6章Cパート
「・・・・・・泣いているの?」
ふと、そんな声が聞こえた。
いつの間に目を覚ましていたのか、寝たままの智瀬が心配そうな顔で
こちらを見つめているのに、そこで初めて気がついた。
「これは・・・あはは。 なんでもないんだ! 目にゴミでも入ったんかな」
必死に言い繕う。
「さと君・・・無理しなくていいよ」
そんな俺に智瀬は俺の顔に手を伸ばし、頬を伝う軌跡を人差し指で
スっと優しく、拭ってくれる。
ズキン・・・・・・。 無理してるのは・・・。
「無理してるのは、智瀬の方じゃないか・・・」 思わず口にしていた。
「・・・・・・。 無理なんかしてないよ?」
「最近、あまり寝てなかったんだろ?
それに、何か悩んでるみたいだって奈美江さんも言ってたぞ?」
奈美江さんとは、智瀬の母さんの事だ。
「・・・・・・」
智瀬は、困ったように「お母さんのお喋り」とボヤくとため息をつく。
しかし、すぐに微笑み
「ちょっと、体の調子が悪くて。 心配かけてごめんね?」
と冗談めかしたように舌をペロっと出す。
「本当か? 本当にそれだけなのか?」
「え? どうしたの? 急にそんな・・・」
「質問に答えてくれ、本当なのか? 本当にそれだけなのか?」
「・・・・・・・・・うん」
―――言葉とは裏腹に僅かに開いたその間は、その質問を否定していた。
少なくとも、俺にはそう聞こえたし今の智瀬に起こっている事は『それだけ』だと
どうしても思えなかった。
「なんでだよ・・・」
呟き、俯く。
「え・・・?」 智瀬は困惑したような声色。
「なんで嘘なんてつくんだよ・・・俺、智瀬の“彼氏”なんだぜ?」
「・・・・・・」 その言葉に返答はない。
なんで俺に優しい嘘なんてつくんだよ?
なんで相談の一つもしてくれないんだよ?
そんなに、俺って頼りない存在なのかよ?
そして、なんで俺なんかにそんなに“優しい”んだよ・・・?
問いかけだけが、心の中に浮かんでは消える。
取捨選択するように、どんな言葉を口にしたらいいのか。
頭の中でグルグルと検索・破棄を繰り返す。
どうしたらいい? どんな言葉をかけてあげれば智瀬の力になってあげられる?
「・・・・・・」 少しの間、二人の間に沈黙が降りた。
「ねぇ、さと君」 そして、その沈黙を破ったのは智瀬の方だった。
「ん?」
「なんで私が嘘をついてるって思うの?」
「そりゃぁ・・・俺は彼氏だからな。 智瀬の考えてることはすぐに顔に出る。」
「・・・・・・」
分かってる、今まで智瀬の背負う“何か”から目を背けていたくせに。
向き合おうともせず、ただ笑い合っているのが幸せだと。
傷つくこともなく、お互いの嫌な所も見ようともせず。
智瀬だけじゃない。 夏美の気持ちにだって、目を背けて来た。
知っていたくせに、俺は智瀬とただ『傷つかずに、彼女も妹も傷つけずに』などと
甘ったるい考えをしていた。
こんな俺が言うのは、お門違いなのだと。 十分自分でも理解している。
でも、最早理屈じゃないんだ。
2年間、一緒に居たからこそ分かる智瀬の『変化』。
仮にもその間一緒に連れ添った仲だ。 分かるからこそ、ようやく気がつけた。
目を背けてはいけないと。 傷つく事から…逃げてはいけないと。
これは、今まで何もしてあげられなかった俺が智瀬にする断罪であり
そして、何かをしてあげたいという本当の気持ちなんだ。
唐突に、本当に唐突に。
智瀬は天井を見つめ始めた。 そして、俺に問う。
―――「8年前のコト…覚えてる?」――― と。
「8年前…? 何かあったか?」
8年前。 俺はまだこの町には居なかった。
今から4年前、俺は当時中2、夏美はまだ小学6年生の頃。
俺たち家族はまだ父さん、母さん、夏美、俺。 4人で柏市町に住んでいた。
当時の俺の両親に対する印象は、仲良い“親友”のような夫婦だった。
何をする時も一緒で、本当に仲が良くて。
きっと、この二人はずっとこうやってバカみたいに仲良くやっていくんだろう。
そう思っていた。
けれど、その年の8月。 とても暑い日、それは突然やってきた。
父さんと母さんは、今までに見たことの無いくらいの喧嘩をしていた。
喧嘩の原因は分からない。 俺は怖くて、ただ二人が何かを言い合っている。
それだけで怖くて、俺は耳を塞ぎ、自分の部屋で蹲っていたから。
夏美はそんな俺に寄り添って、ずっと頭を撫でてくれたのを覚えている。
…結局、その喧嘩の所為で二人の溝は深まり10月になる頃には別居する事に。
母さん曰く、『子供のことを考えて籍は外さない』んだそうだ。
父さんは夏美を引き取り柏市町にそのまま残った。
母さんは俺を引き連れて逃げるように家を飛び出した。
そして、この町に引っ越してきた。
今年、結局夏美もこっちに来たので事実上父さんだけが別居状態になっている。
その頃の記憶は残っている。 出来れば思い出したくない過去。
けど、それは4年前の話だ。
8年も前のことは、あまり覚えていない。
その頃の記憶が、すっぽりと抜けてしまっている。
「・・・覚えてないんだ・・・ね・・・」
智瀬は何故か悲しげに視線を宙に漂わせている。
「ごめん・・・ていうか8年前って俺らが出会う前じゃんか。
なんで智瀬がそんな頃の事を訊くんだ?」
そうだよ、智瀬は高校からの知り合いじゃないか。
2年前に初めて会った人に“8年前の事を覚えてる?”なんて、なんか変だ。
「・・・・・・」 智瀬はその問いには答えなかった。
代わりにゆっくりと体を起こし、俺を見つめた。
「さと君、明日空いてるよね?」
そう無理矢理に微笑んで。
「お、おい。 起きても大丈夫なのかよ?」
「・・・・・・」
智瀬は大きな瞳をこちらに向けた。
その吸い込まれそうな瞳の奥で『質問に答えて』と訴えかけているように思えた。