八
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話し合いの日から三日、ジェドルが村に戻ってから七日が経とうとしていた。
相変わらずビスラとサーナからの連絡は無く、ジェドルとラタンの記憶も、戻る兆しは見られなかった。
怪我が治るまでは安静にと医者から念を押され、部屋から出ない日々を送っていたことも手伝って塞ぎがちになったルヤは、その日、ジェドルに気晴らしにと散歩に誘われ宿を出た。
しかし、村の中を歩いていると、スナヒョウの一件以来すっかり有名になった二人は事ある毎に村人達から声を掛けられ、自分たちでさえ把握できていない事柄についてあれこれ詮索を受ける羽目となった。漸く何度目かの尋問会から解放され、辟易した様子で息をついているジェドルに、今度は擦れ違った見知らぬ男が、離れたところから振り返り声を掛けてきた。
「……おい、あんた」
元は白かったのだろう、砂埃にまみれて茶色く薄汚れたマントを頭から被った、今村に着いたばかりであろうことが見て取れる顔色の悪い痩せた若い男は、「はい?」と面倒臭そうに返事をするジェドルを食い入るように見詰め、やがて、
「いや……人違いか」
一言そう呟くと、探るような目つきを残したまま、ぽかんと佇んでいる二人に背を向けてさっさと立ち去って行った。
「何だあいつ? 馬鹿にしてんのか!」
元々気が立っていたこともあり、男の後ろ姿にいつまでも悪態を付いているジェドルを苦笑混じりに宥めながら「行こう」と促していたルヤは、すぐにまた別の村人達の集団がこちらに近付いてこようとしているのを見て、思い付いたように振り返った。
「そうだ、ねえ、あの橋に行ってみない?」
「橋……?」
「そう、この村に来る時渡ったでしょ、谷に架かってる吊り橋」
黄風の大地と呼ばれるこの荒野には、中央を南北に分断するように横たわる巨大な亀裂が存在する。人の往来がほとんど無い地域の特質上、橋は数少ない人の住む集落の周辺にしか架かっておらず、深い谷が荒野を真ん中で切り離しているような格好だ。
ルヤ達もここより南西の地から、向こう岸が遠く霞む谷に渡された、少々頼り無げな、あちこち傷んだ古い吊り橋を渡ってこの村まで辿り着いた。
村からは歩いてもそれほどの距離はなく、南門から出たところから見える景色の中に大地を横切る谷が確認できる。ルヤの提案に、危険だ面倒だと初めは難色を示していたジェドルも、このまま村で好奇の目に晒されるよりはましだと思ったのか、渋々頷き、二人は連れだって、少し傾きだした日の光を照り返す荒野に足を踏み出したのだった。
道中、二人の口数は少なく、ただ黙々と、風に舞い上がる砂の音を聞きながら、目的地を目指した。ここ数日、ビスラとサーナがどうなったのか、どうして未だに帰ってこないのかとそればかりを考えていたルヤの胸には、話したいこと、吐き出したいことが膿のように溜まっていたのだが、それをジェドルに話したところで、返ってくる答えが自分の望むものでないことは分かっている。それを敢えて聞きたいとも、ジェドルに言わせたいとも思わなかった。だが、だからといってそれ以外の、今の気持ちとは裏腹の明るい話題などを口にする気にもなれず、消えることのない胸の疼きを抱えながら、ただ、砂を踏みしめるだけの作業を続けた。そうして、ほとんど無言のまま谷が目と鼻の先まで迫った頃、ルヤは前を歩くジェドルの服の裾からはみ出した白い布に目を留めた。ルヤの傷は随分痛みも引いて、後少ししたら服の下に巻いた包帯も取れるだろうと医者から言われているのだが、鋭い牙を深々と突き立てられたジェドルの肩の傷は、まだ完治までに暫く時を要しそうだという。
ラタンの助けがなければ、今頃自分もジェドルも、ここにはいなかったかもしれない。
今でも鮮明に浮かぶ、スナヒョウの血に飢えた形相。
肌に染み付いた、強烈な殺気。
「やっぱり……ジェドル達を襲ったのは、あの、スナヒョウだったのかな……」
日除けの白いマントを頭から被ったルヤは、少し息を切らせているジェドルの背中に、ぽつりと、漏らした。
違うのかもしれない、だが、もしそうであったなら、傷一つ負っていないスナヒョウが村を襲いにやってきたことは、一体何を意味しているのか。
前を行くジェドルから返答はなく、答えを待つつもりで言ったわけでもなかったルヤが再び足下の屑岩を避けて歩くのに集中しようとしたとき、彼らしくない、歯切れの悪い声が風の音に紛れて耳に入った。
「……あの獣とやりあった時、同じような寒気を感じた気がした……あの時と」
「寒気?」
「ああ……全身が泡立つような気色悪い感覚……だがそれは、あの獣からってより、もっと別の……あの時、ビスラと、サーナが倒れて……それで、それから……俺は……」
額を押さえて立ち止まるジェドルに、ルヤは彼の気を逸らすように前方を指差して、嬉しそうな声を上げた。
「あ、ほら! もう谷だよ! 余裕のあるときにもう一度じっくり見てみたかったんだ!来るときは食糧も尽きかけてて景色を楽しむどころじゃなかったもんね」
ジェドルの異変に気付かなかったように笑い、駆け出す。
「あんま走んなよ……傷が開くぞ」
背中を追い掛けてくるいつものジェドルの声に、胸を撫で下ろす。
何か、大切なものを手放さずに済んだ。
そんな安堵感だった。
風が唸りを上げて吸い込まていく、光の届かない谷底を見下ろして、ここは、こんなに不気味な景色だっただろうかと、ルヤは寂しさの混ざり合った恐怖を覚えた。皆でいたときとは、周囲にあるものが全て違った色をしてそこに存在しているように思えた。自然というものがこんなにも圧倒的で、恐ろしいものだと、以前の色合いでは気付かなかった。そんなことにも気付かずに、考えもせずに、来る日も来る日も仲間の後にくっついて、その中に飛び込んでいた自分が如何に無謀なことをしていたのかと思い知らされる。この世界の中で、自分はなんてちっぽけな存在だろう、なんて、そんな当たり前のことを考えることさえ仲間達に押しつけて、温かな色に染まった世界を用意してくれる彼らに憧れて、子供のようにいつかみんなのようになりたいと夢見ていた。強くなりたいとだけ願っていた。どこまでも、ただ、守られているだけだった。この時、この場所に立ってルヤは初めて、まるで濁流が決壊したように、急激に、痛烈に、それを実感した。
「ねぇ……もし、このままジェドルの記憶が戻らなくても、怪我が治ったら一度行ってみようか……その、ビスラとサーナを、最後に見たっていう場所に」
「……あそこに、か」
短く答えて冴えない表情をするジェドルを、そっと振り返る。
「うん、何か分かるかもしれないし……ビスラもサーナも、ここに来られない事情があるのかもしれない……擦れ違いになったら嫌だなって思ってたけど……このまま待ってるだけじゃ、何も変わらない気がするの」
今、無性に、ビスラとサーナに会いたかった。会って、抱き締めて、今まで自分を大切に守ってくれていたこと、自分の代わりに、強大なものと戦ってくれていたことに、心から感謝しているこの気持ちを伝えたかった。
「まあ、どっちにしろ、いつまでもあの宿の穀潰しでいるわけにもいかねえしな……」
口の端を上げて笑うジェドルに、ルヤは決意を込めて、しっかりと頷いた。
「……あ、そういえば……ねえほら見て、あの橋の穴、ここ渡るときジェドルあそこに足突っ込んじゃって大騒ぎだったよね」
縄と木片で造られた粗末な吊り橋の中央あたり、腐り落ちた箇所を見て数日前の出来事を思い起こしたルヤは、可笑しそうに穴を指差しながら、からかうような視線をジェドルに投げ掛けた。
「あ? んなことあったか?」
「何よ、とぼけちゃって! 高い所が苦手でなかなか渡れないでいたビスラを馬鹿にして、わざと揺らしながら歩いてたら見事にはまったんじゃない! 結局、あんなに怖がってたビスラに引っ張り上げてもらっちゃってさ、ほんとに情けなかったよね、あの時のジェドル」
身動きが取れずに顔面蒼白になっていた当時の彼の様子を思い出し、込み上げてくる笑いを何とか噛み潰しながら、ここまで言われればジェドルのことだ、ムキになって言い返してくるに違いないとルヤは思わず身構えた。
――だが
「あ、あぁ、そうか……そんなこともあったっけな……」
返された反応は、予想とは全く異なるものだった。
まるで、本当は覚えていないのに取り繕っているような、曖昧な笑顔。
「ジェドル?」
呼び掛けても、ジェドルはぼんやりと谷底を見下ろしたまま返事をしない。
その、自分に向けられた疑問を拒んでいるようにも見える横顔に、ルヤは続く言葉を失った。
一瞬だけ訪れた楽しげな空気は再び不穏な沈黙に呑み込まれ、それ切り、ただ、崖下に棲む深い闇に視線を落として動かなくなった二人に、風と、地を這う砂埃だけが時の経過を感じさせた。
「リリファ……」
「え……?」
もう、隣にいなくなったのではないかと思えるほど静かだったジェドルが、突然思い出したように呟いた呪文のような一言に訝しんでルヤが目を上げると、景色の中に溶けてしまいそうな、虚ろな立ち姿をした彼が、視界に入った。
「ここ何日か、よく夢に見るんだ……リリファっていう子供、お前どこかで、会ったの覚えてないか?」
「リリファ? ……どんな子?」
「十二、三歳の、長い髪で、威勢のいい感じの……どっかで、見たことある気がするんだ……よく思い出せねえが、確か、重要な思い出だった気がする……」
「私も覚えてないけど……妹さんはそんな名前じゃなかったっけ?」
「いもうと……?」
「……あ、ごめんね……妹さんのこと、あんまり思い出したくなかった?」
「そうか、妹が……あいつが、リリファだったか……? いや、違う……あいつの名前、名前は……」
遠い目をして、妹の名前を思い出そうとするかのようにぶつぶつと独り言を呟き始めたジェドルを見て、ルヤは口元に当てた自分の手が震えていることに気付いた。
ジェドルが戦争で失った両親と妹との思い出を何よりも大切にしていることは、ルヤだけでなく、仲間の誰もが良く知っていることだった。形見のお守りを肌身離さず身に付けているという話も、彼自身の口からつい最近聞いたばかりだ。
その妹の名を、思い出せないと言うジェドル。
「ジェドル、ねえ、大丈夫? ジェドル」
足場が砕かれていくような恐怖が、喉から声を溢れさせる。
思わずその広い両肩を掴んだ手の指先が、ひどく冷たかった。
帰ってきたときから、どこか、いつもと違っていた。初めはショックで記憶が混乱しているだけだと思っていた。
――だけど、これは
強い風が、ジェドルと混ざり合って、攫っていってしまうような錯覚。ジェドルが、ジェドルでなくなっていく。少しずつ、確実に、ルヤの前から、薄らいでいく。
「ジェドル……ねえ、出会ったとき、あなたが私に言ってくれた言葉、覚えてる?」
ジェドルは漸く独り言をやめて、ルヤを見た。その瞳に、あの頃、自分を救ってくれた光が宿っていないのを見ない振りをして、引きつった声で、必死に続ける。
「あなたが言ってくれたあの言葉で、私、あなた達についていこうって決めたんだよ……あの場所で、死んだのと同じように生きていくんじゃなくて、あなた達と一緒に、最初から生きようって……新しく生まれようって……あなたの言葉……今でも、私の中に、大切にしまってある……」
ジェドルは、困ったような表情を浮かべていた。
少し、首を傾げて、忘れたものを思い出そうと、している。
有り余るほどの存在感を放っていた、あの、不敵なジェドルとは掛け離れた、儚い空気のようなその体を、揺さぶり、叫んでいた。
「ジェドル! あなたまで、いなくなってしまわないで!」
虚ろな瞳のままこちらを見返すジェドルの背中を強く抱き締める。消えてしまわないように、風の中に流されていってしまわないように。
「私を、独りにしないで……お願い……!」
頬を熱い滴が流れていた。
一本の細い糸が、切れそうになっているのに、それをどうすることもできない。
嗚咽を噛み殺し、しがみついたまま離れようとしないルヤの頭に、大きな手が乗せられる。
見上げると、ジェドルが、少し辛そうに笑って、ルヤを見詰めていた。
「独りにしねえよ」
その、元のジェドルの匂いに安心して落ちる涙を親指で乱暴に拭われる。
「お前を、独りにしねえために、俺は戻ってきたんだからな……」
今度は、さっきの虚ろなものとは違う、何かと戦っているような、強い意志を宿した瞳を遠くに向けるジェドルを見上げ、ルヤは尋ねたかった。一体あなたは何と戦っているのかと。独りにしないと約束してくれるのに、どうしてそんなに、今にも、いなくなってしまいそうなのかと。
その答えを聞いたら、全部終わってしまいそうな気がして、尋ねることができなかった。