5章Dパート
「キスしてくれた」
その一言に、一瞬時間が止まったかのように思えた。
智瀬の瞳は震え、何かを必死に堪えている。 そんな感じがした。
「ウソだと思ってる?」 そんな智瀬の様子を見て、夏美は言うのだった。
「・・・・・・」 智瀬は無言で俯くだけだった。
「言っておくけど、ウソなんかじゃないから」
「ウソだよ・・・そんな・・・」
「ウソなんかじゃない」
「ウソ・・・ウソっ」 徐々に智瀬の口調が強くなっていく。
「ウソなんかじゃないってば」
「ウソウソウソ!!!! ウソっ!!!」
智瀬は首が取れてしまう勢いで横にブンブンと振った。
『認めたくない』 そんな意思がハッキリと感じられる。
「ウソなんかじゃないんだってばぁ、なんで分からないかなぁ??」
不思議そうに首を傾げる夏美。
「ウソよ!! 夏美ちゃんの意地悪!! なんでそんなウソ言うの?!
そんな冗談、キツ過ぎるよ!! そんなの傷つくよ!!」
智瀬はイヤイヤと首を振り、夏美に向かって叫ぶ。
「はぁ・・・」 夏美は溜息を一つ。
「そんなに信じたいならさぁ。 本人に直接聞いてみたら?」
夏美は協会のドアの方向、つまり俺の居る方向に指を指した。
「え・・・?」 智瀬はその方向にふらふらと視線を這わせる。
「お兄ちゃん、こそこそしてないで出てきたら?」
「・・・・・・」 いつバレたのか分からないが、もう腹を決めるしかないようだ。
息をつくと、俺は重苦しいドアを開け放つ。
ドアから射す日の光がバージンロードのように、二人への道を明るく
皮肉なくらい、真っ直ぐ明るく照らしていた。
その光の道を無言で歩き、二人の前で立ち止まる。
一瞬だけ、俺は恋女神像を見つめ智瀬の顔に視線を移す。
「・・・・・・」
近くで見た智瀬の顔は、とても悲しげで。 今にも泣き出しそうなくらいに不安で。
胸が締め付けられた。
「さと君・・・」
「ごめん、元々は後をつけるつもりはなかったんだけど。
なんだか、二人の雰囲気を見てたら声をかけ辛くなっちまって。」
違う。 今はそんな事を話してる場合じゃないんだ。
痛む胸を心の中で抑えつつ、俺は続ける。
「智瀬…実はな…」 と、その時だった。
「お兄ちゃん! 昨夜あたしとキス、したよね??」
夏美は微笑み、俺に抱きついてきた。
「・・・・・・」 俺はそんな夏美を抱き返すわけでもなく、突き放すわけでもなく。
ただ黙って智瀬の顔を見つめるしかなかった。
なんて言えばいい…? どんな言葉でなら智瀬を“傷つけずに”事情を説明できる?
なんて言ってやれば、また智瀬は“笑って”くれる?
「さと君、ウソだよね?」 そう問う智瀬の瞳には、疑いの色がない。
まるで、俺が『ウソ』だと言ってくれる。 そう信じているかのように。
智瀬は真っ直ぐ俺の瞳を見つめていた。
「くぅ・・・」 俺はそんな俺のことを信じて疑わない瞳を、直視できなかった。
思わず、目を逸らしてしまう。
だが、しかし。 その行為は“それ”の否定と同意で。
ウソではない。 そう言っている様なものだった。
暫しの沈黙の後、俺はやっとのことで「ごめん…智瀬…」と呟いた。