重装歩兵ソクラテス
アルキビアデスが死にかけた時、割って入ってきたのは、ひどく醜い中年の重装歩兵だった。
ポテイダイア城外。乾いた土煙の中、若き貴公子アルキビアデスは敵の傭兵に囲まれていた。
前に二人。横に三人。後ろに二人。
喉を狙う短剣が光る。盾を持つ腕はもう痺れていた。
こんなところで死ぬはずがない。
そう思った直後、膝が揺れた。
敵の棍棒が肩口を打つ。視界が白くはじけた。誰かが笑い、誰かが「高く売れそうな鎧だ」と言った。
次の一撃で終わる。
そうわかった瞬間、円い青銅の大盾が横から叩き込まれた。
ごつん、と鈍い音がして、短剣が弾かれる。
つづいて槍が一閃した。
一人。
喉を貫かれた傭兵が、声も出せず崩れる。
さらにもう一人。
盾の陰から伸びた穂先が、目の下から頭蓋へ潜り込んだ。
敵がたじろいだ。
その中央に立っていた男を見て、アルキビアデスは一瞬、誰に助けられたのかわからなかった。
髪は薄い。鼻は潰れ、目は不格好に突き出ている。若くもない。立派にも見えない。
英雄譚に出てくる顔では、まったくなかった。
だが、その立ち姿だけは異様だった。
大盾と長槍の重みが、最初から体の一部だったように静かで、ぶれない。
「立てるか、若者よ」
男は言った。
アルキビアデスは歯を食いしばる。
「……立てる」
「よろしい」
中年兵はそれだけ言って、敵の先頭へ目を向けた。
髭面の傭兵長が槍を構え、唾を吐く。
「何者だ、てめえ」
「アテナイの重装歩兵だ」
「見ればわかる」
「では一つ賢くなったな」
傭兵たちが顔を見合わせた。
戦場には似つかわしくない声だった。
怒鳴りもせず、凄みも利かせず、まるで市場で魚の値段でも確かめるような口ぶりで、その男は敵と話している。
髭面は顔をしかめた。
「死にぞこないが。ひとりで俺たちを止める気か」
「ひとりではない」
男はわずかに顎を引いた。
「君たちが、自分で止まる」
「何?」
アルキビアデスは意味を理解する前に、男の次の言葉を聞いた。
「死とは何だと思う?」
傭兵長が目を剥いた。
「……は?」
「君はいま、この若者を殺そうとしていた。ならば知っているはずだ。死とは何か」
「ふざけてるのか」
「いや、たずねている」
あまりに真顔だったので、傭兵長は逆に怒鳴り返す間を失った。
「死は終わりだ!」
「ほう」
男はうなずく。
「では今この瞬間、お前がまだ生きている根拠は?」
傭兵長が詰まる。
ほんの一拍。
その一拍で十分だった。
盾の陰から槍が走る。
短く、鋭く、無駄がない。
穂先は傭兵長の喉へ吸い込まれ、次の瞬間には血が噴いていた。
男は槍を引き抜き、静かに言った。
「考え込むには、少し遅かったな」
傭兵たちが一斉に後ずさる。
アルキビアデスは呆然と、その背中を見た。
問うた。
相手を考えさせた。
足を止めた。
そして刺した。
剣技でも怪力でもない。
問答そのものが戦術になっていた。
「来るぞ」
中年兵が言う。
「呼吸を整えろ。怒りは喉を焼く」
「何だそれは?」
「昼に君がそう言っていた」
こんな状況で、そんなことを言うのか。
アルキビアデスは肩の痛みも忘れて男を睨んだ。
「貴様、名は?」
中年兵は盾を構えたまま答えた。
「ソクラテス」
*
二人は後退した。
逃げるのではない。重装歩兵の足取りで、一歩ずつ引く。
敵が踏み込めば槍が出る。ためらえば距離が開く。
その間も、アルキビアデスの頭にはさっきの一幕が何度もよぎった。
ーー死とは何か?
ーーお前がまだ生きている根拠は?
そんなものを戦場で問うか、普通。
だが普通でないからこそ、敵は止まった。
そして止まった敵は死んだ。
追撃に出た軽装兵が一人、側面から飛び込んでくる。
アルキビアデスは反射的に盾をぶつけ、体勢を崩した相手の胸を槍で突いた。
手に伝わる感触で、自分もまた生き延びるために人を刺したのだと知る。
「よそ見をするな」
ソクラテスが言った。
「死にたいなら止めはしないが」
「死にたくない!」
「なら結構」
やがて味方の陣列が見えた。アテナイの重装歩兵が前へ出ると、敵はそれ以上追ってこなかった。
罵声だけ残して城壁の方へ下がっていく。
アルキビアデスはようやく息を吐いた。
兜を脱ぎ、肩を押さえる。痛い。腹も立つ。だが何より、納得がいかなかった。
「おい」
ソクラテスは自分の盾についた血を布でぬぐっていた。
「何だ?」
「さっきのは何だ?」
「敵襲だな」
「そうじゃない。問答だ。どうして戦場であんなものをやる?」
「どうしてだと思う?」
「私が聞いている」
「ではまず、君の考えを聞こう」
「人を食ったような真似を……!」
「食ってはいない。せいぜい刺しただけだ」
近くの兵が吹き出した。
アルキビアデスはますます面白くない。
「貴様!」
「怒るな。喉が焼ける」
「その話はもういい!」
ソクラテスは肩をすくめた。
「なら真面目に答えよう。あれは敵の足を止めるためだ」
「それは見ればわかる」
「では二つ目だ。敵に、自分が何をしているか考えさせるためだ」
「考えさせる?」
「人は怒っている時や勢いに乗っている時、自分が何をしているかを忘れる。戦場では特にな」
ソクラテスは布をたたみ、腰に差した。
「だから問う。お前は何をしている? 何を知っている? 何を正しいと思っている? そうすると多くの者は、自分の中に答えがないことに気づく」
「それで止まるのか」
「止まる」
「そしてお前が刺す」
「そういうこともある」
平然と言うので、アルキビアデスは思わず笑いそうになった。だが笑っていい話ではない。
「卑怯だと思わんのか?」
「何がだ?」
「力で戦わず、言葉で揺さぶることがだ」
ソクラテスは少し考えた。
「では聞くが、槍で突くのは正々堂々で、盾で殴るのは卑怯か?」
「それは……」
「重装歩兵が隊列を組むのは? 数で押すのは? 高地を取るのは? 伏兵は?」
「話をずらすな」
「ずらしてはいない。君はただ、自分の慣れたやり方だけを正しいと思っている」
アルキビアデスは黙った。
図星だった。
若く、美しく、家柄もいい男は、正面から勝つのが似合う。
敵の目を見て、堂々と突き、武勲を立てる。それが英雄の形だと疑ったことがなかった。
だがこの醜い中年兵は、その型から平然とはみ出している。
「君は先ほど、膝をついた」
ソクラテスが言った。
アルキビアデスの顔が強張る。
「……見たのか?」
「見た。あれは恥ではない」
「慰めるつもりなら結構だ」
「慰めではない。事実だ」
ソクラテスはアルキビアデスを見た。
「神は膝をつかぬ。獣は考えぬ。人間は、膝をつき、考え、また立つ」
「私は神のつもりはない」
「だが、そう見られたい顔はしている」
アルキビアデスは舌打ちした。
「本当に人を怒らせるのが上手いな」
「そうか。なら戦でもっと役立てるべきだな」
また兵たちが笑う。
アルキビアデスは顔をしかめたが、不思議と本気では怒れなかった。
助けられた直後だからだけではない。
この男の言葉は苛立たせるが、侮辱はしていない。
むしろ、どこかでこちらを試している。
その感じが妙に引っかかった。
*
その日の陣営は、昼の小競り合いの話で持ちきりになった。
若きアルキビアデスが敵に囲まれたこと。そこへ奇妙な中年兵が現れたこと。戦場でいきなり問答を始め、相手が考え込んだ隙に喉を突いたこと。
噂は夕暮れまでに好き放題ふくらんだ。
「敵が十人まとめて黙りこんだらしい」
「いや三十人だ」
「最後には城壁の上の守兵まで揉め始めたそうだ」
「そのうちポセイドンにも問いかけるぞ、あの男は」
笑いが起きる。
包囲戦では、兵は待つ。待つ間、食い、飲み、賭け、寝て、そして喋る。
アルキビアデスは焚き火のそばで水を飲みながら、その笑い声を聞いていた。
気分は複雑だった。
自分が死にかけた話が広まるのは癪だ。だがそれ以上に癪なのは、話の主役が自分ではなく、あの中年兵になっていることだった。
少し離れた場所で、ソクラテスは黒パンをちぎっていた。まるで自分の噂など耳に入らぬ顔である。
アルキビアデスは立ち上がった。
「おい、ソクラテス」
「何だ、若者よ」
「若者よはやめろ」
「では、美しい若者よ」
「もっとやめろ」
近くの兵が吹き出す。アルキビアデスはうんざりしながら、ソクラテスの向かいに座った。
「今日の件だ」
「君が膝をついた件か」
「そこから離れろと言ったはずだ」
「では、助けた件か」
「そうだ」
アルキビアデスは息をついて言った。
「戦功の記録がつくだろう。あの場で敵の包囲を破ったのはお前だ。私が証言する」
ソクラテスは黒パンをかじった。
「いらぬ」
「何?」
「その功は君が持て」
アルキビアデスは聞き間違いかと思った。
「ふざけるな!」
「ふざけてはいない」
「私は施しを受ける趣味はない」
「施しではない。判断だ」
「どう違う?」
ソクラテスは少し首をかしげた。
「君の方が、この先、武勲を使う」
「この先?」
「そうだ」
焚き火の火が、ソクラテスの目に揺れた。
「君は放っておいても前へ出る。人より先へ、時代より先へ、善悪の区別も曖昧な場所へ。そういう者は、若いうちに武勲の重さを知っておいた方がいい」
アルキビアデスは鼻で笑おうとして、できなかった。
お世辞ではないとわかったからだ。
この男は褒めているのではない。値踏みしている。
「買いかぶりすぎだ」
「そうかもしれん」
「私を今日見ただけで、何がわかる?」
アルキビアデスの問いに、ソクラテスは平然と答えた。
「昼、お前は水がぬるいと怒っていた」
「……聞いていたのか」
「耳があるのでな」
「最悪だな」
「いや、若いということだ」
アルキビアデスは眉をひそめた。
たかが水だ。だがこの男は、そんな些事から人を見るらしい。
「たかが水だろ?」
「そうだな。だが人は、たかが水、たかが女、たかが名誉、たかが侮辱で、自分を丸ごと見せる」
「私は見せたつもりはない」
「見えていた」
「嫌な男だ」
「よく言われる」
ソクラテスはまた黒パンをちぎる。
質の悪そうなパンだった。アルキビアデスなら犬にやるのも迷う。
「貴様は何なのだ?」
「重装歩兵だ」
「それは見ればわかる」
「では一つ賢くなったな」
昼と同じ返しだった。
アルキビアデスは舌打ちしながらも、少し笑ってしまう。
「違う。そういうことではない。お前は……」
言いかけて止まった。
何と言えばいいのかわからない。
英雄ではない。賢者とも少し違う。兵士ではあるが、それだけでもない。
名誉を欲しがらず、見てくれも気にせず、なのに戦場では異様に強い。そして人を刺した直後に、死とは何かを考え続ける。
そんな人間を、アルキビアデスは初めて見た。
「私は何だと思う?」
ソクラテスが言った。
「それをこちらに聞くな」
「では、お前は何だと思っている?」
アルキビアデスは少し黙ってから答えた。
「厄介だ」
「それは正しい気がする」
ソクラテスはうなずいた。
「たいていの真実は、最初は厄介な顔をしている」
「名言のつもりか」
「いや、感想だ」
焚き火がぱちりと鳴る。
少しの沈黙のあと、アルキビアデスは低く言った。
「なぜ助けた?」
「近くにいたからだ」
「それだけか」
「それだけでは不服か?」
「不服だ」
「では付け足そう」
ソクラテスは焚き火を見ながら続けた。
「君がまだ、死ぬには惜しいほど、うるさそうだった」
アルキビアデスは吹き出した。
笑うつもりはなかった。だが笑ってしまった。肩の傷が痛み、顔をしかめる。
それを見て、ソクラテスの口元が少しだけ緩んだ。
「お前は本当に変な男だ」
「そうかもしれぬ」
「老いて、醜くて、貧乏で、しかも人を腹立たせる」
「ひどい言い草だな」
「だが戦場では強い」
「今日のところは、だ」
「私はいずれ、お前に勝つ」
言ってから、自分でも唐突だと思った。だが引っ込める気はなかった。
「何に?」
「全部にだ。弁舌で、政治で、名声で、女にもてることでも」
「最後のはすでに負けている」
「そうだろうな」
今度ははっきり笑えた。
「だが戦場でも勝つ。今日の借りは、その時に返す」
「よろしい」
ソクラテスはあっさりうなずいた。
「では、その時まで生きていろ」
「当然だ」
「人はみな、自分は当然に生き延びると思っている」
ソクラテスの声が少し低くなった。
「死ぬのはいつも他人だと思っている。だから死が目の前に来るまで、自分が生きている根拠を考えぬ」
アルキビアデスは黙った。
昼、自分はたしかに死にかけた。
その時、家柄も、美貌も、評判も、宴席での弁舌も、何の役にも立たなかった。
残ったのは、盾の重さと、息の苦しさと、死にたくないという感情だけだった。
「お前は怖くないのか」
アルキビアデスは聞いた。
「何が、だ?」
「死が」
ソクラテスは少し考えた。
「怖くないと言えば嘘になる」
「嘘をつくのも苦手そうだ」
「得意ではない。損をする」
「なら、なぜ平然としている」
「平然として見えるなら、お前がそう見ているだけだ」
ソクラテスは焚き火の薪を槍の柄で軽くつついた。
「一つ言えるのは、私は知らぬことを知ったふりはしたくない」
「死についてもか」
「死についても」
「知らぬなら、なぜ怯えぬ?」
「知らぬものすべてに怯えていたら、天幕の外に出られん」
アルキビアデスは少し笑った。
妙に腑に落ちる答えだった。
「お前はいつもそうやって人を黙らせるのか」
「違うな」
ソクラテスは首を振る。
「人は、自分の中に答えがない時に黙る。私はそれを気付かせているだけだ」
「敵にも、か?」
「敵にも」
「味方にも?」
「味方にも」
「自分にも?」
そこでソクラテスは少し目を細めた。
「主に、自分にだ」
アルキビアデスは、その言葉をすぐには笑えなかった。
この男は、人を言い負かして喜ぶ類ではない。
問いを武器にはする。だが同時に、それを自分にも向けている。
だから平然として見えるのかもしれなかった。
*
夜は更け、焚き火の周りの兵も少しずつ散っていった。
負傷兵のうめき。夜警の合図。ポテイダイアの城壁は闇に沈み、その上に星が無数に散っていた。
「ソクラテス」
「何だ?」
「昼の問いだ」
「死とは何か、か」
「そうだ」
アルキビアデスは焚き火を見つめたまま言う。
「お前はあれを敵にぶつけた。だが本当は、お前自身も答えを知らぬのだろう?」
「知らぬ」
「なら、なぜ問う?」
「知らぬから問うのだ」
「その問いに……答えは出るのか?」
「分からぬ。出るかもしれないし、出ないかもしれない」
「出ぬ問いを抱えて、何の得がある?」
ソクラテスはアルキビアデスを見た。
「安い答えで満足せずに済む」
その言葉に、アルキビアデスはしばらく返事ができなかった。
安い答え。
名誉とは賞賛のことだ。勇気とは前へ出ることだ。死とは終わりだ。
そういう言葉はわかりやすい。宴席では好まれる。民会でも通りがいい。美しい若者にも似合う。
だが今日、自分はそれでは足りないと知った。
死にかけた時、人が最後にすがるのは、もっと骨のある何かだ。
「若者よ」
ソクラテスが言った。
「何だ?」
「問いを一つ、お前に預けよう」
「勝手だな」
「そうだな。だが、そのうち要る」
「……聞いてやる。どんな問いだ?」
ソクラテスは昼と同じ調子で言った。
「なぜ私が、武勲をお前に譲ると思う?」
アルキビアデスは口を開き、閉じた。
いくつも答えは浮かぶ。
気まぐれ。老兵の余裕。名誉への無関心。若者への施し。
だがどれも、安い答えに思えた。
「……知らん」
そう答えると、ソクラテスは満足そうにうなずいた。
「結構」
「それで終わりか」
「終わりではない。そこから始まるのだ」
アルキビアデスは舌打ちしたが、もう怒ってはいなかった。
問いを抱えたまま夜を越す。
昼までなら、そんなものは鬱陶しいだけだと思っていただろう。
だが今は違う。答えを持たぬことが、妙に鮮やかなことのように思える。
焚き火の向こうに、重装歩兵ソクラテスがいる。
醜く、貧しく、名誉にも無頓着で、戦場では問答で人を止めて刺す男。
その姿を見ながら、アルキビアデスは思った。
この男は、厄介だ。
そして、自分にとって、ひどく重要な厄介さになる。
ポテイダイアの夜風が、血と灰の匂いを運んでいく。
明日もまた、城壁は高く、槍は重く、問いは答えを拒むだろう。
それでも人は立ち、考え、また前へ出る。
まだ吟味されざる明日のために。




