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         九


 幼い少女が、声をあげて笑いながら走っていた。

 必死に後を追うのに、追い付けない。

 栗色の長い髪をした、そばかすの少女。

 ――何してるの、早く早く!

 そうだ、彼女は、リリファ。

 ――待ってよ、リリファ!

 頼りになって、何でも話せて。

 ワガママなところもあるけど、その真っ直ぐな明るさに、いつも助けられて。

 大切な子だったはずなのに、どうして忘れてしまったんだろう。

 俺は。

 やっと手を捕まえると、少女は、満面の笑みで振り返り――

 ――そんなことをしても、ダメなのに

 声を弾ませて、腕の中をすり抜けて、また、遠くまで離れていく。

 ――わたしは、そこにはいないよ?

 あんまり楽しそうに言うものだから、え? と聞き返しながら、自然と顔が綻ぶ。

 そんな、俺の微かな笑みを認めた途端、リリファは表情を失うと、不意にけたたましく笑い出し、その歪んだ瞳はたちまち憎悪の眼差しに変わる。

 ――リリファ……?

 呆然と呼び掛けて、手を伸ばす。

 肩に触れる寸前で、彼女は、足下に崩れ落ちた。

 膝をついて、抱き起こすと。

 失望と、悔恨と、侮蔑に満ちたリリファの顔は、目を見開いたまま、動かなかった。


 あげようとした叫びが喉に詰まって、激しくむせ返る。

 冷たい汗が、額から、目の中に落ちていくのを感じた。

 胸の奥にナイフを突き立てられたような、耐え難い痛み。

「また……何なんだよ、この夢は……」

 向かいの壁で弱々しく揺れているランプの火を睨みながら、苛立ったように吐き捨てる。

 ここのところ毎晩、同じ夢を見る。どうしても思い出せない、だが、確かに知っているはずの、リリファという少女の夢。夢の最後はいつも、彼女の事切れた顔で終わる。

 それは、気が狂いそうなほどの悪夢であるのと同時に、どこかで、リリファという少女を懐かしみ、執着する感情も伴うという、捉えようのないものだった。

「くそっ……!」

 昨日のルヤの涙が頭を過ぎる。最近の自分は明らかにおかしい。この村に帰ってきたときから続いている、頭の中に自分の入り込めない領域が存在しているような感覚。そして更に不可解なことに、その領域は日を追う毎に広がり、自分の意識を置いておける場所を徐々に狭めている。特にここ数日はその兆候が著しく、記憶が酷く曖昧になり、最近あったことまでルヤに言われても思い出せない始末だ。それなのに、そんな自分を見る彼女の不安そうな顔や、涙といった覚えていたくないものばかりが頭の中に焼き付いて、おかしくなりそうだった。

 ルヤを独りにしたくない、寂しい思いをさせたくない。

 大人振っても、いつまでも甘えの抜けない、妹のような、旅仲間。

 その思いだけは、しっかりとこの胸に居座って、見えない領域も近付いてこようとしない。

 いつか他の全てが呑み込まれたとしても、それだけは残るだろうという奇妙な確信があった。

 ふと気付く、自分は以前からこんなにルヤに過保護だっただろうかと。もっと、独り立ちできるようにと、突き離していたのではなかったか。いつから、どうして、自分はこんな風に、過敏なまでに彼女を気に掛け、甘やかすようになったのか。

 そんな、どろどろと滞った思考を遮ったのは、暗い室内に響いた鋭いノックの音だった。

 こんな真夜中に、一体誰が。不審に思いながら、鈍った神経を叩き起こすように頭を振って立ち上がり、足下の細い隙間から光が漏れるドアに向かう。扉を開くと、微かに見覚えのある、痩せた目つきの悪い男が通路の明かりを背にして立っていた。

「よう、こんなところまでよく舞い戻って来られたもんだな、ジェドルさんよ」

「……なんだ、お前は……」

「それはこっちの台詞だ……お前、一体何を考えてる? 近くに奴がいることと何か関係があるのか?」

 この男は何を言っているのか。

 何故、自分の名前を知っているのか。

 まるでよく知った仲のような口振りに、気が触れているのかとも疑ったが、そういった雰囲気でもなさそうだった。そんな自分の様子に気付いたのか、向こうも不審げな目を向けてくる。

「取り敢えず邪魔するぜ……」

 無遠慮にずかずかと部屋の奥へ進んでいく後ろ姿を凝視しながら、その人物が、昨日、ルヤと村を散歩しているとき、不躾に声を掛けてきたマント姿の男だったことを漸く思い出す。

 男はベッド脇に置かれた背もたれの無い木の椅子にふんぞり返って足を組み、面倒臭そうに息をついた。

「さ、ここなら誰にも聞かれる心配はないぜ?きっちり説明してもらおうか……急に姿消したと思ったら、こんなところで油売ってる理由を……俺が一体どれだけ探し回ったと思ってる?」

「何の話だ? 大体、お前は何者だ」

「はあ? ユジフだよユジフ! お前こそそんな格好して、これは一体何の茶番だ?」

 昨日初めて、しかも擦れ違い様に短く声を掛けられただけの面識しかないはずの男は、まるで数年来の知人のような態度でそう名乗った。

 その、さも当然のことを言っているかのような口振りは余りにも自然で、嘘や演技には思えない。忘れているだけで、昔どこかで会ったことがあるのかもしれないと、これまでの旅の記憶から男の姿を思い起こそうとして、愕然とする。これまで自分が長い間旅をしてきたという認識は確かにある、だが、それは漠然としたものでしかなく、今までどんな地域を巡り、どんな景色を見てきたか、多くの地で出会ったはずの人々の顔も、名前も、何一つとして、明確に思い出すことが出来なかった。

 自分は一体どうしてしまったのか。このまま、自己としての証を何もかもを失って、いつか、自分が、自分でなくなっていくような、掴みようのない恐怖が湧き上がる。

 と、ユジフと名乗った目の前の男から、不意に何かを投げつけられる。

「お前のだ、地面に放り投げてあった……」

 飛んできた物体に思わず身構えたが、丁度手の中に落ちてきたそれは、人間の腕ほどの長さの、細くて質素な用途のわからない木片のようなものだった。

「まだ見習いに毛が生えた程度とはいえ、厳しい修練を乗り越えてやっと手に入れたものだろうが……粗末に扱うな」

 その言葉に、もう一度目を凝らして木片をよく眺めると、先端にシトア教の紋章と、小さな鐘のような装飾が施されている。それは、鳴鍵(めいけん)だった。シトア教僧であることの証となる――

「お前、まさか、俺達を助けたっていう現操術師か?」

「何……?」

「だったら教えてくれ……あの後、どうなったか――ビスラとサーナは……生きてるのか? 俺らを襲ったのは何だったんだ? 頼む……何も思い出せねえんだ」

 それまで、どこか不真面目だった男の表情が、徐々に険しいものに変わっていく。

「……何か考えがあってやってるんだと思ってたが、お前、まさか……本気であの男になりきってるのか……?」

「あの、男?」

「今お前が演じてる、そのジェドルって男にだよ! いいか? 良く聞け、お前の名前はローク……ローク・ノイス……俺と共に聖地の石を取りにいく旅の途中だった、シトア教僧伝戒士(でんかいし)だよ……」

 予想を遥かに上回る男の発言の突飛さに、思わず笑いが込み上げてくる。

「は……? な……に言ってる? そんな名前の奴は知らない……俺はジェドルだ、人違いだろ」

「ここまで言ってまだわからねえのか、目を覚ませ! このままじゃお前、本当にジェドルって奴に乗っ取られて、戻れなくなるぞ!」

 自分がジェドルでないなら、誰がジェドルだというのだ、他のどこにジェドルがいるというのだ。男の頭ごなしな言いぐさに苛立ちを覚え、怒鳴り返す。

「わけのわかんねぇこと言ってんじゃねえよ! そんな奴は知らねえって言ってるだろうが! 乗っ取るも乗っ取らねえも、俺はジェドルなんだよ!」

「ローク! お前、リリファの二の舞になるつもりか!」

 鼓動が一つ、跳ね上がった。

「リリ、ファ……?」

 聞き覚えのある名前。

 夢に見る、確かに知っている、なのに、思い出せない少女。

「お前の、死んだ幼馴染みの名前だ」

「あ……」

 小さく、頭の中が弾けた。

 たったひとつできたその綻びが、次々に伝わり広がって、分厚い幕の後ろに隠されていたものを、ゆっくりと露わにしていく。

「……チッ……奴が動き出したようだ、俺の存在に気付いたか……」

「……俺は……」

「あいつ、何故こんなところにいる? お前はあいつを追ってきたんじゃないのか? ……まあいい、詳しい話は後だ、俺はあいつの身辺をマークする。あの時とはだいぶ様子が違うようだが、恐らく間違いない……あの三人を襲ったのと同じ奴だ」

 男、ユジフが何を言っているのか、もはや頭に入れることすら叶わなかった。

「いいか、明日までに頭冷やして、院への言い訳考えとけ」

 遠くで、扉を閉めて誰かが出て行く足音。

 薄闇に包まれた両の手の平を凝視する。

 剣を握り慣れたマメだらけの手が、教典をめくる細く白い指に変わっていく。

「――俺は」

 この村に帰ってきたときから、おかしかった。

 襲われた当時のことを思い出せず。

 これまでの旅の記憶も不明瞭で。

 リリファの、夢を見る。

「リリファ……」

 自分は、ジェドルだったのに。

 ルヤと、ビスラと、サーナと、ずっと旅をしたジェドルだったはずなのに。

 ルヤを、独りにしたくないと、躍起になって望んだジェドル。

 置いていかれた自分のようなルヤ。

 同じ目に遭わせたくなかった。

 リリファが戻ればいいと、自分が願ったように。

 ジェドルが、戻ればいいと。

 彼女の涙が、瞼の裏に浮かんだ。

 自分が流したものと同じ種類の、涙。

「ごめん、ルヤさん……」

 気付かなければよかった。

「――僕は、ロークだった……」 

 話さなければならない。

 やっと思い出した、どうしても入り込めなかった領域の中にあったものを。

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