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婚約者を譲れと言われましたが、そもそも彼は私の家に婿入りする予定でした

作者: 絵宮 芳緒
掲載日:2026/05/06

王宮の大広間には、夜会の音楽が静かに流れていた。


金色の燭台が揺れ、磨き上げられた床に光を落とす。

 

貴族たちの笑い声。

グラスの触れ合う澄んだ音。

その中心で――。


「エレノア、君との婚約を破棄する」


空気が、止まった。

私はゆっくりと顔を上げる。


侯爵令息アレクシス・ヴァレン。

 

私の婚約者だった人。

その隣には、彼に寄り添うように立つ青年がいた。


淡い栗色の髪。

勝ち誇ったような瞳。

子爵令息リオネル・ベイル。


周囲がざわつく。


「まさか……」


「夜会の場で?」


「公爵令嬢相手に……?」


けれど、アレクシスは止まらなかった。


「僕が愛しているのはリオネルだ。家のためだけの婚約など、もう終わりにしたい」


その言葉に、リオネルがうっとりと目を細める。

「アレクシス様……」


私はしばらく、何も言えなかった。

胸の奥が、静かに冷えていく。


好きだった。

少なくとも、好きになろうとはしていた。


家が決めた婚約だったとしても、彼と歩く未来を、自分の未来として受け入れようとしていた。


彼が疲れていれば気遣った。

侯爵家との関係を円滑にするため、父にも何度も頭を下げた。


――けれど。

それは、彼にとっては“当然”だったのだろう。


「……そうですか」


自分でも驚くほど、声は静かだった。

アレクシスは眉をひそめる。


「随分と落ち着いているな」


「取り乱せば、何か変わりますか?」


「っ……」


彼が一瞬、言葉を詰まらせる。

その様子に、リオネルが庇うように前へ出た。


「エレノア様。アレクシス様を責めないでください」


「責める?」


「愛し合う者同士を引き裂く婚約なんて、不幸なだけです」


真っ直ぐな瞳だった。

きっと本気なのだろう。


けれど。

その瞳には、貴族社会の現実が欠片ほども映っていなかった。


「リオネル様」


私はゆっくりと言葉を返す。


「幸せを望むことは、悪いことではありません」


リオネルが少し安堵したような顔をする。

だが、私は続けた。


「ですが、人の人生を踏みにじって得る幸せには、必ず代償があります」


彼の顔が強張った。


「な、何を――」


「確認いたします、アレクシス様」


私は婚約者だった男へ視線を向ける。


「あなたはクラウディア公爵家への婿入りを辞退なさる、ということでよろしいのですね?」


その瞬間。

ざわめきが、一段大きくなった。


「婿入り……?」


「そうだ、ヴァレン侯爵家の三男は――」


「公爵家の後継として迎えられる予定だったはず……」


アレクシスの表情が、初めて揺らぐ。


「そ、それは……」


「婚約破棄とは、そういうことでしょう?」


私は首を傾げる。


「まさか、婚約だけ破棄し、婿入りの条件は維持したいなどと仰るつもりではありませんよね?」


「っ……!」


彼の顔色が変わった。

そう、彼は勘違いしていた。


クラウディア公爵家が、自分に縋っているのだと。

だが実際は逆だ。


ヴァレン侯爵家は近年、事業の失敗が続いていた。

表向きは取り繕っていても、財政は苦しい。


だからこそ、アレクシスは公爵家へ婿入りする予定だった。


公爵家の後ろ盾。

領地経営。

莫大な資産。


それらを得る未来を、彼は当然のように受け取っていた。


「エレノア……」


アレクシスが焦ったように声を低くする。


「君は誤解している。僕はただ――」


「誤解?」


「リオネルを愛している。だが、君との関係まで全て捨てるとは――」


「……アレクシス様」


私は静かに遮った。


「それは、あまりにも虫が良すぎます」


周囲から小さく息を呑む音が漏れる。

彼は今まで、こんなふうに否定されたことがなかったのだろう。


「お前は、そんな言い方をする女だったか……?」


「あなたが、私をそういう女にしたのです」


その言葉に、彼が黙る。

私だって、こんなことは言いたくなかった。

 

本当は…。

今日だって、彼と踊る未来を想像していたのだ。


夜会のために新しいドレスを仕立てた。

彼の瞳の色に合う装飾を選んだ。


――愚かだった。


「エレノア様!」


リオネルが震える声を上げる。


「アレクシス様を困らせないでください!」


「困らせているのは、どちらでしょう」


「愛し合っているんです!」


「では、その愛でヴァレン侯爵家を立て直せるのですね」


「え……?」


リオネルの顔から血の気が引いた。


「公爵家の援助なしで。婿入りの条件も失った状態で。あなた方は、責任を持って生きていけるのですね?」


「そ、それは……」


彼はアレクシスを見る。

だがアレクシスは、答えない。

答えられない。


「……何の騒ぎだ」


低い声が響いた。

人垣が割れる。


そこに立っていたのは、クラウディア公爵――私の父だった。

銀灰色の髪。冷えた眼差し。


場の空気が一瞬で張り詰める。


「お父様……」


「説明してもらおうか、アレクシス殿」


父は私の隣に立つ。

それだけで、背筋が伸びた。

アレクシスはわずかに唇を震わせる。


「わ、私は……エレノア嬢との婚約を解消したく……」


「理由は?」


「……愛する相手が、別におります」


父の視線がリオネルへ向く。

リオネルは青ざめながらも頭を下げた。


「そうか」

 父は短く言った。


「ならば、ヴァレン侯爵家への支援も本日で終了だ」


空気が凍る。

アレクシスが目を見開いた。


「お待ちください!」


「待つ理由があるか?」


「そ、それは別問題でしょう!?」


「別ではない」


公爵の声は冷たい。


「婿入りとは、家と家の契約だ。お前はそれを、自ら破棄した」


「ですが――!」


「加えて……」

公爵は淡々と続ける。


「ベイル子爵家との共同事業も見直そう」


「っ!?」


今度はリオネルが息を呑んだ。


「そんな……!」


「愛を選ぶのだろう? ならば、公爵家の庇護など不要なはずだ」


返す言葉がない。

リオネルの肩が震えていた。


アレクシスは顔面蒼白になりながら公爵を見る。


「公爵閣下、どうか……」


「どうか?」


「今回のことは、その……勢いというか……」


私は思わず目を伏せた。

ああ、この人は。


最後まで、自分が何を失ったのか理解していない。


「勢いで口にした言葉で、人は信用を失います」


私が静かに言うと、アレクシスが苦しそうに顔を歪めた。


「エレノア……」


「私は、あなたを信じようとしていました」


好きだったからではない。

……いや、 好きだった。

認めたくなかっただけだ。


「あなたが隣に立つ未来を、受け入れようとしていたのです」


胸が痛い。

けれど、泣かなかった。

泣けば、まだ彼に期待していた自分まで認めてしまいそうだったから。


「ですが、あなたは私ではなく、“公爵家を失わない自分”を選んだ」


「違う……!」


「違いません」

私は小さく首を振る。


「本当に手放したくないものなら、人はこんな場所で踏みにじったりしません」


アレクシスが何か言いかける。

けれど、言葉にはならなかった。


公爵が口を開く。

「話は終わりだ」


その一言で、全てが決まった。


夜会は再開された。

音楽が流れ始める。


けれど、もう誰もアレクシスたちへ近づこうとはしない。


彼らだけが、広間の中央に取り残されていた。


私は踵を返す。


「エレノア!」


呼び止める声。

振り返らなかった。


「どうか、お二人で選んだ道を歩んでください」


それだけを残して、私は大広間を後にした。


夜風が冷たい。

バルコニーへ出ると、ようやく息ができた。


「……っ」


胸が痛い。

苦しい。

平気なわけがない。

ずっと、ちゃんと向き合おうとしていたのだから。


「エレノア」

父が後ろから声をかける。


「……申し訳ありません、お父様」


「なぜ謝る?」


「結果的に、公爵家へご迷惑を――」


「馬鹿を言うな」

父は呆れたように息を吐いた。


「傷つけられたのはお前だ」


その言葉に、張り詰めていたものが少しだけ緩む。


「……泣いてもいい」

父の低い声が、静かに落ちる。


「お前は、よく耐えた」


視界が滲んだ。

涙が、一筋だけ頬を伝う。


「……はい」


それ以上は崩れなかった。

 

公爵令嬢だからではない。

前を向きたかったからだ。



数か月後。

私は領地視察の馬車に揺られていた。


窓の外には、春の花が揺れている。


「お嬢様、少し休まれますか?」

侍女が心配そうに尋ねる。


「大丈夫よ」

微笑むと、侍女も安心したように笑った。


あの日以降、ヴァレン侯爵家は急速に立場を失ったらしい。


ベイル子爵家も、共同事業の打ち切りで苦しい状況だと聞いた。


けれど、もう興味はなかった。

失ったものは、確かにあった。


痛みも残っている。

それでも。

失ったことで、初めて見えたものもある。


誰かに選ばれる未来ではなく、私が選ぶ未来。


馬車の窓から差し込む春の光は、思ったよりも温かかった。

私は静かに顔を上げる。


――もう、前を向ける気がした。

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― 新着の感想 ―
題名に【BL含む】と表記した方がよろしいかと思われます。
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