風の缶詰
アルバイトでくたくたに疲れ切った僕がボロアパートのドアを開け、荷物を下ろして一息ついたのを見計らったようにチャイムが鳴った。たった今閉めたばかりのドアを再び開けると、よく街中で見る緑の制服の男が立っていて、宅急便です、と元気に笑っている。氏名の確認と受領捺印を何とかこなし、僕は荷物を受け取った。ありがとうございました、とこれまた元気に礼をして、彼は次なる宅配へと旅立った。
手元に残された小包は異国の言葉が書かれた段ボール箱で、片手で持てるほどに軽い。振ってみるとカタカタ、と小さく音がし、中の物が揺れる手ごたえがある。表書きには東南アジアの国名が記されており、差出人の欄には明らかに日本人と分かる姓名がローマ字で記されていた。友人の小竹からだった。あいつが僕に荷物をよこすなんて珍しい。明日は大雨が降るんじゃないかと思う。
とりあえず小包をリビング件寝室のテーブルに置くと、僕はひとまず一日の疲れを癒すべく、シャワーを浴びることにした。にやにやしながら頭を洗い、いつの間にか鼻歌をBGMに体を洗っていた。差出人が誰にせよ、ダイレクトメール以外の届け物は嬉しいものだ。
風呂場を出て、僕はコンビニで買った弁当とビールを傍らに小包を開けた。ガムテープの簡素な梱包をはがし、ふたを開ける。中には手紙が一通、そして、現地の新聞で包まれた何やら丸い物が一つ。
いそいそと新聞をはがす僕の顔は、きっとクリスマスの子供みたいだったに違いない。実際それほどに僕は小竹のプレゼントに期待していた。だからそれが出てきたとき、僕は思わず
「何じゃこりゃ」
と叫んでしまった。
新聞紙を剥いた中から出てきたのは銀色の缶詰が一つ。
ラベルも何もついていない。ただプルトップがあるだけの無愛想なシロモノだ。新手の嫌がらせなのか何なのか、いずれにせよ、中身の分からない缶詰なんて不気味以外の何物でもない。先ほどまでの高揚した気分はどこかに吹き飛び、僕は大きな落胆と少々の怒りを込めて小竹の手紙を開いた。相変わらずの癖字が躍る中、何枚あるか数えようと手紙をめくると、最後の便箋に
『遠慮せずに開けてみてくれ』
という一文がひときわでかでかと書かれていて、僕はまたしても、
「何じゃこりゃ」
と呟いてしまった。ただし、今度はふん、と鼻を鳴らしながら。缶詰を開ける代わりに僕はビールをプシュッと開けた。ぐいぐいと数口飲んだ後、手紙の頭に目をやった。
『よう、向原。相変わらず自由人と書いてフリーター生活を満喫しているか。(うるさい、と僕は手紙にデコピンをした)知っての通り、俺はちょっと人生の休暇をもらって旅に出ている。まぁ、今まで突っ走ってきたし、蓄えもそこそこあるし、ちょっと寄り道したって構わないだろう。気ままな旅の空というのも、結構いいもんだ。お前も暇なんだから旅行でもしてみればいいのに。(これは皮肉だった。アルバイト暮らしの僕にそんな金はない。一瞬、小竹をぶん殴りに赤道付近まで行こうかと思った)さてさて、こっちで面白いものを見つけたのでお前に送ることにする。ひとまずのお土産だ。俺の数多い友人たちの中でも、こんなものに興味を示しそうなのは、お前くらいしかいないからな』
「おい、どういう意味だよ」
二本目の缶ビールを一口、僕は手紙に悪態をつく。疲れのせいか、結構酔いが早いようだ。このペースで開けていくのは少々まずいように思ったが、それどころではなかった。
こんなつまらない缶詰が僕へのお土産?ふざけている。
おまけに、手紙を読み進めるうちに話がどんどん胡散臭くなっていく。
『これを手に入れたのはとある広場だ。歩き疲れてベンチに腰を下ろしている時、隣に座った男から手に入れた』
「お前は、そうやってよくわかんない物をよくわかんない奴から貰うなよ」
手紙に言ったって小竹に聞こえるわけがない。それでも僕は呟いてしまった。
いいじゃん、別に減るもんじゃなし、増えてるし、とヘラヘラ笑う小竹の顔が見えた気がした。
あいつは目鼻立ちもくっきりしていて色が黒いから、さぞかし現地ではモテていることと思う。いっそ帰ってこなけりゃいいのに。
僕のそんな思いを余所に、小竹は謎の缶詰の入手詳細についてつらつらと書き綴っている。僕は仕方なく手紙に目を通す。
『今思うとおかしな奴だった。東南アジアなんて目茶苦茶暑いだろ?特にこの時期。それなのに、そいつは真っ黒なトレンチコートを着ていたんだ。裾から見える足元も黒い服、黒い靴と黒ずくめ。葬式みたいだろ。だけど、俺は最初、変だなんて思わなかった。隣に人が座ったなぁ、ってくらい。それぐらい、普通に街に溶け込んでいたんだよ』
冷たい惣菜を口にしながら、そりゃお前が鈍いだけだ、と呟く。大体、小竹は何事にも無頓着だし他人のことなど全く構わない。営業の癖に、十回会った顧客の顔を忘れるくらいいい加減な奴なのだ。
けれど悪態をつく一方で、その小竹が相手の服装について事細かに覚えているのが気になった。そりゃ黒ずくめなのだから覚えていて当たり前かも知れないが、あいつが「トレンチコートを着ていた」なんてことを思い出すこと自体が奇跡に近い。それだけ、その人物は異様な風体だったのだろう。そんな奴から貰ったものをこちらによこすな、と、改めて小竹をどつきたくなる。
けれども、話はさらに妙な方向へと進んでいった。僕はいつの間にかビールにも弁当にも手を着けず、一字一句を拾うように文面を追っていた。
『先に口を開いたのはそいつだ。「ご旅行ですか?」と、完璧な日本語で話しかけてきた。俺は母語の響きが久しぶりで、嬉しくて、思わず「ええ」と返事をしてしまった。男は「そうですか、私もなんですよ」とこれまた滑らかに言って、それからお互いに今まで行った国の話をした。今思うと、そいつはネイティブな日本語を使っていたけど、どうも日本人には思えなかったんだよな。かといってどこの人間かと言われても、そいつの顔立ちがどうにも思い出せない。覚えているのはただ一つ、そいつが真っ黒い帽子を目深にかぶっていた、ということだけだ。だから顔の印象が無いのかもな。』
『ひとしきり話が終わったところで、男が足元で何やらごそごそやりだした。見ると、そいつは茶色いトランクを持っていたんだ。ものすごく古くて年季の入っているやつ。あちこち旅したんだなって、一目でわかるような感じだ。けれど、ボロいっていうんじゃなくて、味のある、という言い方がぴったりだった。その味のあるトランクを開けて、彼は中身を取りだした。そして、「お近づきの印です。よろしければ」って、俺に差し出した。』
『俺は正直、やっぱり何かこいつヤバかったんじゃないかって焦ったよ。だって、男が出したのは缶詰だったんだ。何も書いていない無地の銀色、それも二つ!そんなものを渡されたって、ちょっと困るだろ?』
「うん、僕、今すごく困ってるよ」
『返そうかと思ったんだけど、そいつ、ほんと「イイヤツ」オーラが出てたんだよ。というか、紳士って感じだったんだよ。俺、紳士って見たことないけど。だから、何も聞かずに突っ返すわけにはいかなかった。仕方ないから、取りあえず「これは何ですか?」と訊いてみた。そいつは穏やかな口調で、「風の缶詰ですよ」と答えた。』
風の缶詰。
僕は銀色の缶を見た。そして、ははぁ、と呟いた。小竹も同じ答えに至ったようで、手紙には僕が今思ったのと同じことが書いてあった。
『あ、なるほどねと思った。お前も聞いたことあるだろ?「空気の缶詰」って土産物。「ナントカ高原の空気」だとか書いてあって、その土地の空気を詰めましたっていうヤツ。空気なんてどこでもいっしょなんだから、一種のジョークだよな。昔流行ったらしいそのお土産を、男はどうも売っていたらしいんだよ。で、それを俺にくれるってわけ。「私は、旅した土地の風をこの缶に入れて集め、様々な方にお分けしているのです」だって。面白いからありがたく貰うことにしたんだけど、「どこの空気ですか?」って聞いたら、「開けてみればわかります」だって。こういうのって、開けずに楽しむ物だよな?変なの、とは思ったけど、まぁいい、リュックにしまって、俺はお礼にそいつにメシをおごってやった。さすが紳士、きれいな食べ方だったよ』
ここまでならば、多少不思議ではあるがあり得ない話ではない。僕はそういうことか、と少し安心し、小竹も変な奴だよなと笑った。ムカついて悪かったな、という気分になり、便箋をめくった。
『そいつと別れて宿に戻ってから、俺はこの缶詰をどうしようか迷った。本当なら「どこそこの空気だってよ」なんて言って楽しむものなんだろうけど、何せ、ラベルがない。どこの物か手がかりが何もない。それじゃあ、単なる缶詰だもんな。わけが分からない。おまけに同室の奴(オーストラリア人、名前は忘れた)が「面白そうだから開けてみろ」って煽るもんだからさ。まぁ、二つあるしいいやって一個開けてみたんだ』
ここから、小竹の手紙は訳がわからなくなった。何が起こったのか報告するのが旅先からの手紙であるとすれば、完全に失格である。何せ小竹は肝心の結末をぼかしてしまっているのだ。
『俺たちはびっくりしたよ。でも、とても素敵だった。いやほんと、俺が「素敵」なんて気持ち悪いと思うかもしれないが、それ以外に言葉が無かったんだ。同室の奴は「こりゃ魔法だ」なんて呟いていたし、俺もそう思った。あのミスター・黒ずくめは魔法使いだったんじゃないかって。こんな素晴らしい物、誰にあげようかと本気で悩んだが、やっぱこれはお前が一番素直に喜んでくれるんじゃないかと思い、送ることにした。まぁ、遠慮せずに開けてみてくれ。きっととびきりの気分になれるはずだ。俺が保証する。じゃあな。』
終わり、である。
僕はぽかんとして、しばらく小竹の悪筆を眺めていた。
まったくもって意味が分からない。この「風の缶詰」とやらが魔法を見せるって?そんな馬鹿な。
一瞬、この中には新手の麻薬か何かが入っていて、小竹と同室のオーストラリア人は二人してトリップしてしまったのではないかと思った。開けて嗅ぐだけでいい新種のクスリ。黒ずくめの男は売人かもしれない。けれど、小竹はそんなことをする奴じゃないなと、ふと僕は我に返った。彼はちゃらんぽらんでいい加減だが、法に触れることは許せないたちだ。たとえ海外にいても違法なことをするわけがないし、ましてやそれを僕に勧めるわけがない。
僕は缶詰を手にとって、まじまじと見た。冷たく銀色に光るだけで、「風の缶詰」は何の手がかりもくれない。振ってみても、何の音もしない。
うーんと唸って少しためらう。でも決断するまでに長くはかからなかった。
僕は思い切ってプルトップに指をかけた。
プシュッと缶詰が鳴った。
思わず顔をそむけて数秒固まり、僕は、そろそろと手の中の缶詰を見た。
何も起こらない。
爆発するわけでもなければ消えるでもない。
缶詰は缶詰のまま、ただテーブルの上にちょこんと乗り、僕に抑え込まれている。
小竹の奴にからかわれたのだ。
僕はほっとしたような裏切られたような、複雑な気分で缶から手を離した。やれやれ、とため息をついて小竹の手紙を封筒に戻し、段ボールごと部屋の端に寄せて椅子に座りなおす。夕飯の続きを食べようと箸を取った。
どこからか、甘い匂いがした。
これは、花の香だ。南国特有のむせかえるような芳醇な香り。うっとりと夢心地の匂い。
ふっと目をつぶった僕の頬を、雨の予感をはらんだ湿潤な風がなでる。
風?
僕はベランダを見る。窓は閉まっている。クーラーは付けていない。扇風機は手紙を読んでいる最中に邪魔だから消した。
それなのに、風?
僕は缶詰を見た。そして恐る恐る開け口に手をやった。
ふっと指先に、吐息のような空気の流れを感じた。
僕は思わず缶詰を手に取り、開口部をまじまじと見た。プルトップを上げたわずかな隙間から甘い匂いがする。そして、何かさわさわと弾けるような音。
今度はためらわなかった。プルトップに指をかけ、僕は一気にふたを剥がした。
ざん、と大きな音がして、気がつくと僕の目の前には真っ青な光景が広がっていた。
鳥たちがみゃあみゃあと鳴き交わし、ぴかぴかの青空の中を飛び交っている。爆発したような陽の光。思わず手で庇を作る。足元には柔らかく暖かな白砂。振り返れば少し離れたところに防風林があり、色とりどりの花が咲いている。
ざん、ざぁん、と寄せては返す音。
目の前には、世界中のありとあらゆる青を集めたような、海。
僕は浜辺にいた。誰もいない、僕だけの海を見つめていた。
風は暖かく湿って優しかった。
空はどこまでも青く、遥か遠くで種類の違う青と混ざっていた。
楽園に僕はただ一人座り込んで、甘い匂いに胸を満たされながらいつまでも海を見つめていた。
気がつくと、僕は缶詰を手に一人部屋の中に座り込んでいた。
はっとして慌てて手の中をのぞく。けれど、缶詰からはもう甘い香りも暖かな風も出てこない。役目は終わったようで、「風の缶詰」はただの銀色の金属と化し、僕の手の中で鈍く光るだけだった。
ただの不燃ゴミとなった「風の缶詰」だったが、僕は捨てるに捨てられず取っておいている。たまに嫌なことがあると、それを手に取って、あのどこかにある楽園を思い浮かべる。そう、僕は、あれはこの地球上に必ずある光景だと思っている。だって、小竹の会ったミスター・黒ずくめは言っていた。「旅した土地の風を缶に入れている」って。
だから僕が見た風景は、あの風は、どこかに存在しているんだ。
そう思うと、僕は何だかふっと気持ちが柔らかになる。僕がこうしていらいらしたり、どうしようもなく心が重くなっていたとしても、この世界のどこかには夢のような風景が広がっている。それを僕は知っている。
それだけで、なぜだか嬉しくなる。
帰って来た小竹も同じこと言ってたな。あいつのは、遠い北の海だったって。生命に溢れた豊かな海中で、小竹はクジラの鳴き声を聞いたって。それからは、何かあるとその風景を思い出すんだって。
さて、これでこの贈り物の見当がついただろう?気持ち悪い缶、なんて怒らせていたらごめん。
僕が誰から貰ったか、もう分かっているよね。確かに、小竹の言う通り真っ黒な人だったよ。顔立ちは僕も思い出せない。記憶力には自信があるんだけどね。
この中にはどこの風が入っているんだろうね?中は開けてのお楽しみ、だ。
けれど、きっと君は開けて良かったって思うよ。それは僕が保証します。
それでは、よい旅を。
数年前に中編として書いた作品のスピンオフのようなものです。
ちなみに、その作品は公のコンクールに出して、あっさり落選。
しかしながら、人生初、完結できた作品なので思い入れはありました。
懐かしい思い出です。