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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと名前を呼ばれなかったから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/28

 リディアーヌ・オルヴェインという名は、たしかにあった。


 白い産着の胸元に、銀糸で縫い込まれていた。


 洗礼の記録にも残されていた。


 王都北区の古い聖堂で、司祭が水を額に落としながら、その名を読み上げた。


「リディアーヌ・オルヴェイン。この子に、神の加護と家の誇りがあらんことを」


 その声を聞いて、赤子は泣いた。


 泣いた理由など誰にも分からない。


 水が冷たかったのかもしれない。


 知らない声が怖かったのかもしれない。


 けれど後に古い侍女は、何度か同じことを言った。


「あの時、お嬢様はご自分の名を聞いて泣かれたのですよ」


 それは、リディアーヌが自分の名前について聞いた、もっとも古い記憶だった。


 ただし、その侍女も長くは生きなかった。


 リディアーヌが七歳になる前に、熱を出して寝込み、そのまま屋敷の裏手にある小さな墓地へ送られた。


 墓石には、侍女の名が刻まれていた。


 ミゼラ。


 リディアーヌはその名を読めた。


 けれど、その日、父は娘の肩に手を置いて言った。


「長女なら、使用人の死にも取り乱すものではない」


 長女。


 その言葉は、父が彼女に与えた最初の呼び名だった。


 父はオルヴェイン公爵家の当主で、声の低い人だった。食卓でも執務室でも、家族に向ける言葉は必要なものだけで、余分な響きがなかった。


「長女は明日の茶会に同席しなさい」


「長女には王都の礼法を先に覚えさせる」


「長女なら、妹の手本になれ」


 リディアーヌは、それに不満を持たなかった。


 長女であることは事実だった。


 家の最初の子であり、妹より先に生まれ、弟より先に教育を受け、母より先に家中の小さな乱れを見つけられるように育てられた。


 だから、父に長女と呼ばれるたび、背筋を伸ばした。


 それは名前ではなかったが、役割だった。


 役割には、意味があった。


 母は、彼女を「お姉様」と呼んだ。


 最初は妹へ向かってそう言っているのだと思っていた。


「お姉様に見せてごらんなさい」


「お姉様のように座りなさい」


「お姉様が直してくださるわ」


 けれど、いつの間にか母は、本人に向かってもそう呼ぶようになった。


「お姉様、妹のリボンを結んであげて」


「お姉様、弟の挨拶を見てあげて」


「お姉様、あなたなら分かるでしょう」


 母はやわらかく笑う人だった。


 怒鳴ることはない。


 叱責もしない。


 ただ困ったように眉を下げて、娘を見る。


 そうすると、リディアーヌは言えなくなる。


 母上、わたくしはお姉様ではなく、リディアーヌです。


 そう言うことは、わがままに思えた。


 妹の前で、姉が自分の名を欲しがるなど、幼いことのように思えた。


 だから彼女は笑った。


「承知しました、母上」


 妹は、彼女を「姉様」と呼んだ。


 弟は、彼女を「姉上」と呼んだ。


 使用人は、彼女を「お嬢様」と呼んだ。


 家庭教師は、彼女を「オルヴェイン公爵令嬢」と呼んだ。


 誰も間違ってはいなかった。


 どれも正しい呼び名だった。


 リディアーヌは、正しいものを嫌ってはいけないと教わっていた。


 正しい呼び名。


 正しい姿勢。


 正しい笑み。


 正しい沈黙。


 十歳になる頃には、彼女は屋敷の中で自分の名前を聞かなくなっていた。


 古い産着は、衣装部屋の一番奥の箱にしまわれていた。


 銀糸で縫われた名前は、まだ残っていた。


 けれど糸の端が少しほつれているのを見つけた時、彼女は侍女に直してくれるよう頼まなかった。


 もう着るものではない。


 直す必要はない。


 そう思った。


 それから三年後、王宮から婚約の話が来た。


 相手は王太子エルネスト。


 王と王妃の第一子で、整った顔立ちと穏やかな声を持つ少年だった。


 婚約の顔合わせの日、リディアーヌは淡い青のドレスを着せられた。


 母は髪飾りを整えながら、鏡越しに娘を見た。


「未来の王太子妃になるのですから、いつもより穏やかに笑いなさい」


 未来の王太子妃。


 その呼び名は、重かった。


 けれど不思議と、美しい響きでもあった。


 家の長女。


 妹のお姉様。


 弟の姉上。


 使用人たちのお嬢様。


 そして、未来の王太子妃。


 呼び名が増えるたび、自分の形がはっきりしていくような気がした。


 少なくとも、その頃の彼女はそう思っていた。


 王太子エルネストは、最初の対面で礼儀正しく微笑んだ。


「君が、私の婚約者になる人だね」


 君。


 そう呼ばれて、リディアーヌは少しだけ瞬きをした。


 王太子はそれに気づかなかった。


 気づかなかったのか、気づく必要がないと思ったのか、それは分からない。


「よろしく頼むよ。私は、あまり堅苦しいことが得意ではないんだ。君のようにしっかりした人がいてくれると助かる」


 しっかりした人。


 それもまた、間違いではなかった。


 彼女は頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。殿下」


 王太子は、その後も彼女を名前で呼ばなかった。


「君」


「婚約者」


「私の隣に立つ人」


「王妃教育を受けているのだから」


「君なら分かるだろう」


 どれも優しい声だった。


 怒りはなかった。


 侮辱もなかった。


 むしろ信頼されているのだと、周囲は言った。


「殿下はお嬢様を頼りにしておられるのですよ」


「公爵令嬢として、これ以上の名誉はありません」


「未来の王太子妃として、すでに見込まれているのです」


 そう言われると、リディアーヌは黙るしかなかった。


 名前を呼ばれたいなど、子どもの望みだ。


 王太子妃になる者は、個人ではなく国の一部になる。


 家の名、王家の名、未来の立場。


 その上に立つ者が、自分の名一つにこだわるなど、浅ましい。


 そう教えられたわけではない。


 けれど屋敷も王宮も学院も、同じような空気で彼女を包んだ。


 だから、彼女は自分でそう覚えた。


 王立学院に入学した頃には、名前を呼ばれないことは完全に日常になっていた。


 教師は出席を取る時だけ、彼女の名を読んだ。


「リディアーヌ・オルヴェイン」


 その時だけ、彼女は返事をした。


「はい」


 けれど、それ以外では誰も使わない。


 級友たちは「オルヴェイン様」と呼んだ。


 下級生たちは「公爵令嬢様」と呼んだ。


 取り巻きの令嬢たちは「殿下の婚約者様」と呼んだ。


 王太子の側近たちは、直接呼ぶことすら少なかった。


「殿下の隣の方」


「例の方」


「いつもの方」


 それでも彼女は怒らなかった。


 怒る理由を持てなかった。


 実際、彼女はいつも殿下の隣にいた。


 例の方でもあった。


 いつもの方でもあった。


 ある日、学院の図書室で、年若い司書見習いが名簿を確認しながら彼女を呼ぼうとした。


「リディ……」


 そこで声が止まった。


 司書見習いは顔を赤くし、慌てて頭を下げた。


「申し訳ありません、オルヴェイン様」


 リディアーヌは本から顔を上げた。


「なぜ謝るのですか」


「いえ、その、御名をお呼びするのは失礼かと思いまして」


「失礼」


「はい。高位の方ですし、殿下の婚約者様ですから」


 司書見習いは本気でそう言っていた。


 悪意はなかった。


 リディアーヌは少しだけ唇を開いた。


 いいえ。


 そうではないわ。


 名前を呼ぶことは、失礼ではない。


 わたくしの名前は、呼ばれるためにある。


 そう言いたかった。


 けれど、その言葉は喉の途中で止まった。


 自分の名前を呼んでほしいと頼むことの方が、ひどく礼を欠くように思えた。


「構いません」


 結局、そう答えた。


「いつものように呼んでください」


 司書見習いは安心したように笑った。


「ありがとうございます、オルヴェイン様」


 その夜、リディアーヌは初めて日記に自分の名前を書いた。


 わたくしは、リディアーヌ・オルヴェイン。


 書いた瞬間は、何も起きなかった。


 インクは黒く、紙は白く、文字は整っていた。


 けれど翌朝、日記を開くと、その一文だけが少し薄くなっていた。


 紙に水を落としたように、文字の輪郭が滲んでいた。


 不思議に思って指でなぞると、乾いている。


 インクは剥がれない。


 ただ、読みにくい。


 彼女はしばらく眺めてから、日記を閉じた。


 疲れているのだと思った。


 王妃教育が増えていた。


 慈善基金の整理も任されていた。


 妹の婚約準備も重なっていた。


 疲れれば、文字もぼやけて見える。


 そういうことにした。


 その頃、学院には聖女候補が入学してきた。


 アメリア・フェルン。


 伯爵家の庶子として育った娘で、癒やしの力を持つと教会から推薦された。


 明るく、よく笑い、人との距離が近かった。


 王太子エルネストは、彼女の気安さを好んだ。


「アメリアは面白いね」


 王太子は彼女を名前で呼んだ。


 最初にそれを聞いた時、公爵令嬢は胸の奥で小さな音を聞いた。


 割れたのではない。


 落ちたのでもない。


 ただ、どこかで細い糸が切れたような音だった。


 アメリア。


 王太子の声は、自然だった。


 呼び慣れているわけではないはずなのに、名前が口の中で柔らかく転がっていた。


「アメリア、こちらへ」


「アメリア、それは違うよ」


「アメリア、無理をしないで」


 王太子は何度も呼んだ。


 名を呼ばれるたび、聖女候補は笑った。


 その笑みには、自分がそこにいることを疑わない者の強さがあった。


 公爵令嬢は、それを見ていた。


 羨ましいとは思わなかった。


 思わないようにした。


 だが、その日から日記の文字は少しずつ薄くなった。


 わたくしは、リディアーヌ・オルヴェイン。


 その一文は、毎日書いた。


 毎日書いたのに、翌朝には必ず薄くなっていた。


 やがて、リディアーヌの部分だけが読みづらくなった。


 オルヴェインは残る。


 公爵家の名は残る。


 けれど、その前にあるはずの個人の名だけが、霧のようにかすれていく。


 彼女は何度も書き直した。


 丁寧に。


 強く。


 インクを多めに含ませて。


 それでも翌朝には薄くなった。


 秋の終わり、王宮から届いた舞踏会の招待状に、最初の異変が起きた。


 宛名は美しい筆跡で書かれていた。


 オルヴェイン公爵家令嬢殿。


 それだけだった。


 父は何も言わなかった。


 母も何も言わなかった。


 使用人も当然のように招待状を銀盆に載せた。


 公爵令嬢は、その宛名を見つめた。


「これは、わたくし宛てですか」


 侍女は不思議そうに瞬きをした。


「はい、お嬢様」


「名前がありません」


「ですが、お嬢様宛てでございます」


「どうして分かるのですか」


「オルヴェイン公爵家令嬢とありますので」


「妹かもしれないでしょう」


 侍女は少し困った顔をした。


「妹君はまだ社交界にお出になりませんから」


「そう」


 それ以上、言うことはなかった。


 公爵令嬢は招待状を受け取り、自室へ戻った。


 机の引き出しから日記を出す。


 わたくしは、リディアーヌ・オルヴェイン。


 前夜に書いたその文は、もうほとんど読めなかった。


 オルヴェインだけが濃く残っていた。


 彼女は羽根ペンを取り、もう一度書こうとした。


 けれど、最初の文字が出てこなかった。


 リ。


 そう書こうとして、手が止まる。


 リ、の次は何だっただろう。


 分からないはずがない。


 自分の名前だ。


 生まれた時から持っている。


 洗礼で呼ばれた。


 産着に縫われていた。


 古い侍女が何度も話してくれた。


 リディアーヌ。


 そう、リディアーヌ。


 頭の中では分かる。


 けれどペン先は動かない。


 紙の上に黒い点だけが落ちた。


 その黒い点は、ゆっくりと広がった。


 まるで紙が小さな口を開け、インクを飲み込んでいるようだった。


 彼女はペンを置いた。


 指先が冷たかった。


 翌日、衣装部屋の奥にしまわれていた産着を確認した。


 銀糸の刺繍は、ほどけていた。


 完全にではない。


 家名は残っている。


 オルヴェイン。


 けれど、名前の部分だけが、誰かに引き抜かれたように消えていた。


 布には小さな針穴だけが並んでいた。


 侍女は、それを見て首を傾げた。


「古いものですから、糸が傷んだのでしょう」


「この部分だけ?」


「お嬢様のお名前の部分は、よく触れておられたのかもしれません」


「わたくしは触れていません」


「では、虫かもしれません」


 虫。


 それで説明できるなら、どれほど楽だっただろう。


 公爵令嬢は産着を畳んだ。


 布の上に、針穴が残っていた。


 そこに何かがあったことだけは分かる。


 けれど、何があったのかは分からない。


 名前を失うというのは、そういうことなのかもしれない。


 跡は残る。


 空白も残る。


 けれど、呼ぶための形だけが消える。


 それから、奇妙なことは増えていった。


 学院の名簿で、彼女の名前だけが薄くなった。


 教師は眼鏡を直しながら、次のように出席を取った。


「オルヴェイン公爵令嬢」


 教室の誰も驚かなかった。


 公爵令嬢も返事をした。


「はい」


 王宮の席次表では、名前の欄が空白になっていた。


 ただし、肩書きは細かく残っていた。


 オルヴェイン公爵家長女。


 王太子殿下婚約者。


 王妃教育履修者。


 慈善基金臨時管理補佐。


 それだけで、席を間違える者はいなかった。


 だから問題にはならなかった。


 問題にならないものは、誰も直さない。


 その冬、王太子エルネストとアメリアの距離はさらに近くなった。


 聖女候補は、王太子を名前で呼ぶことがあった。


「エルネスト様」


 周囲は微笑ましいものとして受け止めた。


 少し砕けてはいるが、聖女候補だから許される。


 癒やしの力を持つ少女だから、王太子の緊張をほぐしている。


 そう説明された。


 公爵令嬢は何も言わなかった。


 言えば嫉妬になる。


 言えば狭量になる。


 言えば、王太子妃にふさわしくない。


 その代わり、王太子の予定表を整えた。


 アメリアが王太子と会う時間が長くなれば、王太子の課題が滞る。


 課題が滞れば、王妃教育の場で彼女が補わなければならない。


 王太子の側近が手配を忘れれば、彼女が先に使者を出す。


 聖女候補が慈善訪問で失言すれば、彼女が後から寄付の名目を調整する。


 それは怒りではなかった。


 嫉妬でもなかった。


 ただ、役割だった。


 殿下の婚約者なら、そうする。


 未来の王太子妃なら、そうする。


 オルヴェイン公爵家の長女なら、そうする。


 そうしているうちに、彼女の中で、名がさらに遠くなっていった。


 ある夜、鏡の前で自分に向かって言ってみた。


「わたくしは、リディアーヌ・オルヴェイン」


 声は出た。


 たしかに出た。


 けれど鏡の中の女の唇は、途中から動いていなかった。


 リディアーヌ。


 その部分だけ、鏡の中では沈黙していた。


 彼女はもう一度言った。


「わたくしは、リディアーヌ・オルヴェイン」


 鏡の女は、静かにこちらを見返している。


 口元は、オルヴェインの時だけ動いた。


 怖いと思った。


 初めて、はっきりとそう思った。


 彼女は侍女を呼んだ。


 入ってきた侍女は、いつも通り頭を下げた。


「お呼びでしょうか、お嬢様」


「わたくしの名前を呼んで」


 侍女は固まった。


 公爵令嬢は鏡の前に立ったまま、もう一度言った。


「今ここで、わたくしの名前を呼んでちょうだい」


 侍女の顔から血の気が引いた。


「恐れ多いことでございます」


「命令です」


「お嬢様」


「名前を」


「お嬢様、どうか」


 侍女は泣きそうな顔になった。


 まるで、主人から不可能なことを命じられたように。


 公爵令嬢は、その顔を見て理解した。


 侍女は知らないのではない。


 呼べないのだ。


 口にしようとすると、礼儀が邪魔をする。


 身分が邪魔をする。


 習慣が邪魔をする。


 長年積もった「お嬢様」が、名の前に立ちふさがる。


 彼女は小さく息を吐いた。


「下がって」


 侍女は深々と頭を下げ、逃げるように部屋を出た。


 その後、公爵令嬢はもう誰にも名前を呼んでほしいとは頼まなかった。


 春になり、断罪の夜が来た。


 それは王立学院の卒業記念舞踏会だった。


 大広間には花と灯りが満ちていた。


 楽団はまだ明るい曲を奏でていた。


 貴族の子息令嬢たちは、それぞれの未来を背負って微笑んでいた。


 その中央で、王太子エルネストは聖女候補アメリアの手を取っていた。


 公爵令嬢は少し離れた場所に立っていた。


 婚約者として隣に立つはずだった。


 しかし王太子は彼女を呼ばなかった。


 名を呼ばないだけではない。


 肩書きすら、その瞬間は呼ばなかった。


 ただ、視線でそこに立っていろと告げた。


 だから彼女は立っていた。


 役割を果たす者は、呼ばれなくても位置につく。


 曲が終わると、王太子は広間の中央へ進み出た。


 周囲がざわめいた。


 アメリアは不安そうに王太子を見上げていた。


 王太子はその手を軽く握り、声を張った。


「オルヴェイン公爵令嬢」


 広間の空気が止まった。


 公爵令嬢は、ゆっくりと顔を上げた。


 王太子は続けた。


「君との婚約を、この場をもって破棄する」


 悲鳴が上がった。


 誰かが扇を落とした。


 誰かが息を呑んだ。


 父は眉を動かした。


 母は口元に手を当てた。


 妹は青ざめた。


 弟は何が起きているのか分からない顔をしていた。


 公爵令嬢だけが、静かだった。


 王太子は用意していた言葉を並べた。


 聖女候補への嫉妬。


 慈善基金への不当な介入。


 側近たちへの冷淡な態度。


 学院内での威圧。


 王太子の自由を縛ろうとしたこと。


 未来の王太子妃という立場を盾に、周囲を従わせようとしたこと。


 どの言葉も、どこかで聞いたものだった。


 彼女が補正した失言。


 彼女が整えた寄付。


 彼女が注意した礼法違反。


 彼女が埋めた王太子の遅れ。


 それらは全て、見方を変えれば罪になった。


 役割として行ったことは、人格が嫌われた時、簡単に悪意へ変わる。


 公爵令嬢は、それを初めて知った。


 王太子は最後に言った。


「君は、王太子妃にふさわしくない。悪役令嬢のように、アメリアを苦しめた」


 悪役令嬢。


 その言葉が広間に落ちた瞬間、どこかで小さく笑う声がした。


 誰の声かは分からない。


 もしかすると、彼女自身だったのかもしれない。


 公爵令嬢は一歩前へ出た。


 周囲が身構えた。


 泣くと思った者もいた。


 怒ると思った者もいた。


 潔白を訴えると思った者もいた。


 けれど彼女は、ただ王太子を見た。


「殿下」


 その声は、驚くほど穏やかだった。


「最後に、一つだけお願いがございます」


 王太子は警戒したように顎を引いた。


「何だ」


「わたくしの名前を、呼んでくださいませ」


 広間は静まり返った。


 王太子の眉が寄った。


「何を言っている」


「わたくしの名前です。殿下は今、わたくしとの婚約を破棄なさいました。でしたら最後に、婚約者であった女の名前を、呼んでくださいませ」


「この期に及んで、何を」


「呼んでくださいませ」


 王太子の唇が動いた。


 しかし、音は出なかった。


 彼は苛立ったように息を吸った。


「オルヴェイン公爵令嬢」


「それは家と身分です」


「君」


「それは名前ではありません」


「私の婚約者だった者」


「それも役割です」


 王太子の顔が赤くなった。


 怒りではない。


 焦りだった。


 彼は本当に、思い出せなかった。


 覚えていなかったのではない。


 名簿を見れば分かる。


 婚約書にも書いてある。


 王宮の記録にも残っている。


 だが、その場で、目の前に立つ相手へ向けて呼ぶ名としては、出てこなかった。


 公爵令嬢は視線を横へ向けた。


「お父様」


 父がびくりとした。


「わたくしの名前を、呼んでくださいませ」


 父は口を開いた。


「長女よ」


 そこで止まった。


 広間の誰もが、それを聞いた。


 父は自分の失敗に気づき、顔を歪めた。


「いや、違う。娘よ」


「それも名前ではありません」


 母へ視線を向ける。


「お母様」


 母は涙目になっていた。


「お姉様、もうやめてちょうだい」


 妹が小さく声を漏らした。


「姉様……」


 弟も続いた。


「姉上……」


 公爵令嬢は、少しだけ笑った。


 その笑みは、いつもの礼法通りのものだった。


 完璧で、静かで、どこにも隙がなかった。


 だからこそ、怖かった。


「アメリア様」


 聖女候補は肩を震わせた。


「あなたは、わたくしの名前をご存じですか」


 アメリアは唇を噛んだ。


「公爵令嬢様……」


「ええ」


 公爵令嬢は頷いた。


「あなたも、そう呼びましたね」


 誰も動けなかった。


 王太子の側近が一人、慌てて名簿を取りに行こうとした。


 だが、その足が止まった。


 名簿を見て呼ぶ名に、意味があるのか。


 その場の全員が、同じことに気づいていた。


 彼女は忘れられていたのではない。


 ずっと使われてこなかったのだ。


 使われない名は、埃をかぶる。


 埃をかぶった名は、読まれなくなる。


 読まれない名は、やがて消える。


 公爵令嬢は、自分の胸に手を当てた。


 そこに名前があったはずだった。


 洗礼の水を受けた時、銀糸の産着を着ていた時、古い侍女が語ってくれた時、たしかにあった。


 けれど今、胸の奥は空白だった。


 自分でも思い出せなかった。


 リ。


 そこまでは浮かぶ。


 その先がない。


 白い霧の向こうに、誰かが立っている。


 その誰かは、たぶん自分だった。


 けれど呼べない。


 呼べないものは、戻ってこない。


「そうですか」


 公爵令嬢は言った。


「では、私は本当に、悪役令嬢だったのですね」


 王太子が顔を上げた。


「何を」


「名前がないのですもの。残った役割が、それだけなら、そうなのでしょう」


 広間の灯りが、一つ揺れた。


 窓は閉まっている。


 風は入っていない。


 それなのに、シャンデリアの炎が細く震えた。


 公爵令嬢の影が床に伸びた。


 影は人の形をしていなかった。


 ドレスの裾のようでもあり、黒い水のようでもあり、古い書類に落ちたインクの染みのようでもあった。


 父が一歩近づこうとした。


「長女」


 その呼び名に、影が揺れた。


 母が泣きながら手を伸ばした。


「お姉様」


 影がさらに濃くなった。


 王太子が呆然と呟いた。


「婚約者……」


 シャンデリアの炎が、また一つ消えた。


 聖女候補が震える声で言った。


「悪役令嬢様」


 その瞬間、広間のすべての灯りが一斉に暗くなった。


 完全な闇ではない。


 人の顔が辛うじて見える程度の薄暗さ。


 その中で、中央に立つ女だけが白く浮かび上がっていた。


 公爵令嬢だったものは、静かに礼をした。


 完璧な礼だった。


 誰もが見惚れるほど、美しかった。


「承りました」


 声は、少し遠かった。


「これより私は、皆様が呼んだものになります」


 誰かが悲鳴を上げた。


 その声に重なるように、床に落ちた影が広がった。


 黒い影は彼女の足元から大広間の隅へ流れ、壁を這い、扉の下へ染み込んだ。


 王太子が叫んだ。


「捕らえろ!」


 護衛が動いた。


 だが中央にいたはずの女は、もうそこにいなかった。


 残っていたのは、白い手袋だけだった。


 片方だけ。


 指先まで整った、未来の王太子妃にふさわしい手袋。


 その甲には、かすれた銀糸の跡があった。


 文字には見えない。


 ただ、何かを縫い取っていた跡だけが残っていた。


 断罪の夜の後、オルヴェイン公爵家は沈黙した。


 王宮も沈黙した。


 学院も沈黙した。


 王太子の婚約破棄は正式なものとして処理されたが、その相手の名は記録から抜け落ちていた。


 婚約破棄通知には、こう書かれていた。


 オルヴェイン公爵家長女との婚約を解消する。


 王宮書記官は何度も首をひねった。


 正式文書として、個人名がないのはおかしい。


 しかし過去の婚約書を開いても、名前の欄だけが白かった。


 羊皮紙は破れていない。


 削られた跡もない。


 ただ、初めからそこだけ空いていたように白い。


 オルヴェイン公爵家の家系図にも、長女の欄は残っていた。


 生年。


 洗礼日。


 婚約日。


 王妃教育開始年。


 学院入学年。


 慈善基金管理補佐就任。


 全て記されている。


 名前だけがない。


 父は、その欄を何時間も見つめた。


 長女。


 娘。


 我が家の最初の子。


 それらの言葉は浮かぶ。


 だが名は浮かばない。


 母は娘の部屋に入れなくなった。


 部屋には、薄い青のドレスが掛けられていた。


 机の上には日記があった。


 日記の全ページに、同じ一文が書かれていた。


 わたくしは、     ・オルヴェイン。


 空白はどのページにもあった。


 不自然なほど、同じ幅で。


 母はその空白を指でなぞり、泣いた。


「お姉様」


 そう呼んだ瞬間、部屋の鏡が曇った。


 鏡の中に、白い影が立っていた。


 母は悲鳴を上げて倒れた。


 それ以来、オルヴェイン公爵家では「お姉様」という言葉が禁じられた。


 けれど禁じても、呼び名は消えなかった。


 妹が針仕事を間違えると、机の上に直された布が置かれていた。


 誰も触れていないはずのリボンが、翌朝には美しく結び直されていた。


 弟が礼法の手順を間違えると、背後から冷たい指で肩を押されることがあった。


 父の執務室では、不備のある書類に赤い印が入るようになった。


 筆跡は見覚えがあった。


 正確で、整っていて、余白まで美しい。


 父はそれを見るたび、顔色を失った。


 王宮でも同じことが起きた。


 王太子エルネストは、アメリアとの婚約を望んだ。


 しかし王妃教育は進まなかった。


 アメリアは善良だったが、書類を読むのが遅く、儀礼の順を覚えるのも苦手だった。


 王太子は彼女を責めなかった。


 責めずに、ふと呟いた。


「前の婚約者なら、もう少し早く」


 その夜、王太子の机に積まれていた書類が全て処理されていた。


 誤字は直され、日付は整えられ、必要な返信文案まで添えられていた。


 王太子はそれを見て、椅子から転げ落ちた。


 書類の末尾には署名がなかった。


 ただ、余白に一言だけ書かれていた。


 殿下の婚約者。


 王太子は震えながら、その紙を燃やした。


 しかし翌朝、同じ文案が清書されて机に戻っていた。


 それから彼は、「前の婚約者」という言葉を口にしなくなった。


 だが人は、思わないようにすることほど思ってしまう。


 儀礼が滞るたび。


 基金が乱れるたび。


 側近が判断を誤るたび。


 王太子の頭には、呼び名だけが浮かんだ。


 君。


 婚約者。


 隣に立つ人。


 名前はない。


 だから消えない。


 学院では、卒業後も奇妙な噂が残った。


 礼法室で椅子の位置を間違えると、誰もいないはずの背後から声がする。


「その席ではありません」


 図書室で王妃教育の資料を雑に扱うと、棚の奥から白い手が伸びる。


 慈善基金の帳簿をごまかそうとすると、インクが勝手に広がり、不正な数字だけを黒く塗り潰す。


 下級生たちはそれを恐れて、こう呼んだ。


 公爵令嬢様が見ている。


 名を知らないから、そう呼ぶしかない。


 そう呼ぶたびに、何かが応えた。


 壁際に白いドレスが揺れる。


 廊下の奥で完璧な礼をする女が見える。


 鏡の中に、名のない令嬢が立っている。


 彼女は何もしない。


 呼ばれた役割を果たすだけだ。


 公爵令嬢と呼べば、格式の乱れを直す。


 長女と呼べば、家の失敗を補う。


 婚約者と呼べば、王太子の不足を埋める。


 悪役令嬢と呼べば、誰かの罪を背負って現れる。


 呼んだ者は、必ず後悔した。


 なぜなら、役割には終わりがない。


 名前があれば、呼び止められた。


 名前があれば、謝れた。


 名前があれば、弔えた。


 けれど誰も彼女の名を呼べなかった。


 だから誰も、彼女を終わらせることができなかった。


 数年後、王宮の古い記録庫で、一人の若い書記官が洗礼記録を見つけた。


 王都北区の聖堂記録。


 そこには、オルヴェイン公爵家長女の洗礼について書かれていた。


 生年月日。


 父の名。


 母の名。


 立会人の名。


 司祭の名。


 そして、赤子の名。


 その欄は白かった。


 書記官は首を傾げた。


 古い記録にしては、そこだけ汚れがない。


 むしろ、新しい紙を貼ったように白い。


 彼は顔を近づけた。


 その時、背後で衣擦れの音がした。


 振り向くと、誰もいなかった。


 ただ、書架の間に白いものが消えるのが見えた気がした。


 書記官は息を呑み、記録を閉じようとした。


 その瞬間、空白の欄に、黒い染みが浮かんだ。


 文字ではない。


 インクでもない。


 細い線が寄り集まり、ほどけ、また寄り集まる。


 まるで、消えた名前が自分の形を思い出そうとしているようだった。


 書記官は震える手で、燭台を近づけた。


 染みは少しずつ形になった。


 リ。


 そこまで浮かんだ。


 だが、次の瞬間、記録庫の奥から声がした。


「公爵令嬢様」


 誰かが、そう呼んだ。


 王宮の侍女だった。


 棚の整理を手伝っていたのだろう。


 その呼び声に、空白の文字はすぐに崩れた。


 リ、の形はほどけ、紙の白に飲まれた。


 書記官は声を出せなかった。


 背後で、女の気配が近づいた。


 白い手袋の指が、彼の肩越しに伸びる。


 空白の欄を、そっと撫でる。


 そして、耳元で声がした。


「それで、通じますものね」


 書記官はその場で気を失った。


 目覚めた時、記録は閉じられていた。


 洗礼記録の該当ページには、赤い印が一つだけ増えていた。


 訂正不要。


 王宮はその記録を封じた。


 オルヴェイン公爵家は長女の話をしなくなった。


 王太子は王位継承権を弟に譲り、地方の離宮へ下がった。


 聖女候補だったアメリアは教会へ戻り、生涯誰の名も略さず呼んだという。


 妹は結婚後、自分の子どもたちを必ず名前で呼んだ。


 弟は家督を継いだ後、使用人名簿を毎年自分で読み上げた。


 けれど、それで何かが許されたわけではない。


 夜になると、王宮の廊下には白い影が立つ。


 舞踏会で誰かが礼を間違えると、壁際から冷たい視線を感じる。


 公爵家で誰かが「長女がいれば」と漏らすと、翌朝には問題が片づいている。


 片づきすぎている。


 余白まで整い、逃げ道まで塞がれ、誰の言い訳も残らないほど完璧に。


 人々はようやく気づいた。


 彼女は恨んでいるのではない。


 怒っているのでもない。


 ただ、呼ばれたものになっただけなのだ。


 長女。


 お姉様。


 公爵令嬢。


 婚約者。


 未来の王太子妃。


 悪役令嬢。


 彼女は、その全てになった。


 そして、どれでもないものには戻れなかった。


 名前を呼ばれなかった者は、名前以外のものだけでできていく。


 役割は残る。


 責任も残る。


 期待も残る。


 失敗の押しつけ先も残る。


 けれど、その奥にいた一人の娘だけが、どこにも残らない。


 昔、リディアーヌ・オルヴェインという名は、たしかにあった。


 白い産着に、銀糸で縫い込まれていた。


 洗礼の記録にも、たしかにあった。


 誰かが一度だけ、その名を呼んだ。


 赤子は泣いた。


 だが、その後、誰も呼ばなかった。


 誰も呼ばなかったので、名はほどけた。


 ほどけた名は紙から消え、布から消え、記憶から消え、口から消えた。


 最後に残ったのは、呼ばれ続けた役割だけだった。


 だから今も、王宮で誰かが言う。


「公爵令嬢様」


 すると、どこかで白い裾が揺れる。


 誰かが言う。


「悪役令嬢」


 すると、鏡の奥で女が微笑む。


 誰も彼女の名を呼ばなかった。


 だから彼女はとうとう、名前以外のすべてになった。

今回は、「名前を呼ばれない」という、日常の中では見過ごされやすい怖さを悪役令嬢ものに寄せて書きました。


悪意を向けられたわけではない。


暴力を振るわれたわけでもない。


ただ、ずっと役割名で呼ばれ続ける。


長女。


お姉様。


公爵令嬢。


婚約者。


未来の王太子妃。


どれも間違いではないけれど、どれも本人の名前ではありません。


便利な役割として扱われ続けるうちに、本名だけが少しずつ薄れていく。本人ですら、自分が何者だったのか分からなくなる。


そういう「失われ方」は、派手な断罪よりも怖いのではないかと思いました。


この話の悪役令嬢は、悪意でそうなったわけではありません。


最後まで、呼ばれたものになっただけです。


名前を呼ぶことは、その人を一人の人間として見ることでもあるのかもしれません。

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― 新着の感想 ―
お化けや血が出るわけでもないのに怖い。名前が呼ばれない限り、彼女はずっと存在し続けるのでしょうか。
教師が使ってた名簿にだけ名前が残ってそう
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