婚約者を譲れと言われましたが、そもそも彼は私の家に婿入りする予定でした
王宮の大広間には、夜会の音楽が静かに流れていた。
金色の燭台が揺れ、磨き上げられた床に光を落とす。
貴族たちの笑い声。
グラスの触れ合う澄んだ音。
その中心で――。
「エレノア、君との婚約を破棄する」
空気が、止まった。
私はゆっくりと顔を上げる。
侯爵令息アレクシス・ヴァレン。
私の婚約者だった人。
その隣には、彼に寄り添うように立つ青年がいた。
淡い栗色の髪。
勝ち誇ったような瞳。
子爵令息リオネル・ベイル。
周囲がざわつく。
「まさか……」
「夜会の場で?」
「公爵令嬢相手に……?」
けれど、アレクシスは止まらなかった。
「僕が愛しているのはリオネルだ。家のためだけの婚約など、もう終わりにしたい」
その言葉に、リオネルがうっとりと目を細める。
「アレクシス様……」
私はしばらく、何も言えなかった。
胸の奥が、静かに冷えていく。
好きだった。
少なくとも、好きになろうとはしていた。
家が決めた婚約だったとしても、彼と歩く未来を、自分の未来として受け入れようとしていた。
彼が疲れていれば気遣った。
侯爵家との関係を円滑にするため、父にも何度も頭を下げた。
――けれど。
それは、彼にとっては“当然”だったのだろう。
「……そうですか」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
アレクシスは眉をひそめる。
「随分と落ち着いているな」
「取り乱せば、何か変わりますか?」
「っ……」
彼が一瞬、言葉を詰まらせる。
その様子に、リオネルが庇うように前へ出た。
「エレノア様。アレクシス様を責めないでください」
「責める?」
「愛し合う者同士を引き裂く婚約なんて、不幸なだけです」
真っ直ぐな瞳だった。
きっと本気なのだろう。
けれど。
その瞳には、貴族社会の現実が欠片ほども映っていなかった。
「リオネル様」
私はゆっくりと言葉を返す。
「幸せを望むことは、悪いことではありません」
リオネルが少し安堵したような顔をする。
だが、私は続けた。
「ですが、人の人生を踏みにじって得る幸せには、必ず代償があります」
彼の顔が強張った。
「な、何を――」
「確認いたします、アレクシス様」
私は婚約者だった男へ視線を向ける。
「あなたはクラウディア公爵家への婿入りを辞退なさる、ということでよろしいのですね?」
その瞬間。
ざわめきが、一段大きくなった。
「婿入り……?」
「そうだ、ヴァレン侯爵家の三男は――」
「公爵家の後継として迎えられる予定だったはず……」
アレクシスの表情が、初めて揺らぐ。
「そ、それは……」
「婚約破棄とは、そういうことでしょう?」
私は首を傾げる。
「まさか、婚約だけ破棄し、婿入りの条件は維持したいなどと仰るつもりではありませんよね?」
「っ……!」
彼の顔色が変わった。
そう、彼は勘違いしていた。
クラウディア公爵家が、自分に縋っているのだと。
だが実際は逆だ。
ヴァレン侯爵家は近年、事業の失敗が続いていた。
表向きは取り繕っていても、財政は苦しい。
だからこそ、アレクシスは公爵家へ婿入りする予定だった。
公爵家の後ろ盾。
領地経営。
莫大な資産。
それらを得る未来を、彼は当然のように受け取っていた。
「エレノア……」
アレクシスが焦ったように声を低くする。
「君は誤解している。僕はただ――」
「誤解?」
「リオネルを愛している。だが、君との関係まで全て捨てるとは――」
「……アレクシス様」
私は静かに遮った。
「それは、あまりにも虫が良すぎます」
周囲から小さく息を呑む音が漏れる。
彼は今まで、こんなふうに否定されたことがなかったのだろう。
「お前は、そんな言い方をする女だったか……?」
「あなたが、私をそういう女にしたのです」
その言葉に、彼が黙る。
私だって、こんなことは言いたくなかった。
本当は…。
今日だって、彼と踊る未来を想像していたのだ。
夜会のために新しいドレスを仕立てた。
彼の瞳の色に合う装飾を選んだ。
――愚かだった。
「エレノア様!」
リオネルが震える声を上げる。
「アレクシス様を困らせないでください!」
「困らせているのは、どちらでしょう」
「愛し合っているんです!」
「では、その愛でヴァレン侯爵家を立て直せるのですね」
「え……?」
リオネルの顔から血の気が引いた。
「公爵家の援助なしで。婿入りの条件も失った状態で。あなた方は、責任を持って生きていけるのですね?」
「そ、それは……」
彼はアレクシスを見る。
だがアレクシスは、答えない。
答えられない。
「……何の騒ぎだ」
低い声が響いた。
人垣が割れる。
そこに立っていたのは、クラウディア公爵――私の父だった。
銀灰色の髪。冷えた眼差し。
場の空気が一瞬で張り詰める。
「お父様……」
「説明してもらおうか、アレクシス殿」
父は私の隣に立つ。
それだけで、背筋が伸びた。
アレクシスはわずかに唇を震わせる。
「わ、私は……エレノア嬢との婚約を解消したく……」
「理由は?」
「……愛する相手が、別におります」
父の視線がリオネルへ向く。
リオネルは青ざめながらも頭を下げた。
「そうか」
父は短く言った。
「ならば、ヴァレン侯爵家への支援も本日で終了だ」
空気が凍る。
アレクシスが目を見開いた。
「お待ちください!」
「待つ理由があるか?」
「そ、それは別問題でしょう!?」
「別ではない」
公爵の声は冷たい。
「婿入りとは、家と家の契約だ。お前はそれを、自ら破棄した」
「ですが――!」
「加えて……」
公爵は淡々と続ける。
「ベイル子爵家との共同事業も見直そう」
「っ!?」
今度はリオネルが息を呑んだ。
「そんな……!」
「愛を選ぶのだろう? ならば、公爵家の庇護など不要なはずだ」
返す言葉がない。
リオネルの肩が震えていた。
アレクシスは顔面蒼白になりながら公爵を見る。
「公爵閣下、どうか……」
「どうか?」
「今回のことは、その……勢いというか……」
私は思わず目を伏せた。
ああ、この人は。
最後まで、自分が何を失ったのか理解していない。
「勢いで口にした言葉で、人は信用を失います」
私が静かに言うと、アレクシスが苦しそうに顔を歪めた。
「エレノア……」
「私は、あなたを信じようとしていました」
好きだったからではない。
……いや、 好きだった。
認めたくなかっただけだ。
「あなたが隣に立つ未来を、受け入れようとしていたのです」
胸が痛い。
けれど、泣かなかった。
泣けば、まだ彼に期待していた自分まで認めてしまいそうだったから。
「ですが、あなたは私ではなく、“公爵家を失わない自分”を選んだ」
「違う……!」
「違いません」
私は小さく首を振る。
「本当に手放したくないものなら、人はこんな場所で踏みにじったりしません」
アレクシスが何か言いかける。
けれど、言葉にはならなかった。
公爵が口を開く。
「話は終わりだ」
その一言で、全てが決まった。
夜会は再開された。
音楽が流れ始める。
けれど、もう誰もアレクシスたちへ近づこうとはしない。
彼らだけが、広間の中央に取り残されていた。
私は踵を返す。
「エレノア!」
呼び止める声。
振り返らなかった。
「どうか、お二人で選んだ道を歩んでください」
それだけを残して、私は大広間を後にした。
夜風が冷たい。
バルコニーへ出ると、ようやく息ができた。
「……っ」
胸が痛い。
苦しい。
平気なわけがない。
ずっと、ちゃんと向き合おうとしていたのだから。
「エレノア」
父が後ろから声をかける。
「……申し訳ありません、お父様」
「なぜ謝る?」
「結果的に、公爵家へご迷惑を――」
「馬鹿を言うな」
父は呆れたように息を吐いた。
「傷つけられたのはお前だ」
その言葉に、張り詰めていたものが少しだけ緩む。
「……泣いてもいい」
父の低い声が、静かに落ちる。
「お前は、よく耐えた」
視界が滲んだ。
涙が、一筋だけ頬を伝う。
「……はい」
それ以上は崩れなかった。
公爵令嬢だからではない。
前を向きたかったからだ。
数か月後。
私は領地視察の馬車に揺られていた。
窓の外には、春の花が揺れている。
「お嬢様、少し休まれますか?」
侍女が心配そうに尋ねる。
「大丈夫よ」
微笑むと、侍女も安心したように笑った。
あの日以降、ヴァレン侯爵家は急速に立場を失ったらしい。
ベイル子爵家も、共同事業の打ち切りで苦しい状況だと聞いた。
けれど、もう興味はなかった。
失ったものは、確かにあった。
痛みも残っている。
それでも。
失ったことで、初めて見えたものもある。
誰かに選ばれる未来ではなく、私が選ぶ未来。
馬車の窓から差し込む春の光は、思ったよりも温かかった。
私は静かに顔を上げる。
――もう、前を向ける気がした。




