少年。

 周囲の空気が、様変わりしていく。

「ラタン……?」

「何の為に我慢してあの術師を生かしてやったのかわかんなくなる……あんたには、もう少し役に立ってもらわなくちゃ……」

 瞬きするのも忘れて、次々と入れ代わる表情を目で追う。

「死ぬのは、それからでも遅くないだろ?」

 これは、一体誰なのだろう。

 繋いだ手を引き寄せ、顔を覗き込んでくる傲慢に満ちたその目付きからは、数日前、壊れてしまうと自分を心配してくれたラタンを連想することが出来ない。

「どういう、こと……」

 頭を掠めたのは、彼が、記憶を取り戻したのではないかという想像だった。

 そうでなければ、同じ顔をした別人だとしか考えられない。それくらい、これまでルヤと接してきたラタンとは、言葉使いも、佇まいも、姿以外の全てが、違い過ぎていた。

「ラタンあなた、記憶が……」

 ルヤの手を離して、ラタンは再び、腹の底から可笑しそうにクックと笑い出す。

「ラタンか、良い名前を付けてもらったね! 捨てたもんじゃないな、あの抜け殻も」

「ラタン、あなたどうしちゃったの?」

 一体何を取り戻したら、こんなにも子供らしからぬ毒々しさを醸し出せるというのか。

「どうもしてないよ、これが本来のオレ、全部思い出したオレなんだよ。がっかりした? あんた好みの聞き分けの良い子供じゃなくて」

 何がそんなに可笑しいのか、狂ったように声を張り上げて笑う、ラタン。

「ああ、そういえば知りたがってたね、あんたの仲間がどうなったのか」

「え……?」

 意外な発言に目を見開く。当時三人の側にいた術師というのは、さっきのロークとユジフという二人だけではなかったのか。

「素晴らしく有意義だったよ、あいつらの死は」

 的外れの考えが、遮断される。

「脆すぎてつまんなかったけど……あいつら、他の役立たずとは違ったよ……あんたみたいな絶好の研究対象、残してくれてたんだからね」

 周囲から、音と光が消えていく。

 視線が、色褪せた少年の姿だけを捕らえたまま、離さなかった。

「あな……たが」

 頭の芯を反響した自分の声が、そのまま甲高い耳鳴りとなって残る。

「へえ、やっぱりだ」

 興味深そうに口元に手をやり、身を乗り出してラタンは淀んだ瞳を光らせる。

「あなたがやったの……みんなを殺したの……ラタン」

 視界が揺れ、震える。

 続いていくはずだった、皆のいた世界を。

 自分の、行く末を。

 こんなに、歪ませたのは――

「ラタン」

「そう……そのまま、そこに踏み止まっててよ……狂いそうで、狂わない、ギリギリのところで耐えてる今のあんたが発してるその振れ、それが、オレの望む触媒だ」

「答えて、ラタン!」

「あんたの仲間の女、あれはダメだった、すぐおかしくなっちゃってさ、ああなると、もう使い物にならない」

「……!」

「あの女の恋人か何か? 庇ってんだか何だか、正面飛び出してきて真っ先に死んだ男。発狂するとさ、不思議なことに、それまで発してたはずの周囲に影響与える波がプッツリ出なくなるんだよ……全部放棄して、楽になった状態だからかな?」

 狂えるのって幸せなのかもね、と、同意を求めるように、鼻を鳴らす彼を、人ではないものを見る目で凝視する。

 話の中で無機質に描写された男と女が、ビスラとサーナのことであろうことは容易に推察できた。

 強い信頼の絆で結ばれていたビスラとサーナ。二人ともそういった感情を表面に出すことはなかったが、互いに好意を抱いていたであろうことを、ルヤは薄々感じ取っていた。理不尽なビスラの死は、サーナの目にどう映ったのだろう。どれほどの、衝撃と、痛みだったのだろう。容赦なく奪われた、仄かで、ささやかな光を放つ未来。

 目の前の少年を見据える。

 入り混じりすぎて、相殺された、感情。

 何を思って、奪ったのだろう。

「どうして……」

 ジェドルを。

 ビスラを。

 サーナを。

「どうして殺したの……」

 決して欠けてはならなかった、互いに息づく世界の一部分を。

「新しい技法を完成させる為には、例え無駄に思えたって何度も何度も実験を繰り返す必要があるだろ? 退屈だったけど、その甲斐あって、今、あんたに辿り着いたんだ」

 問い掛けに込められたものの大きさになど、気付く気配もない、楽しげな返答。

「それに、どんな意味があるの」

 今まで出したことのない、凍るような声色だと、自分で思った。

 それは、ジェドルたちの生と引き替えにする価値のあるものなのか。

 逆光で影になって、ラタンの表情が読めない。

 向かい合って立っているだけで、地面に沈め込まれそうな威圧感。

 あの無表情で、真っ直ぐだったラタン。

 信じようと決めた、瞳は。

 ただれたような、狂気に濁った黒い玉にすげ替えられている。

「あんたは、この大陸に染み付いた現操術ってのが何だか知ってる?」

 高鳴る耳鳴りを放置したまま、表情を動かさずに、沈黙していると、やがて少年は、まるで簡単な手品の下らない種明かしでもするように、つまらなそうな顔で吐き捨てる。

「――世界を飾るもの――人間の愚かしさの象徴だよ」

 言い終えると口の端を上げ、ギョロリと見開いた眼球でルヤを射抜く少年は、生温い空気に溶けるような不気味な声を繋げていく。

「チャチなまやかしさ、だが上手く使えば、造作なく、もっと膨大な量の人間を、一度に内側から腐らせて殺せるんだ……きっと面白いよ、生きる価値の無い塵どもが一斉に狂って死ぬ様は」

 打って変わって、恍惚とした微笑み。

「あんたは、その起爆剤になれる資質を持ってる」

 宝石か何かに触れようとするように伸びてきた手を、叩き落とす。

「ふざけないでよ……」

 昨日まで、心から信じたいと願っていた瞳の奥を、憎悪を込めて睨み付ける。

 滑稽な程に甘かった自分に対する、吐き気を押さえつけながら。

「そんなに、軽くない……ジェドルも、ビスラも、サーナもみんな、あんたみたいなわけの分からない奴に、そんな、わけの分からない理由で消されていい命じゃないの……! いつだって、何かを探してた、掴もうとして、その為にたくさんのもの乗り越えて、取るに足らない毎日だって、積み重ねていたの、形を、作ろうとしていたの!」

 耳元で、鼓動が跳ね続けていた。

 頭の端で、途切れがちな甲高い音が鳴り響いている。

 まるで、壊れた楽器のように。

「あなたに、それを終わらせる権利なんて無かった、奪う権利なんて無かったの……」

「いいよ、いい感じだ……もう少し振り切れたら、軋んで、ぐちゃぐちゃに潰れちゃいそうだけど」

「潰れないよ……あなたが、この世に生きている限りは、私は意地でも、狂ったりしない、手放したりしない」

 この、殺意を。

「そりゃ、ありがたい」

「死になさい、ラタン……奪われる苦しみを、同じように味わわせてあげるから」

 腰に下げたナイフを抜き放ち、虫けらでも眺めるように薄く笑う、人ではなくなったラタンの隙だらけの小さな体目掛けて、ルヤは躊躇いなく地面を踏み切った。

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