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13/22

         十


 よく晴れた、頬に心地良い風が吹き渡る朝だった。

 目を覚ましたルヤは怪我をしていた方の腕を数度回してみて、もうほとんど痛みがないのを確認してから、厨房に降りた。休んでいろと気遣ってくれる女将を押し切って、朝食の配膳を手伝う。スナヒョウを退治したことで村長から後払い分の報酬を受け取り、多少余裕が出来たというのに、結局、怪我が治るまで宿泊費はいらないという主人達の言葉に甘えて図々しく三部屋を無料で借りてしまっている身としては、いつまでも部屋で寝てばかりもいられなかった。それに、動いていた方が気が紛れて、昨日のように変に沈み込んだりせずに済む。特にこんな天気の良い、晴れ晴れとした気持ちで目覚められた朝は、部屋に閉じこもっているよりも、誰かの為に、何かの為に働いていたかった。ジェドルの部屋に朝食を運ぶ仕事も引き受けたルヤは、早速取り掛かろうとして、ふと、その前に、引っ張って来なければ食堂に顔を出そうともしないラタンを呼びに行こうと思い立つ。見た目通り他人との接触が苦手なようで、ルヤ以外とはほとんど口も利かないラタンだが、少しずつでも慣れていかなければ、これから世の中を渡っていくのに苦労するに違いない。そんな風に、すっかり彼の行く末を危ぶむ姉か母親役になっている自分に苦笑しながら、ラタンの部屋をノックした。返事がなかったので寝ているのかと思い、そっと中を覗いてみると、ベッドから出て行ったような形跡はあるものの、本人は見当たらない。あれから外で寝るなどということもすっかりなくなったはずなのだが、今日は一体どこへ行ったのだろう。まあ、ときには一人でぶらつきたくなることもあるだろうと、それ以上無理に探し出そうとはせず、ルヤは厨房に戻って女将に断ると、ジェドルの分の朝食を皿に盛りつけ始めた。今日の献立はこの地方で主食となっている芋を練り込んだパンと、村の水源であるコロイの泉で捕れた淡水魚のスープだった。この宿で出される料理は、この地域の一般的な家庭料理と比べるとかなり豪勢と言える。泉に生息する淡水魚の数はそれほど多くなく、産地といえど村人もなかなか手を出せない高価な食材だ。それを朝食で出すのだから、さすがは都で名の知れた豪商の夫妻が道楽で構えた宿というものだ。そして、そこに居候させてもらっている自分達というのは、なんと贅沢者なのだろうと、ルヤは改めて実感の溜息を吐いて、盛りつけ終えた料理をトレイに乗せると、厨房を出た。他の客室からは少し離れた、一階の奥にある部屋へと向かいながら、どんな顔をしてジェドルに会ったものかと思案する。昨日、出掛け先で彼に対して取ってしまった高ぶった態度が、一夜明けてみるととんでもなく恥ずかしいことだったように感じられて、目覚めてから暫くは自己嫌悪の余りじっとしていられず、部屋の中を意味もなく往復したものだった。昨日は何故かジェドルが、まるですぐにでも目の前からいなくなってしまうような錯覚に囚われていた。今考えると、どうしてあんなに恐怖したのか、不安だったのかと不思議に思う。ジェドルは確かに数日前にはここに帰ってきていて、自分を見てくれ、声を掛けてくれていたというのに。あの散歩の帰りだって、いつも通りのジェドルだった。現に今も自分は彼に食事を運んでいるのだ。様子がいつもと違うのは、ただ、記憶にはっきりしない部分があるから不安定になっているだけで、時間を掛ければ元に戻るものだと、村医もそう言っていた。焦ることも、怖れることも何もないのだ。昨日の自分はどうかしていた。ジェドルとはこの先もずっと一緒に旅して、いつか、昨日の不安を笑い飛ばせるような日々がやってくる。

 そう、いつかジェドルに、小さい子供のように独りにしないでと泣き叫んだことを、からかわれるに違いない。

 そんなことを考えているうちに、辿り着いてしまったジェドルの部屋の前で立ち止まる。

 ひねくれたジェドルのことだ、会えば早速からかいに掛かってくる可能性もある。となると、変に相手の顔色など窺わずに、敵の出鼻を挫くようなつもりで、何事もなかったような笑顔で突入するのが得策だろうと、ルヤはひとり頷いた。

 小さく息を吸って、ノックをした直後にノブを回す。

「おはようジェドル! 起きてる? 朝ご飯持ってきたあげたよー!」

 今日はジェドルの好きな魚のスープだよ……そう続けようとした声が、目の前の光景に掻き消される。想像もしていなかった違和感を伴う光景に。

「あ……」

 狼狽えた様子で振り返ったのは、寝台の上に腰掛けた、見知らぬ、人の好さそうなローブ姿の青年。

「っと、噂をすれば、か……」

 もう一人、青年と向かい合って何かを話していた、顔色の悪い、どこか他人を小馬鹿にしたような態度の男も目を上げ、口元だけで皮肉っぽく笑う。

 小さな窓際に飾られているのは、昨日散歩の帰りに摘んだ、雨の後にだけ咲く珍しい砂漠の花。花なんて飾らなくていいと嫌がるジェドルに構わず、昨日ルヤが小さな器に挿して置いたそれは、ここが確かにジェドルの部屋であることを示していた。

「あ……れ……?」

 そんなはずはないと思いつつ、反射的に通路に出て部屋を間違えていないか確認しに行こうとするルヤを、黒髪の青年が、躊躇いがちに小さく呼び止める。

「間違ってないですよ……ここは、ジェドル、さんの部屋です」

 全く見覚えのない、少し年下だろうか、まだ僅かに幼さの残る顔立ちをした青年は、痛みを堪えるように声を低め、青の混じった黒い瞳で、呆然とするルヤを見詰めていた。

「……お話を、聞いていただけますか」

「ジェドルはどこですか」

 何か、事情がありそうだと、頭では理解できた。

 それでも、日々、どうにか自分のものにしようとしている冷静さは胸に留まってはくれず、落ち着こうと努めて卓の上に置いたはずの料理が乱暴な音を立てて震える。

「ジェドル、どこに行ったんですか?」

 それだけは、何よりも先に確認しておきたかった。

 俯いて答えようとしない青年に、ここにいないだけで、ジェドルがどこかにいることを。

 消えていないことを。

「死んだよ、ジェドルって男は」

 口を噤んで項垂れる青年の隣で、偉そうに足を組んでいたもう一人の男が代わりに応じた。

 まるで朝食のメニューでも伝えるような、軽い口調で。

「ユジフ先輩!」

 青年からの責めるような視線を意に介した風もなく、ユジフと呼ばれた横柄な男は、さっさと話しを終わらせたいといった態度で事務的に続けた。

「あんたのお仲間三人、みんな同じ日に死んだよ、残念ながらね」

「な……に……?」

 勝手に口から漏れた声は、掠れて、音程も定まらない。

「もう十日も前だな、俺とこいつで墓掘ったんだ、確かだよ」

「うそ……嘘、言わないで」

「こんなこと嘘付いて、俺達に何の得があるんだ?」

「だって……ジェドルは……ジェドルは、帰ってきたもの、昨日まで、この部屋にいたんだもの! 死んでるわけないでしょう? 帰って来たんだから!」

 堰を切ったように捲し立てるルヤを、もう一人、黙っていた青年が右手を挙げて制する。

「あなたの傍にずっといたのは、僕だったんです……」

 目を伏せ、最後は、消え入るような声になっていく。

「何? 何言ってるの? ジェドルだよ、ジェドルがいたの、あなたじゃない! あなたなんか知らない! 大体あなた達何なの? 勝手に他人の部屋に入り込んで、みんな死んだなんて馬鹿げたこと頭ごなしに……失礼だよ……! 出てって、出てってよ!」

 顔を上げようとしない青年と、呆れたように冷めた視線を投げ掛けてくるユジフという男が出て行く気配のないことに苛立ちを抑えられず、彼らの返答を待たずにジェドルを探しに部屋を出て行こうとして、再び、呼び止められる。刺すような眼差しで振り返ると、その先に、対象としていた青年の姿はなかった。

 代わりに視界に入ったのは――

「ジェドル……?」

 求めていた旅仲間、ジェドルの、でもどこか彼らしくない、辛そうな表情だった。

「ジェドル? どうして? 今までどこに行ってたの? ……ねえ、聞いて、この人達あなたが死んだって……」

 細い糸を手繰るように、必死に腕を掴む。やはり消えていなかった、死んでいるはずなどなかった。そう、心から安堵できたのは、残酷な程に一瞬だった。

 見上げた先のジェドルの顔が、髪が、体が、徐々に薄らいでいく。今度は目の錯覚ではないのが分かる。握っていた手が、ごつごつとした感触を失い、しなやかで、柔らかな、昔、旅に出る以前、自分の前に差し出されたいくつもの手と同じ、不自由ない暮らしをする人間の手に変わっていく。

「ここに帰ってきたジェドルは、僕、ローク・ノイスだったんです……ルヤさん」

 ジェドルは、完全に青年になった。

「い……や……」

 頭の中が泡立って、喉の奥が針を刺したように痛む。

 どうして、目の前にいるのがジェドルではなく、この青年なのか、いくら考えようとしても思考が逆流する。

 耳に響く、青年の重苦しい声だけが、ルヤの視界を現実に留めていた。

「あのとき、ジェドルさんの願い……僕は、どうしても叶えたかった……叶えるつもりだった……」

「ジェドルの……願い」

「ええ、彼は命の限り願っていました、あなたを独りにしたくないと……」

 還ってきてから、ジェドルが何度も口にしていた言葉の連なり。

 力強く、そして、儚いものに感じられた、あの約束。

「……だけど、僕の力じゃ足りなくて……叶えられなくて……いつの間にか、僕は自分の能力を使い、ジェドルさんの姿となってあなたに会いに行っていました……全て、僕の私情が起こしたことです」

 途切れがちに、それでも真っ直ぐにルヤから目を逸らすことなく、青年、ロークは語った。

「昨日あんたと一緒にいるこいつを見掛けたときは俺もたまげたよ。現操術を応用すりゃ出来ないことはないとはいえ、あんな変身技、消耗が激しすぎて普通は誰もやらねえ」

 ユジフと呼ばれた男が、一人、場の空気にそぐわない平然とした態度で興味深そうに述べる。

 浮かんでは消えていく、いくつもの問いの中から、ルヤは自分の望む可能性に繋がるひとつを拾って、目の前の見知らぬ二人にぶつけた。

「姿だけじゃない、中身も、ジェドルだった……私がジェドルを間違うはずない……よく知らないあなたなんかが、演じられるわけない……」

 昨日までいたのは、どう考えてもジェドルだった。確かに様子がおかしいとは感じていたが、別人と疑おうなどとは思ってもみなかったのだ。それを、どうして、面識もほとんどないこの僧侶が再現できたというのか。納得できない。ほんの少しでも、この状況を否定できる材料がある限り、ルヤはそれにかじり付こうとする自分を止めようとはしなかった。その意志が通じたのか、ユジフは肩を竦め、隣で唇を噛んだまま動かないロークを見やりながら説明を続けた。

「それができるんだよ、演じるんじゃなく、同調するって形ならな。あんた、(かく)の概念は知ってるな? この世界で生きるもの全てが持つとされる、個であるための芯みたいなもんだ。今回は、こいつがたまたま覚醒者で、ジェドルって奴の核痕(かくこん)と異常に深く同調しちまったことから起きた現象だ。ま、自分以外の核や、得体の知れない核痕と同調し過ぎると自己が崩壊する危険性があるからまともな奴ならやらないが」

「核、痕……」

「聞いたことくらいあるだろ、死んだものが生前持っていた核、その痕跡、いわゆる、残留思念ってやつだ、それらを認識し、接触を可能とする能力を持っているのがこいつのような覚醒者ってわけ」

 瞬きをする。

 ゆっくりと、時を稼ぐように。

 ジェドルの核痕。

 それは、どういう意味だろう。

 すぐに導かれるはずのその答えを、頭の中で唱えたくなかった。

 一緒に、ビスラとサーナを探しに行こうと約束した。

 村を出て行く前と同じように、憎まれ口ばかり叩いていた。

 表面は子供のようなのに、考え方は大人で、いざというときは体を張って自分を守ってくれる、変わらないジェドルだった。

 消えるわけないと。

 ビスラもサーナも、生きている。

 またみんなで、旅を続けられる。

 あのときのルヤは、心配してバカみたいだったって、笑い合える。

 そう、信じていればよかった。

 自分を独りにしない、優しい、彼らだったから。

 いつも、必ず帰ってきてくれたから。

 だからきっと、今回だって――

「――もう、帰ってこないの? みんな……」

 いなくなるわけない。

 信じていた。

 信じていなければ、立っていられなかった。

「やだ……」

 世界の色彩が、手の中からこぼれ落ちていく。

 彼らのいなくなった世界が、足下から広がっていく。

 どこまで目を凝らしてみても。

 明るい朝も、輝く空も。

 暗い闇も、静寂さえ。

 何もない、世界。

 背後で、誰かが自分を呼ぶ声がした。

 ああ、今、自分は走っているのだと気付く。

 どこへ行くのだろう。

 こんなに、急いで。

 悲しみも、苦しみも、壊れて、遠い地面に取り残されたまま、追い付いてこないのに。

 意識と繋がっていない、前に出る足の赴くままに、行かせてあげようと思った。

 どこへ行っても、彼らに会えないのなら。

 大きすぎて捉えきれないこの痛みからも、逃れることはできないのだろうから。

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